アニオタ、教師として板についてくる
香取神道流の大竹利典氏が今年六月に亡くなっていたことを知って、頭の中が真っ白になりました。
松田隆智氏、馬賢達氏、蘇昱彰氏、さらに大竹氏……ガチな武道家がどんどん亡くなっていく現状に、寿命がある人間である以上仕方がない事とはいえ、喪失感と寂しさを禁じ得ません。
夏休み明け最初の学校は半ドンで終わり、放課後、常春は『至熙菜館』に訪れた。
今日は、自分が蟷螂拳を教える日だったからだ。
練習は五時から。
それから二時間教えた後、
「——では、今日の練習はここまで! 各自工夫して、けれど武術としての正道からは外れないよう気を付けてよくよく練習に励むこと!」
『——謝謝老師!』
常春の発言に、その眼前に集まる学生達が一礼する。
『至熙菜館』地下にある大広間から、次々と学生が帰っていき、やがて常春を含む四人だけになった。
残る三人は、日本にある正伝聯盟の中でも重鎮中の重鎮と呼べる三名の達人『三老』である。
「ここでの教練がだいぶ板に付いてきたみたいだね、常春くん」
郭浩然が、そう褒めてくる。
常春は「恐縮です」と言いながら、大広間の端にどけておいた円卓を引っ張り出す。そこに各々が椅子を持ち寄り、円卓を囲んで座る。
「最初は生徒達も、若い君の実力を疑問視していたようだが、今ではすっかり尊敬の念を感じるぞ! まぁ、何事も立ち合いで分かるものだったようだがな!」
『三老』の一人、小樽景一の暑苦しい響きをもった発言に、常春は苦笑した。
米軍基地で武術教師を始めた経緯と同じようなことが、ここ『正伝聯盟』という教壇でも起こった。
常春はここで武術を教え始めた初期、当然ながら生徒達の目は懐疑的だった。当然である。アニメキャラTシャツを着たアニオタ高校生が武術を教えるというのだから。
次に何が起こったかというと、やはり試合である。常春の実力を疑問視し、自分たちに上から教えるに足る存在であるのかを確かめようという生徒が多くいた。
常春はそれに気を悪くするどころか、むしろ嬉しく思った。武術を「武術」として追求したがっている者がこの現代にこれほど多いということに、武術の未来の明るさを感じたからだ。
彼らの挑戦に、常春は全て応じた。そして、その全てに圧勝してみせた。
生徒達の懐疑的な目は、あっという間に尊敬の眼差しとなった。
今では全員、熱心な生徒である。
「……もう君は、立派な『正伝聯盟』の長老の一人だ。胸を張っていい」
『三老』の一人、慧晃徳がそう静かに肯定する。常春は「ありがとうございます」と一礼する。
浩然はややからかいを含んだ声で、
「十喜珠神社での演武会でも、師弟ともに活躍していたようだしね」
「……ご存知でしたか」
「最近は便利だね。何かあるとすぐに動画サイトにアップされるんだ。君と、その弟子の女の子の表演を写した動画を見たのだ」
「どうしてあの子……宗方頼子が僕の弟子であると?」
言っていないはずなのに。
浩然は当然のことのように言った。
「動きの随所が、常春くんによく似ている。武術だけでなく、教育者の動きの癖までしっかり真似ていたようだ。あの女の子は、よほどコピーが上手いようだね」
「ええ、まぁ……」
実際は上手いというレベルではないのだが。
「それだけではないぞ! 君があの子に武術を教えているところを、十喜珠神社周辺でたまたま見たという中国人がいるのだよ! それも理由の一つだね!」
「そうだったんですか」
「うむ! 中国人同士の絆やネットワークは、異国の地でこそ強まるものだ! SNSなどのネットサービスが活発になっている昨今では、中国人のネットワークを介すれば欲しい情報はだいたい手に入るものだ!」
景一の暑苦しい語り口に足並みを合わせる形で、晃徳が口を挟んだ。
「……最近、神奈川県の各所で、ロシア人の集団が動き回っているというのも聞いたな」
「ロシア人」という単語に、常春はピクッと反応した。学校で聞いたばかりだったからだ。
浩然が少し緊張させた声で補足した。
「らしいね。確か……十喜珠神社での祭りが終わって三日後くらいからかな。この神奈川周辺で奇妙なロシア人の集団が動いているらしい。しかも、ただのロシア人じゃない。——全員、裏社会の連中だと思われる」
「裏社会……マフィアか何かでしょうか?」
「マフィアだろうね。そのロシア人の集団が回っていた箇所は、いずれも半グレや、在日中韓マフィアが根城にしている場所だったのだ」
常春の心音が、どんどん高鳴りを増していく。
それを知ってか知らずか、浩然は続ける。
「実は今日、この事を君に伝えておくつもりだったのだ。我々はそのロシア人達を警戒している。なぜならそのロシア人が立ち寄った場所の中には……『Z房間』も含まれていたからだ」
「『Z房間』とは?」
「日本に進出している中国マフィアの一つだ。まあマフィアといっても、その規模は小さい。だが厄介な点が一つだけある」
「と、おっしゃいますと?」
「——中国政府と繋がりがあるという点だ」
常春の眉が、ぴくりと動く。
「正伝聯盟はただの武術の指導団体ではない。もっと「別な性質」も併せ持った団体だ。……詳しい事は、君が正伝聯盟に入る前にあらかじめ教えてあったね?」
浩然の言葉に、常春は頷きを返した。——確かに、常春はそのことも事前に聞かされていた。その上で入会したのだ。
曰く——正伝聯盟は、その土地の華人社会における自警団的な役割を担う組織でもある。
世界には、中国人の居住を快く思わない国や民族も多数存在する。
その代表例がベトナムと朝鮮半島だ。いずれも過去に冊封国だった国で、根強い反中感情がある。漢字の使用も「中国のものだから」という理由でやめたほどだ。
アメリカやヨーロッパでも、「黄禍論」という東アジア人への伝統的差別意識が今でも存在する。
さらに日本人の間でも、領土問題や歴史認識などが理由で、中国への嫌悪感が日に日に増している。
そういった反中感情は、時に暴言だけでなく、暴力として発露されることもある。
中華史における過去の自業自得といえる理由も少なくないが、その過去の時代を生きていない在外華人からすれば、とばっちり以外の何者でもないというのが正直な感想だ。
そこで『正伝聯盟』。
もしもその土地の華人が理不尽な暴力に晒された場合、それから身を守るための手段が必要になる。
正伝聯盟とは、そのための自警団的役割を持つ。
武術とは確かに古き良き伝統文化だが、同時に「身を守る手段」でもあるのだから。
「「武力を使って守る」ということは、見方を変えれば「支配する」とも言える。つまり正伝聯盟は、実質的な在外華人社会の支配者集団なんだよ。だが嬉しいことに、世界中の華人からの正伝聯盟への評価は総じて高い」
「……しかし、最近の在外華人の敵は、その土地の民族だけではなくなってきている」
晃徳の発言から、常春は最初の話題に回帰する流れを感じた。
「中国政府、ですね」
こくんと晃徳が頷くのを見ると、景一がはきはきと喋り出した。
「最近の中国政府は実にアグレッシブでなぁ! 世界中の在外華人に脅しをかけて、無理矢理工作員の真似事をさせているのだ! 無論、それはこの日本においても例外ではないぞ! その脅す手段は様々だが、そのうちの一つが——」
「マフィアなどの組織による間接的恐喝、でしょうか」
「うむ、正解だ常春少年! 貴重な伝統武術を弾圧したがゆえ、奴らには今でも遺恨しか感じぬが、使えるものは何でも使うという奴らの姿勢は実に兵法を心得ている! そこだけは天晴と褒めてやろう!」
景一の言葉に、晃徳の眉間のシワが一本増えた。それに何か感じるものがあったのか、景一は「んんっ」と咳払いをした。
その先を浩然が継いだ。
「これは「仮に」の話だが…………もしも『Z房間』が何らかの形で、それこそ他の組織と繋がりを得て勢力を増強するようなことになれば、我々正伝聯盟による神奈川の華人社会の安全が揺るぎかねない」
「そのロシア人の集団が、『Z房間』と同盟関係になる危険があると?」
「まだ情報が少ないから、現段階では心配も安堵も出来ない。だが、警戒は怠れない」
胆に命じておけ、と言うかのように、浩然は言った。
「我々はマフィアではない。伝統武術継承という志を同じくする者同士のコミュニティだ。すなわち、「日常」。ゆえに、他の中国人との友情も大切にする。だが、裏社会という「非日常」は、そんな「日常」を嘲笑うかのように侵食してくる。「日常」は大事だが、それを守りたいのならば、それに耽溺してばかりではいけないのだ。——つまり、もしも『Z房間』が勢力を伸ばし、我々のコミュニティに魔手を伸ばすようなことが起これば、その時は覚悟を決めて立ち向かわなければならない」
浩然のセリフが空気を緊迫化させたが、それを相変わらず暑苦しい景一の口調が明るくする。
「まぁ、難しく考えるな! 襲ってきた奴は返り討ちにする! それでいいのだ! 我々武術家の得意分野ではないか! はははははっ!」
「……現時点では、我らと奴らとでは勝負にならない。今のところ戦争が起こる心配はないが、覚悟だけは決めておけ、ということだ」
肝心なことは、すべて晃徳が手短にまとめてくれた。
そして、常春もそれに納得した。
今や自分は事実上、この正伝聯盟の長老三人と同格とみなされている。である以上、組織の行く末も大局的に考えておかねばなるまい。
けれど、だからといって他勢力との戦争を望むわけではない。
戦いに備えることと、戦いを望むことは全く違う。
いつ起こるとも知れぬ戦いに備えることは、千古不易の常識だ。
どれだけ綺麗事を並べても、世の中は力こそ全てだ。
大切な「日常」を守りたいのであれば、力と覚悟が必要だ。
常春はそれを改めて認識し、気を引き締めた。




