アニオタ、目を覚ます
——誰なの、あの人は……?
中里初音は、呆然とした表情で見つめていた。
今なお戦いの渦中にいる二人の男。そのうちの小さい方。
伊勢志摩常春。
陽気で親切で、腕っぷしが強く、愛嬌のある少年。
自分を女神のように大袈裟に慕ってくれる、大切で特別なファン。
それが、初音の中の「伊勢志摩常春」だった。
「あんな人、わたし知らない……」
だが今、初音の目の前には、知らない常春がいた。
宇宙のごとく底の知れなかった目は、今、終わりの見えない深淵のように昏い。眼窩から目玉が抜け落ち、空虚な闇しか残っていないようにさえ見えた。
素人である初音の目から見ても「殺し技」だと分かる技の数々を、顔色一つ変えずに出し続けている。
どこまでも強く、どこまでも無感情で、どこまでも無慈悲。
殺すことだけを目的に動き続ける、戦闘人形のようである。
自分が出演したアニメで、こういう狂戦士じみたキャラは結構いた。
けれど、フィクションと違い、現実ではなんと恐ろしいことか。
初音にはその人物が、自分の知る「伊勢志摩常春」と同一人物であるとは、どうしても納得できなかった。
「あんなの、常春くんじゃない……」
今、自分は、あの少年に猛烈な嫌悪感を抱いてしまっていたから。
『この少年は、君が思っているような愉快なアニメオタクじゃない』
一条が自分に言った言葉が脳裏をよぎる。
やめて。こんなの見せないで。
あなたは、そんな人じゃないよ。
そんな怖い顔しないで。
そんな風に人を傷つけようとしないで。
あなたは、面白くて、楽しくて、強くて、そしてとても優しい人。
そんな風に暴れるところなんて、見せないで。
「嫌っ……やめて……」
激闘に熱狂する二人に、初音は我知らず声をもらしていた。
「そんなのだめ……あなたは、そんなんじゃない…………! もう、やめて……!」
無表情で戦い続ける常春に向かって、
「——もうやめてよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
絹を裂くような悲鳴を上げた。
一条の心臓を止めてやるために、常春が放とうとした寸勁は、
「——もうやめてよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
心を鷲掴みにするような初音の悲鳴によって、中断された。
推しの悲鳴という衝撃に、常春は目が覚める思いをした。
だが同時に、それは隙の発生を意味した。
たった一瞬。
されど一瞬。
一条はその一瞬を抜け目なく突いた。
「フンッ!!」
公園のベンチが一瞬跳ねるほどの震脚に、虎の爪のごとき双掌を付随させた。心意六合拳の『双把』である。
常春が我に返った時にはすでに遅し。もう双掌は、回避不能な距離まで猛然と迫っていた。
今の常春にできるのは、衝撃を減退させる努力のみ。それでも、結構なダメージを受けるだろう。
けれど、そのピンチの中にはチャンスもあることを、常春は読んだ。
二つの手を同時に用いるということは、二つの手のどちらも防御に回せないということだ。
常春は後ろへ足を跳ねさせつつ、手を閃かせた。
瞬間、どふんっ……!! と、双掌が常春の胴体をとらえた。
「ぇあっ……!」
体に染み渡るような衝撃波を浴びると同時に、加速していた思考が現実時間に引き戻された。
呼吸と後退によって衝撃は減らしたものの、勢いまでは殺せない。常春の華奢な体が紙屑同然に吹っ飛ばされた。
めちゃくちゃな転がり方をした挙句、うつ伏せに止まった。
動かなくなった。
「あ……ああ…………っ」
その光景を目の当たりにした初音の口から、悲壮感のある声がもれた。
ずっと沈黙を保っていた美織も、唇を震わせていた。
倒れて動かなくなった少年。いまだに立ち続けている恋人。
勝敗は決したと思っていた。一条は常春を殺したのだと。
決着をつける手伝いをする、と口でこそ言ったものの、前途ある少年の死という結末を目前に突きつけられ、美織は後悔のようなものを覚えた。
「っぐ……!?」
が、右腕を押さえて顔を歪めている一条を見て、美織はハッとした。
一条の右腕には、別にどこか傷がついているわけでも、折れているわけでもなかった。
ただ——動かないだけだ。
「『截脈』か……!」
一条は舌打ちするように呟く。
蟷螂拳の打法『截脈』。特定の経穴を刺激することで、その部位の神経的接続を一時的に断絶して麻痺させる。
常春は地面の土を握ったかと思うと、ゆっくりと立ち上がった。
少々よろけこそしたものの、確かに立ったのだ。
常春は口の中の砂利を吐き捨ててから、自分の顔面に一発拳を叩き込んだ。
痛みとともに視界の中で星が散る。しかし、悪い夢から覚めたような清々しい気分になった。
初音に対し、自省するような声で言った。
「ごめんね、初音……僕、周りが見えてなかったみたいだ」
瞳を潤ませている初音を横目に見ながら、常春は己の所業を振り返り、恥じた。
自分は完全に飲まれていた。『非日常』の空気に。
一条の殺気に。
目には目を、殺意には殺意を。そんな野性的な抵抗心を無意識に働かせていた。
戦いの熱に、熱狂していた。
——殺しに酔いしれる行為は、自分が愛する『日常』とは掛け離れている。
『日常』を守る、というのは、そういうものではないはずだ。
暴れ回るだけなら、ジャンキーにだって出来る。
自分は違う。『日常』を愛し、『日常』と共に生き、『日常』の中に骨を埋めると決めたアニオタだ。
中里初音という『日常』が、伊勢志摩常春に「愉快なアニオタ」を望むのならば、その通りになってやろう。
そしてさらに——『非日常』から抜け出せないこの男を、『日常』へ引っ張り出してやろう。
常春は構える。
一条も、動く左腕を前にした半身の構えを取る。
両者共に分かっていた。これが最終局面になると。
常春は心意六合拳の勁をすでに二回食らっている。
一条も、常春の手数を前に片腕だけでは守りきれない。
だからこそ、これ以上の長期戦は望まず……早々にケリをつける道を両者は選んだ。
やがて、動き出した。




