part7
幾日か経ったある日、家に帰ると珍しく台所のシンクの所に母が立っていた。電気がついていないので真っ暗な中に母のシルエットだけが浮かんでいる。
「どうしたの?」
私が声を掛けるも母は無言でこちらに背を向けたまま動かない。
薬の為の水でも取りに来たのだろうか。ここ数日全然服んでなんかなかったのに。
「ねぇ……えっ? 何これ?」
私は近寄り母の肩を叩いた時、シンクが真っ赤に染まっている事に気付いた。
母はというと手首に包丁をあてニヤニヤと笑っていた。
「ねぇ、お母さん! 何やってるの!?」
私はとっさに母から包丁を奪った。
「ちょっと! 誰っ!? 勝手に盗らないで!! 泥棒!! 泥棒!!」
母はそう叫びながら私から包丁を奪い返そうとしてくる。
「やめて!! お母さん!! 私だよ!! 分からないの!?」
「泥棒!! 泥棒!!」
「ねぇ! お願い! やめて!!」
私の叫びは母の耳にはちっとも届かない。
「ねぇ! お兄ちゃん!!」
無意識に叫んでいた。
父はまだ入院中で、家には兄しかいない。
「助けて!! お兄ちゃん!! お母さんが!! 救急車呼んで!!」
真っ暗なリビングに私の声が響く。
返事はなかった。
ただ母の唸り声だけが我が家にこだました。
ねぇ、嘘でしょ?
声にならない哀しみが私を覆う。
私の家族は、もう、こんなにも……
もう、知らない。
私は全身の力が抜けるのを感じた。
母は何か叫びながら何度も何度も私を殴ってきたり髪の毛を引っ張ったりしてきたが、体の痛みはもうどうでもよかった。ただひたすらに耐えるのも、もううんざりだった。
握っていた包丁が掌からするりと床に滑り落ちる。母は獣のような唸り声を上げながら床に這いつくばり私の落とした包丁を探す。勿論私には一瞥だってくれず。
ぽたぽたと何かが滴る音が台所に響く。それは母の手首から滴る血なのかもしれないし、私の瞳から零れる涙なのかもしれない。もうどっちでもよかった。
私は四つん這いで這いつくばる母を背にしながら台所から出てそのまま家も出た。
兄への最後の嫌がらせのつもりでドアを思い切り閉めた。
バタン!! と響くドアの音に紛らせて「バイバイ」とだけ呟いてあげた。