アニオタ、左拳を右手で包む
ちょっと長いです。
初音に導かれるままやってきた場所は、知っている場所だった。
かつて彼女と、その親友である孫麗剣と会話をした、うらぶれた公園である。遊具の類は無く、あるのはベンチと桜の木のみ。青々とした葉桜が大きく梢を広げ、影を作っている。
セミの声とともにじりじりと照りつける夏の日差し。初音はハンカチをしきりに額に当てて汗をぬぐっていた。
「常春くんって、全然汗かかないね」
「うん。まあね」
初音と一緒にベンチに腰掛けた常春はなんでもないことのように返事をする。
最近の日本の夏もすごいが、アメリカのデスバレー国立公園はもっと暑かった。十一歳の頃、太陽熱で焼いた目玉焼きは美味しかった。師は馬鹿を見るような目を向けていたが。
鞄から出したボトルのルイボスティーをこくこく飲む初音の横顔を見つめながら、常春は尋ねた。
「ところで、会わせたい人って誰?」
「ふぅっ……えっとね、そろそろ来ると思うよ。それまで待ってて」
初音の言う通り、待つことにした。
ベンチを覆う木陰を作っている葉桜の梢をぼんやり見上げる。折り重なった無数の葉の隙間で輝く木漏れ日。まるで陽の当たる水面を思わせる。
そんな風にしばらく待っていると、やがて公園に気配が一人分入ってくるのを感じた。
「あ、貴織さん! こんにちは!」
初音の弾んだ声を耳にした常春は、入って来た気配が「待ち人」のものであることを悟った。
常春は目を向ける。
そこには、一人の大人の女性が立っていた。
ややくたびれた感じの色気がある美人で、口元に浮かんだ柔和な微笑がとても絵になる。細い肢体に白を基調とした夏物の衣装をまとっており、亜麻色に染められた長い髪の上に乗っかった白い鐔広帽子が、高原の一輪花のように清楚な感じを出していた。
(あれ? この人、どこかで……)
二十代後半か三十くらいに見えるその女性に対し、常春はなぜか既視感を覚えた。
どこかで会ったことが……いや、見たことがある顔。
でも、どこで?
常春が記憶の引き出しを探りまくっていると、初音はその女性を手で示して紹介した。
「常春くん、この人は貴織一二三さん。わたしがお世話になってる先輩なの」
——貴織一二三!
謎の既視感の正体はあっさり判明した。
アニメ専門誌で見た顔……つまり、声優だった。
仁科透華——隣にいる初音よりも長く声優業界で活躍し続けている人気声優。
常春が最初に見た日常系アニメにして、日常系アニメの元祖ともいえる作品「すいそう!」にて、新人とは思えぬほどの卓越した演技を披露していた。それを皮切りにしたかのように一気に人気を爆発させたのだ。
常春はおもむろに拳を握ると、それを顔面に叩き込んだ。痛い。夢じゃない。
「ちょっ!? と、常春くぅんっ!? 何してるのぉ!?」
鼻血をぼたぼたこぼしながら感動に浸る常春に、初音がびっくりした声を上げる。
初音にティッシュを鼻に詰め込まれながら、常春は鼻声で挨拶をした。
「はひへふぁひへ。おあひでひへこほへひれふ」
「何言ってるのか分からないよ常春くんっ」
そんな二人のやりとりを、ベテラン声優はクスクスと笑いながら見ていた。
「あなたが、伊勢志摩常春くん?」
それからすぐに、そう尋ねて来た。
おお、生の貴織ヴォイスだ——常春のアニオタ脳が打ち震える。デカルト哲学的に考えるなら、今の声は脳の振動を介して魂に波及し「喜びである」と認識していることだろう。魂まで響く声。貴織さんマジ神。
目の前のベテラン声優はからかうような笑みを交えて言った。
「透華ちゃん——今は初音ちゃんね。初音ちゃんてば、君のことをすごく楽しそうに話すのよ。すごく強くて、面白くて、頼りになるって」
「ちょっ、貴織さぁんっ!? 何を言ってるんですかぁ!」
初音は顔を真っ赤にして両手を振った。
「あと、私も今はオフだから、貴織さんじゃなくて本名で呼んでね。初音ちゃん、私の本名知っているわよね?」
「はい。芳川美織さん、ですよね?」
よくできました、とばかりに美織が初音の頭を撫でる。
そんな美織に対し、常春は意を決して接近を試みた。
「あの、すみません。もし差し支えがなければ——僕と握手などしてもらえませんかっ」
腰を九十度曲げて頭を下げ、右手を差し出す常春。
美織は一瞬きょとんとしたが、すぐに柔らかな微笑を浮かべてその手に応じた。
「「すいそう!」全シーズン、何回も見ました。最高です」
「ありがとう。応援してくれて嬉しいわ、伊勢志摩常春くん」
やばい。自分の名を呼んでくれる貴織ヴォイスだけじゃなくて、掌の冷たさにまで感動を禁じ得ない。興奮しすぎてセロトニンとかドーパミンの分泌がハンパ無い。チーズみたいに表情筋がとろけそう。我ながらめちゃくちゃ気持ち悪いけど、仕方ないじゃないか。だってアニオタだもん。
「……む」
デレデレしまくる常春を見て、初音は密かにモヤッとした奇妙な気持ちを抱いていた。
ひとしきり握手と笑顔を交わした後、常春はそっと手を離した。
そして、だらしなくとろけていた表情を引き締めた。
「では、本題に入りましょう。——僕に用というのは何でしょうか。僕の名前は初音から聞いたのでしょうが、僕を呼んだのはあなたなのでしょう?」
「……あの人の言っていた通りね。子供とは思えない、底知れないような目をしてる」
「あの人……?」
常春の声に、美織はこくんと頷きを見せる。
「あなたに会って欲しい人よ。そして、かつてあなたが会っている人……」
「僕が会ったことがある人……それは誰ですか」
なぜ初対面であるはずの自分のことを知っているような言い方をするのか——
いや、おそらく、自分の知っている人間であるはずだ。
予感があった。
直感があった。
このタイミングで、改めて自分に会おうとしたがる人物は、一人しか思い浮かばない。
常春は、虫の知らせを感じていた。
その人物の正体は、美織の口からではなく、
「——久しいな、伊勢志摩常春」
葉桜の木の影から姿を現したその男——一条二三貴本人の登場によって明かされた。
急に飛んできた声に、美織がハッと驚く。
(気配を感じなかった……)
そう思いつつ、常春はさほど驚きを抱かなかった。
昨日、一条の帰国の知らせを聞いてから、なんらかの形で再会を果たすことになると思っていたからだ。
一条はそのまま美織のもとへと歩み寄る。申し訳なさそうに彼女の頭へ手を置きながら、
「……すまない、美織。本当ならば、お前に頼ることはしたくなかったのだが」
「いいの、タカくん……」
そんな二人のやりとりを見て、常春はすべてに勘づいた。
「……あんた達、恋仲だったのか」
「驚かない所を見るに、俺が日本に来ている事は郭老師から聞いているようだな。……そうだ。美織は俺の女だ。俺が君と再び会うために協力してもらったんだ。そこにいる美織の後輩が、君と知り合いだったようなのでな。そのツテを利用させてもらった」
一条が、常春の隣にいる初音を一瞥する。
「えっ……あの、えっ……」と、うろたえた反応を見せる初音。
そんな初音に対して、美織は罪悪感のにじんだ表情と声で告げた。
「……ごめんなさい。つまるところ、私はあなたの事を利用していたのよ。あなたの友達の常春くんを、この人に会わせるために」
「どうして……そんなことを?」
「決着をつけるためだ」
初音の疑問に、一条の声が答えた。
その声色から不穏なものを敏感に感じ取った初音は、すかさず問うた。
「決着……常春くんと、あなたが、ですか? まさか……戦うんですか?」
「そうだ。俺はかつて、アフリカで伊勢志摩常春と戦った。しかし途中で邪魔が入り、それ以来勝負はお預けなままだ。そのお預けになった勝負を、今、ここでつける。俺はそのためにこの国に戻ってきた。……さあ、戦おう伊勢志摩常春」
一条はおもむろに、常春のもとへ歩み寄ってくる。
だが、その一条の前に、初音が立ちはだかった。
「……何の真似だ。お嬢ちゃん」
一条の冷ややかな眼差しを受け、初音は身を震わせるも、毅然と言い放つ。
「わたしは、常春くんを喜ばせたくて、美織さんをここに連れてきたんです。あなたと無駄な喧嘩をさせるためじゃありません」
非難の響きを持ったその発言は、一条だけでなく、後ろにいる美織にも向けられたものだった。
——許せなかった。
自分の、常春に対する善意を利用されたからだ。
美織が常春に会いたいと言ったとき、自分は思ったのだ。「常春くんが喜んでくれる!」と。
実際に常春に会いたがっていたのが、美織の恋人であるとも知らずに。
さらに、常春のことを尋ねる時、美織は言ったのだ。「あなたを助けた「あの男の子」とお話してみたいのだけど、連絡取れる?」と。
——「あの男の子」という代名詞を、美織はわざと使ったのだ。
一条が隣にいた以上、美織もまた常春の名前を知っていたはずなのだ。
それを隠すことで、初音に怪しまれぬようにして常春のことを聞き出した。
……薄ら寒い企みの匂いがする。
初音は、アニオタの常春が喜ぶと思って、美織に紹介しようと思ったのだ。
けれど美織は、声優としてのネームバリューを利用し、恋人の勝手な願いを叶えようとしたのだ。
それを今更ながら理解した。
だからこそ、初音は怒りを覚えていた。
美織と、その企みに気づけなかった軽率な自分自身に対して。
「常春くんは、あなたとは違います! 自分から争い事を持ち込むような、あなたみたいな人とは! 常春くんは、ただのオタクなんです!」
「……君は、この少年のことを何も知らないのだな。この少年は、君が思っているような愉快なアニメオタクじゃない。小銃を持った傭兵も顔色ひとつ変えずに半殺しに出来る生粋のファイターだ。君もあの時アフリカにいたら、そんな平和な印象など抱かなかっただろうさ」
「っ……知りません、そんなこと! わたしの知ってる常春くんは、今ここにいる常春くんです! とにかく、帰ってください!」
なおも退かない初音に対して、一条の瞳がとうとう不快げに細められる。
「……どきたまえ。でなければ、力づくでもどいてもらうぞ」
そう脅しても、動こうとしない。足は震えるが、頑なに動かさない。
そんな初音に、一条の無骨な腕がゆっくりと伸び——その腕を横から来た細腕が掴み取った。
「——初音に手を出すな。「お茶茶茶」の主演をすげ替えるつもりか」
常春。
静かな殺気を放ちながら、一条の威容を静かに睨んでいる。
懐かしいその眼差しと、剣呑な空気に、一条は背筋を興奮が駆け昇るのを感じた。
「やってくれるのか?」
「やらないって言っても、あんたは無理にでもやろうとするだろう。それこそ、周りの人間を無差別に傷つけてまで。だったら、はけ口は僕一人で十分だ」
常春は手を離す。一条はそれ以上初音にちょっかいをかけることはせず、一歩引き下がった。
それを確認すると、常春は初音の方を振り返り、
「そういうわけだから、ごめんね。結局やらなきゃ駄目みたい。少し後ろに下がっててくれないかな?」
「ダメだよ! そうだ、警察を呼ぼうよ! そうすれば——」
「——絶対にやめるんだ。もし戦いの邪魔をしようとすれば、一条は今度こそ君に容赦をしなくなる。仮に警察が駆けつけたとしても、一条ならそれを簡単に殺してしまう力も覚悟もある。……今のあいつは「無敵の人」なんだ。あいつは未練を果たすためなら何だってする」
「そんな……」
初音は青ざめた表情でうなだれる。
常春はそんな初音の両肩に手を添える。
初音は顔を上げ、常春と目が合う。
「初音、一つだけ約束して欲しいことがあるんだけど……いいかな?」
「え……?」
「もし、僕が勝ったら——君のサインが欲しいんだ」
ぽかん……という擬音が聞こえてきそうな表情となる初音。
そりゃそうである。戦いの前にサインをせがむなんて意味が分からないだろうから。
「ね? いいよね? 「伊勢志摩常春くんへ」っていう文字と、上手じゃなくてもいいから「やぶきた」の絵も描いて欲しいんだ。いいよね?」
だが目の前のアニオタは、気持ち悪い鼻息を立てながら、細かいオーダーをつけてくる。
時間を止めたように硬直していた初音は、やがて可笑しそうに吹き出した。
「——ふふふふっ、常春くんって、本当に面白いね」
「サイン、してくれるの?」
「うん。してあげる。だから——負けちゃ駄目だよ?」
こくんと頷く常春。
初音はそれを確認すると、しとやかに微笑み、公園の端に引き下がった。
公園の中央に、常春と一条が向かい合って立つ。
「いいね。良い面構えだ。五年前よりもずいぶん貫禄があるんじゃないか? 俺と別れた後も、多くの地獄を見たんだろうな」
「想像に任せるよ。ところで……やり合う前に一つだけあんたに訊いておきたい事がある。一条二三貴」
「なんなりと」
すましたような顔でそう答える一条。
常春は端から心配そうに見守っている美織を一瞥してから、再び一条へ視線を戻し、問うた。
「——あんたの『日常』は、どこにある?」
そう問われた一条は、一笑する。
「何を言い出すかと思えば。……今の俺に『日常』など無い。殺すか、殺されるか、俺はそんな二元論の世界を長年生きてきた。さらには病で「死」から避けられぬ身……こんな男に、いったいどんな『日常』があるというんだ? 俺にあるものはただ一つ「未練」のみだ」
「……そうか」
常春は失望したように返事をすると、おもむろに両手を胸の前まで持ち上げた。
右手で、左拳を包むように握った。
一条も、それに倣った。
『抱拳礼』。片手で作った拳をもう片方の手で包む礼法。
これは、握る拳の側によって、礼のニュアンスを変える。
右拳を包むと、挨拶や友誼などを表す普通の礼法となる。
左拳を包むと——命をかけて戦う覚悟の証明となる。
双方、抱拳を解く。
双方、右手を前に出して半身に構える。
双方、右手甲同士を重ね合わせ『塔手』の状態となる。
双方——動き出す。
一口に抱拳礼と言っても、門派によってやり方が異なることもあります。
たとえば台湾系の八極門では、両拳同士をくっつける抱拳礼をします。




