アニオタ、美少女の汗の匂いを嗅ぐ
李書文って、馬英図に負けてたんだね……
『十喜珠神社』——神奈川県S市にある、小さな神社の名前だ。
静謐な空気のただよう境内にはモノが乏しい。
苔むした短い石段から始まり、鳥居、参道、灯籠、神殿とそれを守る一対の狛犬。神殿の背後には、太く高い杉が無数に立つ木立が広がっている。
十喜珠神社とその面する通りは、毎年の夏祭りの舞台となっている。
日露戦争で活躍した海軍元帥・東郷平八郎を祀る東郷神社と同じく、この神社ではある個人を神とみなして祀っている。
十喜珠朝涼——それが神の名。
幕末から大正初期までを生きた女剣豪。
その剣技は鬼神のごとし。その美貌は花の精のごとしであった。
美貌ゆえに、彼女に言い寄る男は掃いて捨てるほどいたという。
だが彼女は「自分を剣で打ち負かした男と結婚する」と公言してはばからなかった。それゆえ幾人もの男が彼女に挑み、いずれも例外なく地を舐めた。その中には名だたる剣客も少なくなかった。
結局彼女に敵う男は一人も現れず、気がつけば行き遅れ、独身のまま生涯を終えた。
だが、その女だてらに強い剣力を神のごとしと称えられ、彼女は死後、武の神、女性の地位向上の神として祀られた。
そんな女神を祀る十喜珠神社の境内には、今、一組の男女がいた。
「次! 七路『単展』!」
ひときわ巨大な杉が作り出す木陰で、伊勢志摩常春の鋭い声が空気を刺す。
その声がかかった途端、同じく木陰の下にいる宗方頼子が、言われた通りの動きを五体で表現する。
長い茶色混じりの黒髪を後頭部に結いまとめ、オールブラックのTシャツと学校指定ジャージズボンという軽装に身を包んだ頼子。
彼女が刻んだその動きは——どう見ても拳法の動きだった。
拳があった。
蹴りがあった。
重さがあった。
軽さがあった。
身を守りつつ攻める攻防一体の性質があった。
そう、紛れもなく、生きた武術の動きがあった。
八月の暑気のせいで、頼子の全身から汗が湧き出ていた。ブラが透けて見えないように黒いTシャツを着てきたが、汗を吸ったTシャツは体に貼りつき、豊かで形の良いバストの輪郭を表現していた。
普段なら男子の視線を気にする頼子だが、今はひたすらに自分の体術へ全神経を集中させていた。
集中しなければうまくいかない動きなのだ。
頼子にとって、それくらい中国拳法の動きというのは馴染み薄いものだった。
すでに夏休みは一ヶ月近く経過し、八月の中旬となっていた。
ジリジリと強烈な日差しが地を焼く。今年の夏も去年と同様に記録的猛暑日が続いており、水分補給を怠れない。
そんな中で、頼子は常春に拳法を教わっていた。
夏の猛暑もいとわず、ひたすら未知の体術の稽古に打ち込んでいた。
なぜ?
キッカケは夏休みが始まる前の日——一条二三貴と戦ったあの日にさかのぼる。
一条との果たし合いを平和的に終えた常春だが、彼らと別れて家に帰った後、急激な体調不良に襲われた。
熱病にかかったような虚脱感。
原因はただひとつ。一条から受けた発勁だ。
まともに食らうのは避けたものの、それでも衝撃の何割かはしっかり体内へと浸透していた。それによって気の流れがとどこおり、不調が起こったのである。
闇医者の墨森善太郎を頼るのも手だが、あの医者は法に背いた施術も平気でやってくれる分、治療費は高額だ。今月は買いたい円盤ボックスがある。魯銀星の時のように緊急というほどではなかったため、彼に頼るのはやめにした。
常春はまず気功を行い、それから熱い湯船にゆっくり浸かって、それから冷水シャワーをさっと浴び、ベッドで大人しく寝た。
翌朝、熱は下がったものの、虚脱感は抜けきらず、常春は珍しくベッドでぐったりすることになった。
こうなったら「お茶茶茶」の主人公やぶきた(CV.仁科透華)のキャラソンでも聴きながら横になっていようと思い、スマホをいじって最初に目にした「不在着信」の文字。
昨晩にかけられた着信で、相手は「宗方頼子」。
その名前を見て、常春は昨日の頼子とのケンカ(というか頼子がなんか勝手に怒っていた)を思い出し、少し気まずいものを感じた。
けれどこうして電話をかけてくれたということは、話かけても大丈夫だ。そう考え、発信。
ワンコールで繋がり、上ずったような声で「も、もしもしっ? 常春っ?」と頼子。
常春が用件を尋ねると、頼子は申し訳なさそうな声で、
「あの、さ…………昨日は、ごめんね。なんかあたし、勝手に盛り上がって勝手にキレて、バカみたい」
「いや、いいよ。気にしてないし」
「そっか。ありがと……あ、あのね常春、今……何してる?」
具合悪くて寝てる。
常春がそう正直に答えると、頼子は心配そうな声で、
「ええっ? まじでっ? 風邪? 大丈夫なのっ?」
「なんとかね…………自分で言うのもなんだけど、鬼の霍乱ってやつかな」
本当は風邪ではないが、一条との一件はあえて伏せておく。知らなくてもいいことだし、余計心配しそうだから。
電話の向こう側で、頼子はためらうように何度もうんうん唸ってから、
「…………よ、よかったら、さ。あたしが……看病して、あげよっか? 常春のこと」
「え? 大丈夫だよ、とりあえず歩いたりする分には支障ないから」
「いいからっ。そ、その……そう! 昨日のお詫びってことで! ご飯も作ってあげるからさ! だから、その、いいでしょ……?」
なんで看病する側が頼むような口調なんだろう、と思いつつも、ここで断るのは正解ではないと直感した常春は「じゃあ、お願いできるかな」と折れた。実際、料理をするのは億劫だったので作ってくれるのはありがたい。
電話を切ってからおよそ十分後、頼子は到着した。
額にうっすら浮かんだ汗をハンカチでぬぐう頼子は、看病に来たにしては少しめかし込んでいる感じの装いだった。シルバーグレーの大人っぽいノースリーブワンピース。デコルテを隠しつつも肩口から先を露出させたその夏服は、ガードの固さと艶やかさを同時に見せつける。スタイルが抜群に良く、やや鋭めな顔立ちの美人である頼子とは相性が良いように感じた。
常春が思わず「似合ってるね」と褒めると、頼子は暑気で上気した顔をさらに赤くし「……ありがと」と尖らせた唇で呟いた。
それから、頼子は常春をベッドに寝かせ、料理を作り始めた。気になってこっそり覗いてみると、随分と動きが慣れていた。普段から炊事をしている証拠である。
しばらくして、頼子はおかゆを作って持ってきてくれた。受け取って食べてみると、美味しかった。なのでそれを伝えると、またしても顔を赤くして唇を尖らせた。
あっという間に完食し、茶碗を渡すと、頼子はそれを受け取ったきり動かなくなった。
うつむいて、何か言い出そうとしている様子。
しばらくして、頼子は意を決したように、次のように言った。
「あのさっ! 夏休み中——あんたの拳法をあたしに教えてくれないかなっ!?」
常春に、夏休みの予定が出来た瞬間だった。
頼子への武術指導は、十喜珠神社の境内で行われることになった。
両者の家から一番近いこともそうだが、さほど車の通りが多くない道路沿いであるため静かであり、高く太い木ばかりの杜の中に神社が形成されているため木陰も多い。避暑を兼ねた鍛錬にはもってこいである。
時間は、朝の九時から十一時までの二時間。夏休み中、暇があればこうして練習をする。
今日も、頼子は練習に精を出していた。
最初に柔軟をやり、脱力の訓練をし、馬歩を始めとする各種歩形をやらせてから、ようやく拳法の練習に入る。
「次! 八路『蹬踹』!」
頼子は呼吸と意識を整えてから、常春に言われた通りの套路を刻んだ。
その動きの主な特徴は、伸びやかに体を動かし拳脚を打ち出す長拳系の打撃動作と、しきりに腕で大きな円を描く動作。さらに、套路の随所に含まれている、ゴム紐が弾けるような勢いで蹴り出す爪先蹴り。
そんな不思議な、少し格好が悪い動き。
——『弾腿』という拳法だ。
蟷螂拳と同じく中国山東省を起源としている、有名拳法のひとつ。
短い套路が全部で十路含まれており、それらを通じて技法を学ぶ。
この拳法の最たる特徴は、中国北派拳法の基本構築に役立つという点だ。
弾腿には、北派拳術のエッセンスがふんだんに盛り込まれており、歩法の変化、発勁の法則、北派拳術特有のリズム感などを学べる。
動きは簡素で、やや格好が悪い。
けれど中国拳法の基礎を養うのに、これ以上のものはない。
しばらく練習を続けて、
「よし、今日はこれくらいにしようか」
常春は九時になったことを告げ、終わりを口にした。
「あ、ありがとう、ございます……ふぅっ」
すっかり汗まみれになった頼子は、多少呼吸こそ荒いものの、息も絶え絶えというほどではない。最初の頃と違い、体が慣れてきているようだ。
「お疲れ様。はい、これ。飲んでおいて」
常春は途中で購入しておいたスポーツドリンクのボトルを頼子に差し出した。
だが常春が近づこうとすると、頼子はぴょんと飛び退いて距離を離す。
常春をじっと睨むように見つめながら、やや離れたところにある石灯籠をぴっぴっと指差す。……「そこにスポドリ置いて」という意味だ。
常春は苦笑する。
「別に毎回そんな神経質になることないのに」
「だ、だって、あたし今……絶対汗臭いし」
頼子はそう恥ずかしそうな掠れ声で言いつつ、まるで水をかぶった後のように汗まみれな我が身をかき抱いた。
「別に僕は気にしないけど」
「あたしはするの!」
「今更じゃないかなぁ。動作とか姿勢の調整のために、頼子の肩とか腰とか脚とかさんざん触ってるし。僕基本鼻呼吸だけど、頼子全然汗臭くなかったよ?」
「嗅がないでよ! このすけべっ!」
酷暑で火照った顔をさらに赤くしながら、頼子は土を蹴っ飛ばして抗議してきた。
うわごめんなさい、と軽く言いながら、常春は土攻撃から逃れたのだった。




