十五年来の再会《上》
常春が浩然から聞いた「非常に困った事」は、今から一時間ほど前に起こった——
「前々から思ってたけどさぁ、この検索エンジンの「口コミ」って、とんだクソシステムよね」
がらんどうになった『至熙菜館』の店内。座席の一つに座る孫麗剣が、天高く持ったスマートフォンの画面を見てボヤキをこぼした。
『至熙菜館』従業員のエプロンを身につけた三つ編み美少女……のような美少年、曹宝仁は、そんな姉弟子の言葉に表情を曇らせた。
「れ、麗姉さん……やっぱり見てたんですね」
「当然。ココはあたしら『正伝聯盟』の大切な根城だもんよ」
麗剣は不快げな顔で、スマホのディスプレイを宝仁に突き出した。
そこに表示されていたのは、検索エンジンの衛星マップ。
神奈川県S市一帯の地図上に、画鋲を刺したようなマークが一つ。『至熙菜館』のある場所を示していた。
表示されている情報は、この店の住所、電話番号、メールアドレス、店先の写真、最後に——五つのうち、一つしか色がついていない星マーク。
さらに星マークの横にある「口コミを見る」をタップすると、膨大な量の不評コメントが表示された。
「クソまずい」「スープから犬のクソみたいな臭いがした」「小籠包にダンボールの欠片が入ってた」「運ばれてきた担々麺のスープに店長の指が突っ込まれてた」「足元にゴキブリの死骸」「スープに虫が入ってるって言っても無視された」「注文頼んでるのに店長スマホゲーやってて聞いてなかった。五回も言わせんなよ」「保健所マジで無能。なんでこんな店が存在してんだよ」「所詮は中国人の衛生観念」……
見るに堪えない悪罵誹謗。
明らかに嘘と思われる書き込みも少なくない。
宝仁は悲しそうな顔をする。
「ていうかこれさぁ、見てておかしいと思わないかい? このクソコメが書かれた日って、みんな「あの日」の後だよ?」
麗剣の言葉に、宝仁はハッとした。
——話は、二週間ほど前にさかのぼる。
正午の時間帯。いつも通り店を切り盛りしていた店主の郭浩然は、店外が何やら騒がしいことに気づいた。
客への注文の品をすべて出し終えているのを確認後、店の外へ出る浩然。
ドアを出てすぐのところが騒動の中心だった。若い女性が、ヤクザ風の男二人に絡まれていたのだ。
彼らの足元には、粉々に砕けた陶器の壺。
近づいて尋ねると、その女性は歩いている途中に男二人へぶつかり、片方が持っていた壺を落とさせてしまったのだという。
その壺は名のある職人が作ったという非常に高価な代物で、一つあれば新車一台が買えるとのこと。
青ざめた女性に対し、男達は「君可愛いねぇ。おじさん達が良い夜の仕事教えてあげるよぉ?」と舐めるように言った。女性の顔からさらに色が失われた。
だが、過去のとある経験ゆえに、美術品に対してそれなりの認識があった浩然は、その壺が贋作であるという事実を見抜いてしまった。
それを打ち明けると、男二人は逆上し、殴りかかってきた。
だが浩然にとっては些事であった。力任せでひどく緩慢に進んでくる拳にするりと両手を滑り込ませると、呼吸を爆発させ、体軸を鈴のごとく急震させた。
その『抖勁』による振動波はならず者二人の骨格を揺さぶり、船酔いのような感覚を与えた。急激な気持ち悪さに二人は下を向いて激しく嘔吐した後、「こ、このじじい! いつか酷い目にあわせてやるからなぁ!?」という安い捨て台詞を残して逃げ去ったのであった。
——これが麗剣の言及する「あの日」である。
ヤクザ風の男たちは、浩然のしていた『至熙菜館』と書かれたエプロンを見ていたはずだ。
さらに、口コミ欄に書かれた大量の誹謗中傷の共通点は、全て「あの日」の後に書かれているという事。
人の悪意にある程度の敏感さを持ち、なおかつネット事情に精通している麗剣は、その事実を「臭い」と感じていた。
一方、優しい性格の宝仁は、そんな麗剣の言わんとしていることを悟ると、心を痛めたように目を伏せる。
「だとしたら、ひどいです…………嘘ばかりですよ、こんな書き込み。これ、どうにかできないんでしょうか……?」
「無理だね。こういう問題に関して、検索エンジン運営側は対応してくんないんだよ。「事実確認が不可能なため、どちらの主張も指示することができません」っていう決まり文句で片付けやがるのよ。いわれのない誹謗中傷をされた側は実質泣き寝入り。おまけに現代人はネットのレビューを信じやすい。だから言うわけよ「クソシステム」って」
IT系企業の社長令嬢でもある姉弟子の言葉に、宝仁はぐうの音も出ない。
愛弟子達がネットの発言について意見を交わす一方で、カウンターの向こうの厨房に立つ師、郭浩然は一切のゆらぎを見せていなかった。
「別に何でもかまわないさ。どのような悪罵が重なろうとも、たった一つの「真実」の前ではすべてが無意味だ。ならば私のすべきことはただ一つ、その「真実」をより良きものにするよう努力することのみ。……お前達に教えている武術もまた同じだよ。見栄えの良い虚飾に走らず、少しずつでも真なる功夫を積んでいけば、必ず将来良い結果となる」
「相変わらず達観してますね老師。まるで仙人みたいですよ」
「年の功だよ、麗剣。私とてここまで来るまでに色々と経験したのだ」
「そーゆーもんですかねぇ」
話の境地が高すぎてついていけなくなった麗剣は、手元にある皿に乗った小籠包を箸でつまもうとした。
その時だった。
「——変わりませんね、郭老師。周りの目や意見に惑わされず、真実のみを追い求める姿勢は今なお健在のようだ。かつて弟子だった身として誇りに思いますよ」
浩然、宝仁、麗剣を除いて誰もいなかった店内に、男の声が聞こえたのは。
「「——!!」」
宝仁と麗剣は身をビクッと震わせた。
全く気づかなかった。
声が聞こえるまで、いつの間にか店内に立っていた見知らぬ男の存在を察知することができなかったのだ。
その事実だけで、その男の非凡さが分かった。
さらに驚愕すべき点は、達人といえるほどの郭浩然ですら、気配を感づくのに少しばかり遅れたという点である。
常に静けさを崩さないその表情に、明らかな驚愕をあらわにした点もまた然り。
三人の視線は、ドアの前に立つ一人の男に向いていた。
歴戦の兵士のように精悍でいて、理知の気配を感じる顔つき。大柄で手足も太いが、無駄な筋肉が一切ない理想的な肉体。コンバットブーツを履くその二脚は、足幅以上に広く安定した重心を幻視させた。
武術の世界にそれなりに通じた少年少女はすぐに分かった。——この男、只者ではない。
だがそれ以上に強い「誰?」という疑問が首をかしげさせる。
一方、その二人の師は、懐かしむような表情と声でその名を口にした。
「二三貴……なのかい?」
二人の弟子は目を見開いた。
二三貴……すなわち、一条二三貴。
つい最近その存在を知らされた、『正伝聯盟』神奈川支部における最初の日本人弟子。
恋人を守るべく望まぬ殺人に手を染め、そこからずるずると闇の世界に堕ちていってしまった悲劇の人物。
その存在がいきなり目の前に現れたのは、まさしく青天の霹靂といえよう。
一条二三貴は、その精悍な顔つきを緩め、微笑を浮かべた。少し嬉しそうに。
「俺のことを、覚えていてくださったんですね」
それは浩然に向けられた言葉だった。
浩然はやや歯切れ悪く返した。
「……当たり前じゃないか。私が、愛弟子であるお前を忘れるものか」
「破門には、していないのですか」
「するわけがないだろう。お前は確かに人を殺した。だが、欲で技を振るったのではない、愛する誰かのために振るったのだ。それを咎めてしまったら、いったい武術は何のためにあるというのだ。破門になど……できるわけがなかろう」
浩然は語気をやや強めて言った。
普段の彼なら絶対にしないであろう、強い口調だった。
ややあって、浩然はカウンターから客間へ出て、手をおもむろに差し出した。
「——おかえり、二三貴。私はお前をずっと待っていた。お前は今も変わらず、私の大切な弟子だよ」
親愛の笑みをまじえたその言葉に、一条は嬉しそうに笑った。
だが、その笑みは、すぐに諦観を帯びた笑みに変わった。
「その言葉が聞けただけで、今の俺は幸せです」
「二三貴……?」
「俺が今日ここに足を運んだのは、最期にあなたとお会いするためです。すぐにお暇させていただきます。……俺の命はもう長くありません」
「どういう意味だい」
「末期の癌だそうです。余命はあと二、三か月といったところです」
とうとう全員が、同じような驚愕の反応を示した。
酷な自白をした本人は、その運命にさしたる悲観も見せることなく、今度は宝仁と麗剣へ目を向けた。親しみをこめた暖かな口調で尋ねた。
「君たちは、郭老師の弟子か?」
「あ、は、はいっ……あの、ボクは曹宝仁っていいます」
「あたしは孫麗剣。さっそくだけどさぁ……あんたちょっと手前勝手すぎやしない?」
恐縮した宝仁とは対照的に、麗剣は非難がましい口調で責め立てた。
「老師の気持ちを考えてみなよ。老師はあんたの帰りを十五年も待ってたのよ。十五年だよ? 受精卵から受験生になるくらいの年数だよ? それなのになんだい、あんたは。いきなりフラリと現れたかと思えば「俺はもうすぐ死にます。さようなら」だって? ふざけんじゃないわよ。あたしは、あんたを師兄なんて呼ばない。あんたみたいな自己満野郎に払う敬意なんかひとっカケラもないのよボケナス」
「……その通りだ。これは俺の人生で最期の自己満足だ。残り少ない命数を、俺はその自己満足のために費やそうと心に決めてるんだ。小師妹、君の謗りは甘んじて受けよう。だが俺は俺の行動を変えるつもりはない」
「あっそ。じゃあもう用は済んだでしょ。とっとと帰ってよ。そんで二度とここに来んな」
「れ、麗姉さんっ」とオドオドした態度で諫めようとする宝仁。
一条は噛み締めるように妹弟子の謗りを聞き受けてから、再び浩然へと向いた。
「今まで、ご指導ありがとうございました。あなたと会えて、俺は幸せでした」
「二三貴……」
浩然はなんとも言えない表情を浮かべた。
悲しめばいいのか、笑顔で送り出せばいいのか、判断がつかなかった。
昔の愛弟子の登場は、普段から冷静沈着である浩然の精神をそれほどまでにかき乱していた。
「これで心残りが一つ、消えました。あと一つ果たせば、俺は思い残すことなく逝けます」
「……それは、なんだい?」
沈んだ声で尋ねる浩然。
一条は表情を引き締め、言った。
「はい、俺に戦場で引き分けた少年——伊勢志摩常春という少年との再戦です」




