アニオタ、日常ボケから目を覚ます
最初に動き出したのは常春だった。
こんな馬鹿げた戦いなど、早々に終わらせるに限る。そう思い、最初から仕留めにかかった。
右手による目突き——を目に当たる寸前で止めて素早く軌道を変化させた。
その形は掌。その役は顎への平手打ち。その狙いは脳震盪による平衡感覚の狂い。
が、一条は頭を引いてあっさり躱す。
常春は再びその右掌を目突きに変化させるが、一条の右手との摩擦で方向を外側へそらされる。
さらに一条の右手が手刀に変わり、常春の目元へ鋭く迫る。常春はもう片方の手で防ぐも、今度は足を進めながら右肘を突き出してきた。
「っ!!」
危険を察知した常春は軽やかに後方へ跳び、一瞬で距離を開く。
右肘を前にした一条の激しい重心移動が、先ほどまでの立ち位置を埋め尽くした。
(『蛇撥草』か……!)
着地しながら、常春は今の連続技の名前を心の中でつぶやいた。
一条は醒めた眼差しで常春を見る。
「軽軽に過ぎるな……しばらく見ないうちにせっかちになったか?」
「だれだって、戦いはすぐに終わらせたいと思うものだろう」
「寂しいことを言うな。せっかくの再会、再戦なんだ。まだ見せていない、伊勢志摩常春という武術家の顔を俺に見せてくれ」
返答せず、常春は特殊な足さばきで一瞬で距離を潰した。蟷螂拳の『八歩趕蝉歩』。距離を瞬時に埋めたり開いたりする高速移動の歩法。
走行の勢いを込めた正拳を腕の防御で逸らされる。すかさずもう片方の手の甲で顎を狙うが、頭を引いて回避される。しかしそこからすかさず胸を狙った掌底へと変化させる……蟷螂拳特有の息もつかせぬコンビネーションが一条を襲う。
しかし、常春の掌底は途中でピタリと停止。さらに一歩下がる。一瞬後、常春の脛を狙った低い爪先が空を切った。『刮地風』という心意六合拳の蹴りだ。あの鋭い蹴りでアフリカ人の守衛の脛を蹴り折った光景が脳裏をよぎる。
「イッ!!」
さらにその蹴り足で震脚。激烈な踏み込みによって倍増された体重を、胸から吐くように突き出された拳に乗せて突きかかった。『横拳』という突きだ。
常春はその拳を軽やかに素通りする。そのまま背後を取り、腕を鞭のように円弧でなぎ払った。狙うは後頭部。
しかし一条は腰を低くし上体を前傾させ、そのなぎ払いの下をくぐった。常春の腕が外へ振り抜かれる。胴体はガラ空き。
一条はその一瞬の隙を突いた。全身のバネを利用して上体を跳ね上げつつ真後ろへ震脚で踏み込むと同時に、猛烈な勢いで両腕を左右へ展開した。
『鶏抖毛』。鉄の翼のごとき腕の一撃が、常春の体を食い破らんと豪速で迫った。
常春はそれを受けてしまった。
足の裏で。
「っ……」
クリーンヒットはまぬがれたものの、その腕鞭に込められた勁力は莫大の一言に尽きる。余剰した勢いで、常春の軽い体が弾き飛ばされた。
受け身を取るも、一条は軽やかな足さばきで一気に追いつき、爪先を鋭く蹴り放ってくる。またも『刮地風』。あの蹴りは心意六合拳のほぼ全ての技に差しはさむ事のできる厄介なものだ。
まだ地にしゃがんだ状態である常春はそれに対し、跳んだ。
やってきた蹴りと反発し合う磁石のように、一条の真上まで跳び上がったのだ。
一条の両肩に両手を乗せ、ハンドスプリングの要領で飛び越え、背後に着地。
すかさず振り向きざまに放たれた一条の裏拳。
常春は『八歩趕蝉歩』で瞬時に遠く離れ、裏拳を回避した。
「どうした、伊勢志摩常春? 俺はまだ一発も君の攻撃を受けていないぞ」
一条がそう言葉を投げてくる。
常春は無視する。
すると一条は好き放題言ってやるとばかりにさらに続けた。
「君の武術は、随分と優しくなったものだな。以前の君は、そんな優しくはなかっただろう。俺を殺せる技を無数に繰り出していた。あの頃の君は、いったいどこへ行ってしまったんだ?」
「……あの時は、頭に血が上っていたからだ。それに、あの時の僕の腕では、ああでもしないと勝てないと思ったからだ」
「なら、今は違うと? 俺にはそうは思えないなぁ。君は、以前よりも強くなったどころか、さらに弱くなったように感じるよ?」
「何っ?」
「実は小手調べに、わざと隙をいくつか作ってみたんだが、君はそのどれに対しても反応しなかった。戦いの感覚がすっかり鈍っている証拠だ。……君は、『日常』というぬるま湯に長い間浸かり過ぎたんだろう? 一手一手に「甘さ」のようなものが感じられる。今の君では、ずっと『非日常』に浸かっていた俺には勝てんよ」
「……なら、この戦い、あんたの勝ちで良いはずだろう。一条二三貴」
「いいや、まだだ。俺には分かる。君は弱くない。寝惚けているだけだ。だから、これから君の目を覚まさせてやる。君をとことん追い込んで、本気を出さざるを得なくしてやるよ」
言うと、一条は突風のごとく動き出した。
その大柄な体に似つかわしくない軽快なフットワークは、まさしく心意六合拳の特徴たる「鶏の歩き方」を彷彿とさせた。そこから繰り出されるのは重厚な発勁。まさしく「軽」と「重」の矛盾を一身で実現した拳法であった。
再び『横拳』が迫る。爆発的な震脚に合わせて発せられたその拳は、中指の第二関節が鏃のごとく突き出た透骨拳の形。殺敵のみを目的とした正統派心意六合拳であることの証に他ならない。
常春は再びすれ違うようにして攻撃を避けた。心意六合拳は他の拳法とは違って横に避ける動きが少なく、まっすぐ突き進む戦い方が得意。真っ向からの攻防に付き合うのは愚策であった。
そのまま後ろへ回り込むが、一条は間髪いれずに背後へ蹴りを突き出した。それを最小限の動きで回避する常春だが、一条はその伸ばした蹴り足で震脚。激烈な体重移動と同時に、翼を開くがごとく『鶏抖毛』を繰り出してきた。
「くっ……!」
常春は両手で腕鞭を受け止めるが、あまりの重々しさに大きく弾かれる。
受け身を取って立ち上がるも、すでに一条は目と鼻の先まで迫ってきていた。
「ウンッ!!」
震脚と同時に頭を急降下させる必殺の頭突き『鷹捉虎撲』が迫る。
常春は後方へ跳び、事なきを得る。
しかし一条はさらに素早く歩を進め、踏み出すと同時に鞭のごとく拳で突いてきた。その技『追風趕月』を、常春は体を捻って避ける。
かと思えばグワンッ!! と一気に懐へ踏み入り、右膝と右拳を同時に鋭く突き上げた。顎と胸を狙ったその技『迎門鉄臂』も、常春は後方へ跳躍して回避。
一条はなおも距離を瞬く間に潰してきた。再び『横拳』が疾る!
常春は前腕部を立て、前に構える。重々しい拳がその腕に触れた途端ねじりを加えることで、進行方向を横へズラしてあさっての方向へ受け流した。皮膚の弾力と捻りを使って防御する、蟷螂拳の『挨』の技法であった。
だが、それで安心は出来なかった。残ったもう片方の拳が、常春のある部位を狙って突き進んでくる。
(——腎兪!)
常春は掌で受け止めて防ぐ。
すかさず片方の拳で打ちかかるが、一条の腕による摩擦で受け流される。
一条はそこから肘を水平に走らせて常春の頭部を狙う。厳密には、こめかみにある「太陽」の経穴を。
常春はまたも防御。しかしもう片方の肘がやってくる。それも受け止める。
しかし、まだ頭が残っていた。一条は足を進めながら、頭部を急降下させてきた。喉元にある「廉泉」のツボを狙った『鷹捉虎撲』。まともに当たればショック死はまぬがれない。
避けきれない——そう悟った常春は、せめて打撃を「廉泉」から外し、かつ衝撃を緩和するために後方へ跳んだ。
「ぐはっ……!?」
頭突きに込められた勁が食い込み苦悶するが、かなりやさしい。
常春は「く」の字形に吹っ飛びながらも、苦しまぎれに前蹴りを放った。頭突きのために下を向いた一条の顔面を蹴っ飛ばすためだ。
一条は迅速に頭部を持ち上げるが、それでも常春の蹴りは鼻をかすめ、鮮血を散らせる。
常春も今回ばかりは受け身をとりきれず、地面を転がることになる。
一条も鼻を潰され、怯んで一瞬動けなくなる。
その隙に常春は体勢を立て直す。
「っ……」
少しだけだが、衝撃を受けてしまった。体の内側が微かにジンと痛む。
そんな男達の泥臭い闘いぶりに、端から見ていた女性陣の顔色が抜け落ちる。
常春はそれを見ないフリをし、冷や汗を流して先ほどの一条の攻撃を回想した。
——こいつは間違いなく『八不打』を狙った。
心意六合拳の打撃を叩き込めば、間違いなく死に至るであろう「必殺」の部位を、一条は積極的に狙ってきた。
言外に突きつけられた「殺意」。
常春は一気に緊張感を持った。
今まで持っていなかったわけではない。だが、心のどこかでみくびっていた。女の前で殺人など犯さないだろう、と。
だが先ほどの殺意にあふれた連撃。
それを見せつけられたことで、常春はようやく今のこの状況を『非日常』であると完全に認識した。
「……確かに、あんたの言う通りかもしれないよ。一条」
自分は、『日常』に長居しすぎたのかもしれない。
師が存命のころは、『非日常』にたびたび足を運んでいた。それによって、武術の稽古だけでは養えない鋭い感覚を培っていた。
けれど、師が亡くなってからというもの、自分はそのような『非日常』にほとんど足を踏み入れていない。
それが、長年の勘を少しずつ錆びつかせていたのかもしれない。
平和な『日常』に、甘んじ過ぎていたのかもしれない。
その事実を、一条に突きつけられた。
『日常』を愛する常春も、今ばかりはその事実に悔しさのようなものを少しばかり抱いた。
「少しばかりあんたを甘く見ていた。すまない。そして——ありがとう」
同時に、厭戦的な感情ばかりを抱いていた常春の胸に、今、初めて「熱」が宿った。
昔と同じような「熱」。燃やし続けなければ死んでしまいそうな「熱」。
懐かしい緊張感と興奮。
遠き日の匂いを思い出すように、全身が歓喜する。
「これからは——手加減抜きだ」
一条は血の流れる鼻腔を拭い、好戦的に笑った。
「その顔が見たかった」




