血塗れの夜宴
ミラン・ヤスオヴィチ・イシカワは、日系ロシア人である。
父親である石川靖雄は、シベリア抑留でソビエト連邦にとらわれた元日本兵。強制収容場から解放されたのち、現地のロシア人女性である母と結婚し、ミランをもうけた。
ミランは父からいろんなことを教わった。
合気道を始めとするいくつかの武術。
日本語とロシア語。
……自分には、とても強い叔母がいたのだという話。
名は十喜珠朝涼。
人外の強さを誇った女剣豪にして、靖雄の遠い親戚にあたる女性。
彼女が神として祀られているという話も、ミランはすでに父親から聞いていた。けれど直接参拝に行くようになったのは、自分がかつて兵籍を置いていたソビエトという国が崩壊した後のことであった。その時すでに、ミランは四十近くに達していた。
ここに自分が寄ったのは、「仕事」のついでだ。
自分の武が、「裏切り者」を断罪できますように、と願いを込めて。
ミランは現在、とある犯罪組織に身を置いていた。
軍人として守るべき国を失い、漫然と生きていたミランをその組織に誘ったのは、軍にいた頃の自分の部下であった。彼は軍を抜けた後、その組織で一気にのし上がってボスとなったのだ。
その組織の名は、『夜宴』。小規模のロシアン・マフィアである。
一九七十年代のソ連では、高品質な外国製品の需要が供給を大きく上回っていた。そのため、横流しした外来製品を法外な値段で売りさばく「闇市」が横行していた。そこで大きな財をなして成功者となった人間は少なくない。……『夜宴』の初代ボスもその一人であり、その金を元手に組織を立ち上げたという。
すでに闇市は存在せず、代わりに収入源として選んだのが密輸。銃器の売買や、日本で盗んだ車やバイクの密輸稼業。
特に後者はボロい商売だった。日本車は頑丈で壊れにくく、お古でも長持ちする。テロリストも愛用するくらいだ。しかも相手は警察をスーパーマンだと思っている平和ボケした日本人だ。警察の嗅覚に引っかかる前にどうにかしてしまえば調達は容易い。
おまけに、日本には「半グレ」と呼ばれる、都合の良い駒がいた。
従来のヤクザは厳しい掟と上下関係に縛られており、それが足かせになってうまく商売に動けないことがある。だが半グレにはそれがない。掟も上下も倫理も良心もない畜生の群れだが、その分ヤクザよりも自由度が高い。さらに切り捨てても代わりなどいくらでもいる。
逆に言えば、こちら側が隙を見せれば、寝首をかかれかねない。自由が高い分、ルールが無く幼児的だからだ。
それゆえに、こちら側が逐一目を光らせておく必要がある。
顔と素性を偽って情報を探ったり、構成員の一人を身体で誘惑して情報を搾り取ったり……前者はミラン、後者はミランの部下兼弟子がやった。二人とも日本語の心得はあったため、それは楽だった。
結果、所詮は秩序無き畜生の群れであったことが分かった。
八月下旬。夜十時。東京都某所ビルにて。
「——着服とは感心しないな、末永」
応接室のような部屋にてミランがバラまいた裏切りの証拠を、末永は慌てた手つきでキャッチした。
無数に舞い飛ぶプリントアウトの一枚を見ただけで、含有されている意味を瞬時に読み取り、そして蒼白となる。
末永。半グレ集団をまとめ上げる、元暴力団員。普段は手下に対して皇帝のごとく振る舞っているその強面の男は、普段の威厳など感じられないほどに青くなっていた。
追い討ちをかけるように、ミランは言った。
「我々が卸した銃器……それらをヤクザや在日マフィアに売って稼いだ利益を、実益よりも少なく改竄することで、『夜宴』への上納金も少額で済ませ、浮いた金を懐に納めていたとは……愚かなことをしてくれる。我々の顔面に盛大に泥をぶちまけたな」
口をパクパク開けて喋るのに失敗しながらも、どうにか末永は自白に等しい質問を発することができた。
「ミ、ミランの旦那……どうやってこれを……」
「細工は流々、と言いたいところだが、最期に教えておいてやる。……お前の飼う狂犬どもは随分と口が軽いのだな。私の部下が少し色仕掛けをしたくらいで簡単に情報を吐いてくれる。もう少し部下を厳選したらどうだ?」
「お、俺を……どうするつもりだ?」
「決まっている」
ミランの周囲の空気が変わる。もうすぐ七十になる立派な高齢者だが、その顔つきは中年ほどに若々しく、背筋に棒でも入れたような立ち姿からはいささかも老いを感じさせない。
「——ロシア人が最も嫌うものは「裏切り者」だ。お前は、私が粛清する」
「っ! ——ふ、ふざけんなっ!!」
末永が愛用している黒檀机の下に潜った瞬間、けたたましいアラートが建物内部に響きだした。
ドタドタとせわしない足音の重複が徐々に近づき、やがて応接室の唯一のドアが蹴り開けられた。そこから、銃で武装し覆面で顔を隠した若者が次々と入ってきて、あっという間に末永の黒檀机を守る壁のごとく立ちはだかった。
カラシニコフ小銃、スチェッキン、マカロフ……自分たちが商品として与えたロシア製銃器の博物館の一丁あがりだ。
武装した若者の数は軽く目算して二十人を超える。その人数と同じだけの銃口が、ミラン一人を向いている。
その様子に、ミランは殺気ではなく、強烈な憐憫を覚えた。
「兵士でもない子供に銃器を握らせて、人を殺せと強いるのか……」
「へ、へっ……だからなんだよ? そいつらはバカ親に見捨てられたり、ガッコでイジメられてたり、年少出て社会復帰しようとしても冷たく扱われて居場所をなくした連中なんだよ。俺が居場所を用意してやんなきゃ、こいつら今頃首吊ってるか塀の中だったんだよ。ちょっとは言うこと聞いて貰わなくちゃなぁ」
「貴様は黙っていろ」
静かに脅すようなミランの発言に、末永はまるで声帯を見えない手で握られたように押し黙った。声が出したくても出せない。
初めて会った時から思っていたが、この男、やはり普通ではない。
銃口。モデルガンでもエアガンでもない本物の銃であることは、発注元の一員であるミランが一番分かっているはずだ。それらを向けられているというのに、その声には動揺の響きが皆無。
ミランの青い瞳が、周囲で銃を構える覆面をなぞるように動いた。
「最後通告だ。——お前達、銃を捨てて「日常」に戻れ。兵士でもない若者にそんな物騒なものは似合わない。勉学の道でもいい、職人の道でもいい、とにかく真っ当に生きろ。諦めなければ、必ず道はある。……だが、もし、この「非日常」に存在し続けたいというのなら——私はお前達を兵士と見なさなければならない」
最後の一言に込められた「圧」は、素人同然の若者でさえも感じ取れるほど、密度の濃いものだった。
誰もが覆面の下で汗をかく。
誰もが「この男は普通ではない」と確信めいた予感を抱く。
しかし、手元にある銃の魔力が、その本能的な恐怖を和らげてくれた。
どれだけ強かろうと、武器を何も持たないただの人間だ。加えて、自分たちはこの現代社会における最強の歩兵武器を手にしている。同じ土俵に立てば、負けることはあり得ない。
今の自分達なら、マフィアでも殺せる。その力がある。
その高揚感が、若者たちの恐怖を上回った。
引き金に添えられた指に意思が宿ったことを敏感に感知したミランは、失望と諦念を覚え、その次の瞬間には心を「無」にした。
「そうか。ならば————全員死ね」
「てめぇがな」
すでに勝ち誇ったような末永の声を合図に、若者たちが一斉に引き金を引いた。
湯水のごとくばら撒かれる弾丸。
それらがミラン目掛けて殺到した。
しかし、弾丸の雨は、壁を穴だらけにしただけだった。
ミランがいない。
「おこっ」
奇妙な呻き。その音源は銃を構える覆面男の一人から。
その懐には、消えたはずのミランの姿。鏃のごとく突出させた人差し指の第二関節を、その若者の喉元に突き刺していた。
長年の修練で得た『中心力』を一点に込めたその突きは、柔らかい筋肉の壁をたやすく押し除け、覆面の頸椎をダルマ落としのごとくへし折っていた。そうなった時点で、その覆面の若者の短い人生が終わっていた。
「え……」
その他の仮面が呆けたように声を出す。
本格的な恐慌状態に陥る前に、ミランは素早く棚に飾られている日本刀に手をかけ、一息で抜き放つと同時に目の前の覆面の首筋に一太刀。頸動脈をバターのように切り裂く。
絶命の血華が首筋から派手に咲き誇ったことで、とうとうその場が恐慌に包まれた。
「う、うわあああああああ!! 」
多くの者が狂乱をきたし、手元の銃器を掃射する。
再び雨のごとく飛来してくる、音速の弾丸。
けれどミランには、一発も当たっていなかった。
降り注ぐ弾丸の豪雨の中を、顔色一つ変えずに動き、やってくる弾丸全てを回避している。
それぞれの弾が飛来してくるタイミングを先読みし、一番早いタイミングで来る弾から身を外す。そうしているとしか思えない、予定調和じみた動き。
否。それは事実だった。
ミランには観えていた。弾丸の軌道が。
予測ではない。分かるのだ。
ほとんどの人間は、「これをしよう」という明確な意思を基準に、肉体を動かしている。
ミランには、それが読めた。「白い影」という形で。
相手が刀を振り下ろそうという意思を働かせれば、これから来るであろう太刀筋をあらわした「白い影」が、攻撃の前に見える。相手が銃を撃とうという意思を働かせれば、これから来るであろう弾道をあらわした「白い影」が、発射の前に見える。……それから体を逃してやるだけでいい。
合気道の開祖、植芝盛平にはこれと同じことができたらしい。
「ぐはっ!」
覆面男の銃撃を避けつつ、その胴体を右脇下から左肩まで逆袈裟に斬りつけた。体の重要器官のほとんどを一太刀で断ぜられ、絶命。
再び来た弾丸を身のひねりで回避しつつ、片手に持った刀で射撃者の首筋を断つ。さらに太刀筋の流れそのままに背後の敵の喉元も深く斬りつける。その一瞬の二太刀によって二人が血華を咲かせて絶命。
白刃。白刃。白刃。
絶命。絶命。絶命。
刀を振るった数だけ、命の灯火が消えていく。
とうとう最後の一人を斬り捨てた。
どしゃり、と倒れる音とともに、とうとう末永一人だけが生き残った。
血の足跡を刻みながら、黒檀机の裏へ回り込んだ。怯える末永の首筋に、血塗れの刀身を突きつけた。
「あ、あ……!」
「死ぬ前に何か言い残したい事はあるか」
何か言おうとする末永だが、歯の根が合わず、舌もなかなか動かない。
だが、どうにか言いたいことが言えた。
「な、何モンなんだよ、あんたは……!」
「ただの軍人崩れのロシア人だ」
「そういう意味じゃあねぇっ! ……な、なんで一発も、弾が当たってねぇ? 人間なのか、あんたはっ」
「当たり前だ。だが、趣味の一貫でいささか武芸をたしなんでいる。……ついでに言うと、今まで使っていたのは柳生新陰流の『合撃』という技の応用だ」
「化け物め……!」
「武人に対しては褒め言葉だ」
すっ。
そんな滑らかな音とともに、末永の首は転がり落ちた。
鍛え上げられたミランの緻密な太刀筋が、頸椎の柔らかい部分にピンポイントで当たり、刺身を捌くように軽々と斬り落としたのだ。江戸の首斬り役人がその場にいたならば拍手を送られるであろうほど、見事な切り口であった。
粛清は完了した。
しかしこの国の警察は鼻が利くようだ。銃声を嗅ぎつけたのか、サイレン音が遠くから近づいてくるのが聞こえてきた。
持っていた刀を床に突き立てると、スマートフォンで馴染みの番号へ発信した。
ワンコールで応答した。よく聞き知った若い女の声だ。
『——師匠、もう狩りは終わったのかしら?』
「ああ。だが連中が銃をぶっ放してくれたおかげで警察に感づかれた。今から私は帰国する。オーリャ、お前も早々に日本を出ろ」
『хорошо。ねぇねぇ師匠……帰ったらデートしない? 高い店行かなくてもいいからさぁ』
「考えておく。ではな」
『あ、ちょっと——』
そろそろ脱出の準備をしないとまずいので、強引に通話を切った。
せっかく良い女なのだからこんな老骨ではなくもっと若い男に粉をかければいいのに、と思いながら、ミランは機械的に脱出の準備をする。
血の足跡を残さぬよう、今履いている靴を脱ぎ捨て、予備の靴に履き替える。両方とも日本のホームセンターで買った安物だ。ロシア製を使ったら下足痕から足が付きかねない。
逃げる途中で脱ぎ捨てて特徴を誤魔化すために、安物のジャージとハンチング帽を身に着ける。いずれも日本製だ。
二階の窓から地面に飛び降り、足音を立てずに走り去った。
程なくして、サイレン音がビルに集まるのを聴き取った。
ミランはしばらく離れてから、人気の無いところでジャージとハンチング帽を脱ぎ捨て、何食わぬ顔で歩き出した。
焦りも不安もない。いつものことだ。公的権力の目からネズミのごとく隠れるのも、逃げおおせるのも。
だから、いつも通り、余裕ができた思考に別のことを思い浮かばせる。
——十喜珠神社の演武会で見た、蟷螂拳の少年の姿を。
子供離れした功夫。
一見するとあどけない顔つきの青い少年だが、自分が試しに送った殺気を鋭敏に感知し、振り向いてみせた。その時に見せた瞳は、子供がしていいものではなかった。心の内を引力で引っ張り込んでくるような、宇宙のような目。
何より、蟷螂拳と、「伊勢志摩常春」という名前。
「運命の悪戯、というやつか……」
哀れむような声で呟く。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉が日本語にはある。時間が経てば苦しみも忘れる、という意味だ。
だが、彼の——現在自分が片腕として仕えている『夜宴』ボスの苦しみや憎悪は、いまだに喉元に引っかかったままだ。
彼がアジア人を執拗に嫌い、「儲けのため」という建前のもと日本で活動を広げるようになったのも、あの少年……伊勢志摩常春に対する憎しみに起因している。
小さな組織を地道にやりくりしていた堅実な首領は、その少年の犯した行為がきっかけですっかり豹変した。なかば強引に日本への事業展開を推し進め、日本人や在日アジア人の犯罪集団を顎で使うようになった。
アジア人をアゴでこき使い、裏切れば粛清——
大嫌いなアジア人を使い捨ての道具のように扱うことで、彼は溜飲を下げているのかもしれない。けれど派手なことをやり過ぎれば商売がしづらくなるため、彼の過激なやり方に反感を持つ幹部も少なくない。
だが、それでも自分が、彼の側から離れることはないだろう。
なぜなら、自分もまた伊勢志摩常春に、思うところがあるからだ。
「これを本国に伝えれば……日本に血の雨が降るかもしれないな」
これから起こるであろう惨劇に少し冷たいものを感じながら、混血のロシア人は夜を音もなく歩くのであった——
ロシア関連の情報を調べ始めたのはつい最近。
調べてみると結構面白い。




