最も名誉ある戦い
昨日——八月三十一日。昼。
神奈川北部某所。東京都南部の県境のすぐ下にある町。
それなりに栄えた町だ。駅近郊にはショッピングセンターや、数多くの飲食店が二百メートル先まで軒を連ねるストリート、その他にも大きな店舗が目白押しで、多くの人が絶えず往来を見せていた。夏休み最後の一日であるがゆえに、若者の姿がちらほら見られる。
しかし、駅から五百メートルも離れれば、普通の街並みに変わる。
駅付近とはうって変わって、人の通りが少ない。大きな建物といえばパチンコ屋かホームセンターくらいの地域。
そんな通りを、三人の男女が歩いていた。
細身で背格好の整った初老ほどの男。
大柄で骨太な若い男。
男二人に比べると幼児に見えるほど小柄な若い美女。
三人に共通している要素は、白人の血を持つということだ。彫りの深い顔立ちが、従来の西洋人に比べて角ばった感じが無く、どことなく丸みと滑らかさを持っていた。
「——日本人の女は体こそガリガリで俺の好みじゃねぇんだけどよぉ、挿れた時の感触が最高なんだよぉ! おまけに白人相手なら従順に股開いてくれるズベ公みてぇな女ばっかだから、手軽にヤれるしよ。まさにイエローキャブだな!」
大柄な男——エゴール・ミハイロヴィチ・レフチェンコがそう滔滔と語った。
身長は二メートル近く。ポロシャツとランニングパンツを膨らませているのは、隆々たる筋肉と太い骨。丸太のような首の上には、短い金髪とブルーアイズが輝く厳つい顔が乗っかっている。黙っていれば屈強な戦士を思わせる顔付きだが、話している言葉と口調も含めて、無頼漢じみた野卑な雰囲気が隠せていない。
「…………あんたさぁ、そういうことしか頭に無いわけ? さすが、ファンの女襲ってライセンス剥奪された元スーパーヘビー級ボクサー様は言う事が違うわねぇ。マジ女の敵。チンコ切って死ねばいいのに」
それを聞いた美女——オリガ・アントノーヴナ・ジャルコフスカヤは嫌悪感丸出しな表情で言葉を吐き返す。
エゴールとは正反対に、百五十いくかいかないかという小柄な背丈。先端辺りがウェーブがかった漆黒の長髪が、歩行に合わせて微動している。内側に秘めた抜群のプロポーションの片鱗をうっすら見せる真っ黒な半袖ドレスに、ビスクドールじみた愛らしい整い方をしつつもどこか妖艶さを感じさせる美貌。全体的に「お人形さんみたい」という言葉が真っ先に出てきそうな容貌の美女だった。
オリガの言い草に、エゴールは胴間声で反駁した。
「あぁ!? いいじゃねぇかよ! 男ってなぁ良い女に腰振るために生まれてきたんだぜ! つぅかオリガ、テメェそんなに抜かすんなら一発ヤらせろや、コラ!」
「はぁ? なんでそうなるわけ? あんたと寝るのだけは死んでもイヤ。あんたはその辺の養豚場で雌豚相手に盛ってんのがお似合いよ。つーか汗まみれで近寄んな、気持ち悪い」
「んだとテメェオリガコラァ!?」
「——お前達、品を欠いた話はよせ」
長身の初老の男——ミラン・ヤスオヴィチ・イシカワがそう静かに言った瞬間、ヒートアップしかけていた二人のやりとりが一気に鎮火した。
エゴールほどではないが、平均よりやや高い背丈の、老紳士を思わせる男だった。
ワイシャツとスラックスに身を包む細身の体つきはやや肉付きに乏しいが、背筋に棒でも仕込んだような整然さを見せる姿勢と、体軸が一切ブレない洗練された歩き方からは、隙がまったく感じられない。……分かる者には、彼の手の届く範囲へ無闇に踏み込んだ瞬間、無様に地面に叩きつけられる自分の姿が容易に想像できる。
初老に届くか届かないかという皴の付き方をしたその細面には、無風の湖面のような静謐さを宿す碧眼がひっそりと光っていた。
「今日は旅行に来たんじゃない。「同盟」を結ぶ相手を探しに来ているのだ。ゆえに外面には気をつけろ」
「っ……わぁったよ。大人しくしてりゃいいんだろ、少佐殿」
エゴールが皮肉を交えてしぶしぶ了承する。異国に来たら現地の女漁りを楽しむのがエゴールの恒例であったが、この軍人崩れの日系人に一度叩きのめされた身としては、従う他ない。
「やーん、師匠ぃ、素敵! 今夜抱いて!」
しかし、その日系人の愛弟子にして、昔から幾度もアプローチしているこの恋愛脳女には、ときめきの材料でしかないようだ。オリガはミランの腕に抱きつき、その豊満な胸を押し付けて誘惑する。
普通の男ならば無反応ではいられない誘惑だが、見た目だけでなく中身も枯れているらしきその師匠は顔色ひとつ変えずに素っ気なく返した。
「暑いのだが」
「アタシは超寒いのぉ」
「先ほどは「собачий Жарко」とか言っていなかったか?」
「急に寒くなったのっ。日本って変な国よねぇ」
「……はぁ」
ミランは諦めて、腕に抱きつかれながら歩くことにしたようだ。
暑い暑いと互いに言っていた師弟であったが、暑気に汗がにじんでいるエゴールとは違い、二人には汗のひとしずくさえ浮かんでいない。
この師弟は『夜宴』の中でも屈指の実力を持つ戦士だ。どれほどの鉄火場が立ちはだかろうと、この二人を同時に放り込めば勝ち戦になることが確定する。
特にヤバイのはミランである。
あの男は『夜宴』最強だ。
詳しい話はわからないが、かつてはソ連軍のナントカっていう精鋭部隊に所属していたそうだ。同じく元ソ連軍人である現在の『夜宴』ボスは、ミランの部下だったという。
エゴールは一度ミランのスカした態度が気に入らず、喧嘩を売ったことがあった。しかし、自分のパンチは一発も当たらないどころか、一発目を回避してすぐに体の自由を奪い取られ、床に叩きつけられた。あの細い老体のどこにそんな力があるのかと思いながらエゴールは気絶し、それ以降噛みつくことはなくなった。
『夜宴』の人間の何人かは、日本語が話せる。ミランが教えたからだ。エゴールも日本女と遊ぶために教わった。
教えたのはミランだが、そう命じたのは『夜宴』の現ボス——ヤロスラフ・アルトゥーロヴィチ・ロゴフスキーである。
彼は日本にいる犯罪組織を雇い、シノギの幅を広げている。
軍事に関しては杜撰稚拙を極めた日本だが、警察組織はなかなかに優秀だ。特にヤクザやマフィアなどを相手にする組対のやり口は、年々公安並みに巧妙化、陰湿化している。——『夜宴』の支部を日本に置かず、下請けとして半グレなどを雇っているのは、そういう国家権力のイヌに目をつけられた時の「トカゲの尻尾切り」を後腐れ無く行うためだ。
けれど、今回日本に来たのは、シノギには一切関係が無い用事だ。
そんな実利的な話ではなく、もっと感情的で、非論理的で、衝動的な——
「——請座」
そんな言葉に従い、ロシア組三人は中華円卓の席へ座った。
中華的な装飾の施された、鉄筋コンクリート作りの四角い広間。ロシア人三人と一人の中国人が、広間中央にあるその中華円卓を挟んで向かい合った。
ガタイの良い中国人だ。オールバックにした髪を後方で縛っており、岩から削り出したような頑健そうな顔つき。黒いスーツが恰幅が良くも筋肉質な体格を描き出していた。
その左右には、同じような黒いスーツに身を包んだ若い東洋人の男が一人ずつ控えている。護衛である。
「初めまして。『夜宴』の皆さん。俺はこの『Z房間』の首領である鄭だ」
中華風に飾り付けされた広間の空気に、オールバックの男——鄭の太い声が溶ける。ちなみに日本語。ロシア人組と唯一共有できる言語だからだ。
——ここは、中国マフィア『Z房間』のアジトである。
ミランが口火を切る。
「確かこの組織は、中国政府の傘下だという噂だったな。それにしては……少し狭いと感じるが」
侮辱と感じた護衛の一人が動こうとするが、鄭が挙手で制する。
「傘下といっても、しょせんはただの下請けだ。だがこれで十分でもある。目立たずに動けるしな。日本のヤクザのように代紋をかかげて堂々と商売をするような馬鹿ではない」
「そうか。『Z房間』の「Z」というのは、どういう意味だ?」
「俺の姓……鄭のピンイン表記のイニシャルから取った。……そんなことを訊くために訪ねてきたわけではあるまい?」
「無論だ。今回は他でも無い——手を組まないか、と言うために来た」
場の空気が静まった。緊張した沈黙だった。
「……それは、業務提携か? それとも、どちらかがどちらかの傘下に納まる相談か?」
「どちらでもないが、どちらかといえば業務提携という言い方に近いな」
「……聞くだけ聞こうか。言ってみるといい」
鄭に促され、ミランは遠慮なく言った。
「神奈川でデカい顔をしている『正伝聯盟』——そいつらを一緒に潰してみないか?」
鄭の顔が、驚きに満ちた。
食いついた、と見たミランはさらに追撃を加える。
「そちらの事情については、以前より調べがついている。——神奈川の華人社会を制し、そこの中国人を政府の手駒に加えたい。しかし正伝聯盟という強力な自警団がついている。奴らに比べて自分たちは力不足。ゆえに手が出せない。——とまあ、こんなところか」
ミランは一度息継ぎをし、続けた。
「我々と組めば、そちらの力不足を補えると我々は確信している。我々と手を組み、正伝聯盟に戦争を仕掛けよう。そして駆逐しよう。我々は規模こそ小さいが、優秀な戦闘員がそろい踏みだ。必ずそちらの望みを叶えられることだろう」
鄭は一度気持ちを落ち着けようとばかりに瞳を閉じ、しばらくしてから開いて言った。
「もしそれが本当ならば、是非とも頷きたい話だ。……本当なら、の話だが」
「ほう? つまり我々の実力が疑わしいと」
「当たり前だ。だし抜けに訪ねてきたお前達を信じて背中を預けろと言われても、信じられるはずもない。もしお前達の言っていることが誇張ならば、正伝聯盟に返り討ちにあう可能性がある。孫子も勝機の無い戦はしない」
「なるほど……ごもっともだ。では——試してみるか?」
ミランの挑戦的な言葉に、周囲にいる『Z房間』の構成員の面々が立ち方を変えた。
その動きだけで、ミランはこの場にいる者全員の大まかな力量を確信できた。——オリガ一人で十分だ、と。
「オーリャ」
「はぁい、師匠?」
「お前一人で、彼ら全員の相手をしてあげなさい。……できないか?」
「——髪に櫛当てながらでも楽勝よぉ」
女豹のごとく戦意に満ちた微笑を浮かべるオリガ。
それを聞いて、鄭を覗く全員が憤慨した。
一見落ち着いているように見える鄭もまた、目を細めていた。
「…………知らないかもしれんが、中国人はメンツを潰されることを何よりも嫌う。今の言葉は、我々に対する侮辱と取れる。挑戦を受けてもいいが、我らの看板そのものを賭ける戦いに等しい。対して、そちらが失うのはたった一人のメンツだ。それなりのモノを支払ってくれなければ、挑戦は受けられない」
「いいわ。んじゃもしアタシが負けたら——アンタの情婦になってあげる。なんなら、周りの連中に「お裾分け」してもいい。それでどう?」
オリガはそう言って、自分の内包する曲線美を強調するようなポージングをしてみせた。
小柄ながら、目を奪うような美しい肢体の存在が、服越しにもよくわかる。それを一番魅力的に見せる動きをするものだから、鄭や構成員全員は大なり小なり目を奪われた。
発奮へとつながった。
「……いいだろう。——お前達! お相手して差し上げろ!」
鄭の指示通りに動く部下達。円卓と椅子を端に寄せて空間を作り、そこに立つオリガを構成員が囲い込む。
全員がオリガへ構えを向けた。ボクシング風の構えをとる者もいるが、徒手系の武術にみられる半身の体勢をとる者が多かった。虎爪を象った両手を臍の高さに出した構え。
オリガは目を丸くした。
「もしかして……心意六合拳かしら?」
「おや、ご存知だったか。……そう、心意六合拳。中国武術有数の威力を誇る剛拳。一時期上海で練習禁止になったことのある武術だが、それは強力さの裏返し。多少いい加減にかじっただけでも、一撃で人間を昏倒させるほどの威力を打ち出せる最強の喧嘩拳法。回族も便利なものを作ってくれたものだ。……驚いたか? 無かった事にするなら今のうちだぞ」
少し得意になった鄭の言葉に、オリガは「あはっ!」と小馬鹿にしたように笑い飛ばす。
「驚いたか、ですってぇ? あまりにレベルが低過ぎて呆れ果てたのよ! 心意六合拳を使う日本人の傭兵を一人見たことがあるけど、ハッキリいってあんたらとは段違い! 油断すると一瞬で殺してきそうな感じのするそいつと違って、あんたらのはまるで御飯事! 化粧しながらでもあしらえるわよ!」
周囲の構成員が、怒気をさぁっと顔に表した。中国人のくせに日本人より中国武術を理解できていない、そう遠回しに貶されたと思ったからだ。
その中の一人が、もう勘弁ならぬとばかりに飛び出した。繰り出してきた技は急激に深く踏み込みながらの頭突き『鷹捉虎撲』。当たればオリガの小さな体など紙屑同然に吹っ飛び、意識を失うか下手をすると命が危ない。当たれば。
オリガはその男の背中を転がる形で頭突きを受け流し、背後へ着地していた。そこからすかさず踵を跳ね上げ、男の肛門近くにある経穴『戸渡』をしたたかに蹴り付けた。
「ギャアアアッ!?」
蹴られた男は絶叫して跳び上がる。気力を断絶させたため、しばらくは思考がうまく働かず力も出ないだろう。
さらに次の構成員が襲いかかる。
ストレートパンチが矢のごとく急迫してくるが、オリガは全く焦ることなく腕を伸ばす。その腕はパンチとこすれ合い、拳の軌道を外側へずらして受け流した。そこから間髪入れずに重心を差し入れつつの肘打ちへ急変させる。柳生心眼流の『袖突』である。短刀を用いてこそ真価を発揮する技だが、殺すわけにはいかないのでそれはやめておく。
肘を使った強烈な当身を受け、オリガより頭二つ分ほどの巨体が軽々と吹っ飛ばされた。
次に心意六合拳の技を出そうとしている敵へ風のごとく接近し、その腕を掴む。中心軸の動きで生み出した波状の力でバランスを崩してから迅速に重心を奪い、床へ背中から強く叩きつけた。大東流合気柔術の『波返し』。
次にパンチを繰り出してきた男の拳を軽く避けつつ背後へ回り、肩甲骨付近にある経穴『早打ち』を肘で強打した。男の体は一時的な気の循環不全で鉛のように重くなり、役立たずと化す。
次に、次に、次に、次に——
オリガは流れ作業のようにあっさりと、気負いなく、つまらなそうに、自分より大柄な男達を木偶の坊に変えていく。
やがて、オリガの周囲には、黒服の雑魚寝が出来上がった。
全滅である。しかも、誰一人としてオリガに一撃も当てられていない上での完全敗北。
「つっまんない」
それをやってのけたオリガは、何事も起こっていないかのように、スマホを鏡代わりにして髪を整えていた。
唖然とする鄭は、我知らず言葉をもらした。
「な、何者なんだ、彼女は……!?」
「……あの子は少し特殊な血筋でな、生まれつき武芸に対するずば抜けた才覚を持っている。だから、あんた達が負けたことは、別に恥じることではない」
ミランはたたみかけるように続けた。
「彼女以上に強い戦士が、『夜宴』にはあと二人ほどいる。それだけじゃない。軍人だった者も少なくない。あなた方が暴力のプロならば、我々は戦闘のプロだ。あなた方の仕事に役立つ人材が揃っているとは思うが……まだ不満が?」
鄭は今なお驚愕で混濁した思考を懸命に整え、考える。
——正伝聯盟には、三人の「怪物」がいる。
そのうちの一人だけでも、この『Z房間』を全滅させられるほどの力を持つ。
さらに最近、日本人の少年が仲間入りしたそうだが、信じがたいことにその少年も、その三人と同じほどの強さを誇る。噂では米軍の武術教師もやっているらしい。
それと同じことを、このうら若き美女はやってのけたのだ。
さらに、それを上回るほどの実力者があと二人……
美味しい話であると思った。
しかし、だからこそ怖い部分もある。
「もし力を貸してもらえるのならば有難いが……一方的に力を借りれるわけではあるまい。それ相応の対価を、何か要求するのではないのか?」
鄭はそう投げかけると、ミランはなおも論調を変えずに答えた。
「安心するといい。我々に、否、ボスにとっては万金の価値があるものだが、諸君らには1カペイカの価値すら無いものだ」
「……一応訊くが、それはなんだ?」
ある意味、足下を見られるよりも不気味なものを感じた鄭は、思わずそう訪ねた。
ミランは一息置くと、脈絡無く次のような問いかけをしてきた。
「鄭大人……伝統的なロシアの思想において、「最も名誉ある戦い」とは何であるか、あなたはご存知か?」
鄭がかぶりを振ると、ミランは答えた。
「——「復讐」だよ。ロシアは今でこそ米国に次ぐ軍事大国だが、歴史を振り返れば苦難の連続だった。モンゴル帝国によるルーシ侵攻、動乱時代におけるロシア・ポーランド戦争、ナポレオンによるロシア遠征、ナチスドイツの侵攻……被侵略者としての辛酸もそれなりに舐めている。ゆえに、ロシアは自分たちを侵害した者に対する「復讐」を、正義と考える傾向が強い」
「なるほど……それで、なんと言うんだ? 貴公らのボスが復讐したいという「侵害者」の名は」
鄭の問いに対し、ミランは依然変わらぬ淡々とした口調で答えた。
「伊勢志摩常春」




