朝の教室
「ハァっ、痴漢に遭っただぁ!」
椅子から転げ落ちそうになる友人の口を慌てて塞ぎ、僕は言った。「ちょっと、声が大きいよ」
朝の教室を見渡す。幸いにもクラスメイト達は自分達の会話に忙しくこちらに注意を向けた様子はない。
「悪い悪い」悪気があるんだかないんだかわからない調子で謝罪し、彼、宇奈月正吾は頭を言った。「でもお前、それって大丈夫だったんか?」
「そうだよ。なにかとんでもないことされなかった?」僕の隣の席に座る女子、クラスメイトであり幼馴染でもある笹野累が言う。ちなみにその席は累の席ではない。「白亞ってば男なのに妙にかわいいから、私は心配だよ」
「とんでもないことってなんだよ?」
ニヤニヤ笑いながら尋ねる正吾に対し、いつも通りの冷淡さで累が言った。「あんたの部屋のベッドの下にある本に書かれているようなことよ」
「なッ!ベッドの下になんか隠してねえし」
「隠してはいるんだ」汚物でも見るような目を正吾に向け、累は言った。「あんたみたいなのがいるから痴漢なんて下衆共がのさばるのよ、反省しなさい」
「さすがに酷くない?」
(ったく、いい加減この二人も付き合っちゃえばいいのに)
黒亞の言葉には首をかしげざるを得ない。どうにも色恋沙汰というものがよくわからない僕にはそうは思えないのだが、自称恋愛マスターである黒亞によると、どうにもこの二人はお互いなんとなく好きあっているらしい。
(好き同士だからこそイガミ合うことってのもあるのよ)
「そんなもんかな」
「ん、なんか言ったか?」
「ううん、ただの独り言」
中学一年の頃からの付き合いである正吾にも、黒亞の事を話したことはない。正吾なら案外あっさりと受け入れてくれるような気もするが、どう説明したらいいのかわからなかったため結局話しそびれてしまっている。同じような理由から累にも話したことはないが、こちらは幼稚園から付き合いのあるご近所さんなのでさすがになんとなく気づいている節もある、と黒亞が前に言っていた。
「しっかし王子様ねぇ。そんな人この学校にいたか?」
「王子様とはいっても女子の制服着ていたけどね」
「じゃあ王女様か、でもそれだとなんかイメージが違うな」
「そう、そうなんだよ」
盛り上がる男子二人に対ししばらく無言でなにやら考えていた累が不意にぽつりとつぶやいた。「もしかしたら、赤鉄先輩じゃないかな」
「あかがね先輩?」
「ああ、おれもその先輩の話なら聞いたことある」なにか思い出したらしく正吾が言った。「たしか親のどっちかがアメリカ人のハーフなんだよな」
「ハーフ……か」
それならあの髪と瞳の色にも納得がいく。
「すげぇ綺麗なんだけどすげえ変わりもんらしいぜ。その辺のイケメンよりイケメンだって学園の女子の間でファンクラブができてるって話」
「なにそれ嘘臭い」
「本当だって、姉ちゃんから聞いたんだから。ちなみに姉ちゃんの会員ナンバーは十三番な」
正吾の姉がこの学園に通う三年生だということは以前聞いたことがあった。正吾が嫌がるので会ったことはないが。
「ファンクラブの話は知らないけど、私も赤鉄先輩の噂は聞いたことがあるよ」よほど僕は興味津々な表情をしていたらしい、少し引いた様子で累は言った。「なんでも、うちの女生徒が街で不良っぽい男達に絡まれていたとき、どこからか颯爽と現れた赤鉄先輩がたった一人でその男達をなぎ倒したんだそうよ」
「なんだよそれ、そっちのほうがよっぽど嘘くさ……いえ、なんでもありませんです」
横からチャチを入れる正吾をひと睨みで黙らせ、累は話を続ける。
「他にも学園の運動部すべてに道場破りを成し遂げたとか、セクハラ発言をした男性教諭を生徒の前で殴りとばしたとか、良くも悪くも噂には事欠かない人みたいね」
「……なんだか、すごい人なんだね」
(ただの変人でしょ、それ)
笑顔が引き攣るのを自覚する。だが確かに今朝遭ったあの人は、常人とは違う不思議な気配を全身に纏っていた。今聞いた話がすべて真実だとしてもおかしくないような、強く惹きつけられるなにかがあった。
(……ふん)
黒亞の不機嫌そうな声を聞いたような気がしたが、まあ基本的にいつもそんな調子なので追及はしない。藪蛇になることが多いからだ。
「話は変わるんだけどさ、あんた達もう部活は決めたの?」
不意に累がそんなことを尋ねてくる。
「一応サッカー部に入るつもりだけど……」そう答え、正吾が聞き返す。「なんだよ急に、もしかして迷ってんのか?」
「まあね。ここってほら、なんか無駄に部活が多いじゃん」
僕達の通う四城学園は、さして深い歴史を持つわけでもない新設校だがそれゆえの自由な校風で有名であり、それを象徴するかのように大小様々な部活が活動している。部活だけではなく様々な同好会まであるそうだ。
「だな。……白亞はどうすんだ?やっぱり帰宅部か」
中学での三年間、僕は部活というものに一切所属してこなかった。興味がなかったわけではない、ただ少し怖かったのだ。団体行動というものに僕は少しだけトラウマがある。
「わからないけど、多分そうなるかな」
「もったいない。白亞は運動神経は大したことないけど勘がいいんだから、球技なんかやったら結構良い線いくと思うんだけど」
勘がいい、というのは少し違う。あれは体育の授業などでたまに起こる黒亞の気まぐれのせいだ。
「ほら、たしか部活説明会って今日だったでしょ」
「ああ、そうだっけか」
学園生活の始まるベルの音が鳴り響く。廊下を歩いてくる担任教師の姿を確認し、累は慌てて自分の席に戻っていった。
「部活……か」
(なにあんた、部活に入りたいの?)
「……わかんない、どう思う」
(そんなの知らないわよ。馬鹿じゃないの)
たしかにその通りだと思い、僕はそれこそ馬鹿みたいに苦笑したのだった。