夏のおとこ
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まばゆい日光を手のひさしで防ぐと、それまで目がくらんで見えなかった目の前の風景が、だんだんと鮮明さをまして見えてくる。
――夏。
じりじりと太陽の照り付けるコンクリートにはかげろうがあやしげに立って揺らめいている。
彼――千田の目にだんだんと見え出したのは、ある下町の風景だった。舗装道路が彼方に向かって伸びている。下り坂だ。両脇には高圧線を張り巡らせた電柱と共に、家屋の並び。豪壮過ぎもしなければみすぼらし過ぎもしない、いわゆる中流の家並だ。二階建ての建築に、自転車数台と車一台を止めればほとんど一杯になってしまうガレージ。
〈そうだ〉、と彼は心中で呟いた。
〈今日はおれ、体の具合が悪いから、学校より前に、病院に行くことにしたんだった〉
そう思い出して洟をすすると、何とも汚らしい音が鈍く響いた。
はぁ、とため息する千田の声はこもって聞こえる。
〈しかし……暑い〉
うんざりして彼はひさしにしている手に疲れを感じて下ろすと、ポケットに突っ込んで、目線を少し上げた。そして〈あぁ〉、と嘆息した。
最近は晴れが続いている。テレビでは旱魃が懸念され、農業従事者が苦笑いでインタビューに答えているくらいだ。天気が崩れるとしても、せいぜい夕立ちの時だけだ。
すっきりと青い空には薄い雲がたなびいていた。
千田は想像した。
〈仮にここが、海に近い田舎のさびれた駅で――〉
彼の想像に用意されたロケーションは、こういう風だった。
広い海原がある。船の姿はない。彼方に島嶼の影もない。テトラポットがごろごろしているところには絶壁。その上に駅がある。何と言っても田舎の駅なので廃れ切って無人だ。ひょっとすると、最早一両の列車さえ来ないかも知れない。あずまやと見違えるほどのこぢんまりとしたその駅には何台かのベンチと、時刻表があるばかり。その時刻表は、遠目で見れば白紙同然だ。
〈――白いユーフォーみたいな帽子を被って――〉
彼が言う帽子とは、いわゆる女優帽で、クラウンの周りに長い鍔のある、成るほど確かに円盤じみた形状の帽子だ。
〈――白いワンピースを着て――〉
そのワンピースの胸部はふっくらとしている。
千田はちょうどお年頃だったのだ。
〈――アンティークな木の旅行鞄を持った女の子なんていてくれれば――〉
最高だよなぁ、と、彼はその想像をしめくくった。その声は風呂に浸かった労働者然として、しまりがなく、口は半ば開いていた。
――ブーンという音を残して、車が通り過ぎる。
彼の想像――否、妄想が掻き消えるまでは、パトロール中の警察官を待たねばいけなかった。
制服を着ているのに学校はどうしたのかと、彼はとつじょ現れた警察官に任意の質問を受けると、カーッと顔を赤くして、熱があるなどと偽って、学生証の提示の後、その場をそそくさと切り抜けた。
きょとんとした警察官は腕時計を見下ろした。朝の十一時だった。
変わった子だったなぁ、と呆れた後、警察官は、彼同様に坂道のてっぺんより下方に目を向け、夏の景色にしばし耽った。
すっきりと青い空には、育ち始めた入道雲の子がどっしりとした腰を下ろしている。また航跡を残して飛ぶ飛行機の影が、粒のように見えた。
警察官はふと、こういう風に思った。彼の口はだらしなく緩んでいた。
〈――仮にここが、海に近い田舎のさびれた駅で――〉
そこまで思った途端、ピピッという音がして、警察官はびっくりして我に返り、乗ってきたパトカーを見た。
下ろされた窓より、運転席の女性警察官がイライラした風に眉をひそめている。
「先輩、いつまでボーッとしてるんですか」
「あっ」、と返した警察官は、「あぁ、すまん。ちょっと考え事してたんだ」と、続けた――彼も、男だったのだ。
バタンとドアが閉まり、軽のパトカーは去っていく。
辺りに人気はなくなった。
夏は栄え、空一杯にその翼を広げた。
しばらくすると、あの坂道のてっぺんに、ひとつの人影が、どこからともなく現れた。
――白いワンピースに、白い女優帽。少女のようだった。
手には、木製のスーツケース。中にはいったい何が入っているのだろう?
背の低いは、その上半分が、長い鍔がかける陰影で見えない顔で、やさしげに微笑んだ。きめこまかい肌に、白く輝く歯。
だが、高所特有の強い風が駆け抜けたが早いか、少女の影は、ちょっとの跡さえ残さず、消えてしまった。
(終)




