アニオタ、悪夢とともに新学期を迎える
ただただ幸せな「日常」が、そこにはあった。
自分の片手を握るのは、自分が命を捨ててでも守るべき最愛の女性であり、「日常」そのものであった。
初めて彼女を見た瞬間、全身に稲妻が走った。
それが、自分が人生で初めて経験した「恋」であった。
武術の修行と危険な海外旅行にばかり明け暮れていた自分は、その初めて抱く感情を上手に扱いかねた。
だからこそ、会った瞬間に想いを告げるという、恋愛において悪手中の悪手といえる行動をとってしまった。
今にして思えば、実るはずのない恋だった。
初対面での告白だったし、何より自分は十三歳で、「彼女」は二十歳だ。おませさんと笑い飛ばされるのが普通と言えた。
しかし、実らないはずだった自分の初恋は、実った。
会ったその日に相思相愛となった自分と「彼女」は、逢瀬を繰り広げた。
その地域の出店の食事を楽しんだり、
民族衣装を着せ合って似合う似合わないと言い合ったり、
ただ寄り添い合って夕日を眺めたり、
そのまま雰囲気に当てられて唇を重ねたり、
湧き上がる熱愛に突き動かされるまま抱き合い、さらにそれ以上の繋がりを交えたり——
幸せだった。
「彼女」の手の感触も、澄んだ紺碧の瞳も、無邪気に笑う顔も、頬を膨らませた顔も、白金の髪の匂いも、唇の柔らかさも、素肌の感触も、肌を重ね合って互いの体温を溶け合わせる一体感も——
「彼女」がもたらすもの全てが、自分の心を満たしてくれた。
「彼女」は、「日常」そのものだった。
自分と「彼女」は死ぬまで一緒なのだ。
このまま付き合いを重ね、結婚し、子供も何人かもうけて、教育方針で時々喧嘩もしたりしながら歳を重ねていき、やがて老い、こうやって手を繋ぎながらいちにのさんで一緒に永眠するのだ。
この繋いだ手は、決して離れることがないに違いない。
そう信じて疑わなかった。
だが、突然、自分の繋いだ「彼女」の手が軽くなった。
「人と手を繋いでいる」という触覚ではなく「モノを持っている」ような触覚。
何かと思い、「彼女」の手へ目を向け——肘から先が無くなっているのを視認する。
「う、うああああああああああああああああああ!?」
「————っはっ!?」
伊勢志摩常春は、夢の世界から引っ張り出されるようにして目を覚ました。
夜中だ。ベッドのかたわらに置いてある電波式目覚まし時計へ目を向けると、まだ午前二時を過ぎたばかりであった。
呼吸が荒い。額には脂汗が浮かんでいる。寝衣用のアニメキャラTシャツも汗でぐっしょりしていた。その胸の奥にある心臓が、どっ、どっ、と早鐘を打っている。
心には、天に上げられ地に叩き落された、「あの日」の喪失感が蘇っていた。
まず呼吸を整える。
呼吸と心は繋がっている。それを正しく戻すことで、心も落ち着きを取り戻した。
けれども、強烈な喪失感の余韻は、今なお心に残響していた。
「……また、この夢か」
誰が答えるでもない独り言。
電波時計が時刻と一緒に表示している暦は、九月一日。
つまり、今日から学校が再開する。
新学期早々、最悪の目覚めであった。
結局、その後も常春はうまく寝付くことができず、気がつくと東の空から朝日が覗いていたので、諦めて朝の準備を開始した。
やや寝不足なので、毎朝行う武術の練習は休止とした。こういう時は体に無理をさせない方が良いのだ。
常春はのんびりと身支度をして、登校。最期が近づいている蝉の鳴き声を聴きながら歩く。
教室まで到着すると、久しいクラスの面々をおがむことができた。
「常春殿ぉぉぉぉ!! ご無沙汰していたでおじゃるぅぅぅ!!」
その中には、団子のような顔と丸々と太ったボディが特徴の富田綱吉の姿もあった。
愛すべき同志の姿を目にし、昨夜の悪夢で重くなっていた気持ちが少し軽くなった。そのことへの感謝も込め、常春は元気よく返事をした。
「綱吉くん、おはよう! 夏休みどうだった?」
「悲しいことがあったでおじゃるぅ。聞いてくだされ常春殿。「湯屋やおよろ」が……あと一ヶ月で終わってしまうのでおじゃる」
「あぁ……そうだったねぇ。日本画みたいな色使いがいいなと思ってたんだけど、そうか……あと一ヶ月、なんだよなぁ…………」
「我ら「お茶茶茶難民」は、また別の土地へ移り住まねばならんのでおじゃ……」
「だ、大丈夫さ! きっと新たな安息の地が見つかるはずだよ!」
「けれどその安息の地もまた1クールで不毛の砂漠となるでおじゃ……あと、最近は日常系が減って、異世界系が増えているでおじゃ……」
意気消沈する二人。話の内容はやはり日常系アニメであるため、周囲の目は白い。
「……あんたたち、見てて恥ずかしいんだけど」
呆れた声をかけてきたのは、宗方頼子であった。綱吉と違い、その顔は夏休み中に何度も見ている。
「おー、ご無沙汰でおじゃ……んぅ? 宗方殿、なんか日に焼けたでおじゃ?」
「へ? う、うそっ……」
頼子は手元から取り出した鏡と睨めっこしてから、常春へ振った。
「常春、あたし、日焼けしたかな……」
「あー……うん、ちょっとしてるかな」
それを聞いて、頼子は少し凹んだ。
「日焼け止め……やっぱ汗で落ちてたんだ……大丈夫だと思ってたのに」
「まぁ、日焼けって自分じゃあんまり気がつかないものだしね。かく言う僕も夏休み中はほぼ毎日頼子と一緒だったから気づかなかったし。でも、シミとか無いし、健康的でいいと思うな」
「……今度から、日傘さそうかな」
男の常春にとっては些事だが、女にとっては死活問題であるようで、頼子は本気で日傘生活を考えかける。
だがそのお嬢様志向を、綱吉の指摘が打ち切らせた。
「ほぅ……常春殿、夏休み中はずっと宗方殿と一緒だったでおじゃるか」
綱吉はその団子みたいな顔に冷やかすような笑みを浮かべ、常春と頼子の双方を見据えていた。
常春は「ん。ちょっと用事でね」と軽く肯定したが、邪推のようなものを感じた頼子は頬をうっすら赤くして慌てた口調で弁解した。
「べ、別に特別な用事なんかないからねっ? 夏休み中、常春に教わりごとをしてただけだからっ! あんたの考えているような色っぽい展開はないからねっ?」
「テンプレなツンデレ発言ありがとうでおじゃー」
「こんのっ……あんた、結構ムカつくわね……!」
この二人もだいぶ話せる仲になったようだ。常春は思った。
「そ、そういえばさ! 最近の夏祭りって、外人も多いみたいね! あたしこないだ、ロシア人のおじさんとぶつかっちゃってさぁ!」
露骨に話を逸らしにかかる頼子に、綱吉が更なる追撃を加えるかと思いきや、
「マロも最近見かけたでおじゃる。ロシア人を」
そう返してきたことで、頼子の意図通り会話の方向性が変わる気配がした。
「東京で買い物を済ませて電車でS市に戻ってきて、出発が近いバスに乗ろうと走っていた時、女性とぶつかったでおじゃる。黒いドレスにも似た衣装と、尖端部でウェーブを刻んだ黒髪ロングが特徴的な美少女でおじゃった。マロよりもずっと小柄な女性でおじゃったが、弾き飛ばされたのはなぜか大柄なマロの方だったでおじゃる。尻餅をつくマロに、彼女は無表情で何らかのロシア語で一言告げた後、そのまま通り過ぎたでおじゃる。そしてマロはバスに遅れたでおじゃ……」
「なんて言われたの?」
「ううむ…………たしか「すゔぃーにゃ」と聞こえたでおじゃ。常春殿、分かるでおじゃるか?」
「Свинья」
「そうそう! それでおじゃる! して、意味は?」
「「豚」だね」
ずずーんと落胆する綱吉。
「初対面のロシアン美少女に、豚呼ばわりされたでおじゃ……」
「性格悪い女。気にしなくていいわよ、富田」
「……ありがとうでおじゃる」
頼子に慰められる綱吉を尻目に、常春は思考する。
(ロシア人、か……)
心の古傷が、かすかに痛むのを感じた。




