アニオタ、因縁との接近を感じる
一夜明けて、日曜日。
「——今日は、人間の「打ってはいけない部位」について説明しましょう」
流暢な英語でそう口にしたのは、アニメキャラTシャツとジャージズボンに華奢な身体を通した少年、伊勢志摩常春だった。
スペースの大きな白い広間。そこの壁際に立つ少年の目の前には、少年よりもずっと背が高かったり骨太だったりする人々が三十人ほど立っていた。日本人が一人もいない。全員白人か黒人であった。
S市にある米軍基地のトレーニングジム。
常春のバイト先だ。ここで毎週、蟷螂拳や、中国武術に伝わるさまざまな殺人技術を教えている。
すでに一年近くもここで教えているが、生徒の減りがほとんどない。それどころか初期よりも随分人が増えていた。
中国武術は玉石混交がはなはだしく、その強さに疑惑があるジャンルの一つだ。である以上、「本物」の技術を求める兵士達に食わず嫌いでそっぽを向かれると、常春はこのバイトを始める前から覚悟していたのだ。
ここまで生徒数の増加を見せている理由は、ひとえに、常春の実力と技術が確かなモノであったからに他ならない。
一番最初に勝負を挑んできた隊長の他にも、常春の実力を疑って素手での腕試しを申し込んできた者は何人もいた。常春はそれらを全員打ち破り、確固たる信頼を勝ち取ったのだ。
何人もの期待の眼差しが、常春に浴びせられている。
そんな彼ら彼女らの思いに応えるべく、常春は今日も教鞭をとる。
「中国武術には『点穴』という技術が存在します。中華圏で人気の武侠小説を読んだことのある方なら知っていることでしょう。小説の中では魔法のような技術のように描かれていますが、あれはあながち嘘ではありません。
——人体には『経穴』と呼ばれる部位が千箇所以上存在します。『経穴』を突くと、その突いた場所に応じて様々な反応を肉体に起こすことができます。赤血球や白血球の増加、血流やリンパの流れの促進、神経伝達物質の分泌の促進ないし抑制、血中モルヒネ類物質の増加……あらゆる効果が科学的にも証明されつつあります
この『経穴』を突き、相手の肉体に「変調」を起こさせる技術を『点穴』といいます」
ホワイトボードに黒ペンを走らせる。簡単な人体図と、点穴や経穴についての説明を箇条書きにしていく。無論、すべて英語。
「この「変調」とは、良い変化もそうですが、悪い変化も含みます。打った部位によっては、吐血したり、失明したり、体が麻痺したり……最悪の場合、死んだりします。
たとえば、脇腹に「腎兪」という経穴があります。ここは軽く突かれただけでも血尿が出るようになり、強く打てば意識不明となり死に至るでしょう」
生徒達の多くが、冷えたような表情となる。
まず最初に脅しておく。そうすることで、この技術の危険性を心に刻み込む。怖がるほど、それを悪用すまいという気持ちと、それを食らうまいという心構えが出来上がる。
常春は先ほど教えた「腎兪」の位置を人体図に書き記し、それから、あと七箇所の「打っちゃいけない経穴」を付け加えた。
「打てば危険な経穴はいくつもありますが、その中で代表的なものは先程の「腎兪」を含めたこれら八箇所です。
太陽、耳、風府、廉泉、肩貞、期門、腎兪、会陰……これらの八箇所を『八不打』と総称します」
それから、それぞれの部位の効果を説明していく。
説明を重ねていくうちに、その生々しさに生徒達の顔が緊張感を帯びていく。
普通なら黙っているべき危険な技術だが、この人達は普通ではない。
表現は悪いが、人を殺して飯を食う身分なのだ。
そんな身分の人間の敵は、同じく人殺しで飯を食っている人間。
殺すか殺されるかの間をたゆたう戦士を救う技術は、ともすれば「優れた殺人技術」である。
だからこそ、常春は妥協しない。しっかりとその技の危険性と、それに比例する有用性を説く。
ひととおり説明を終えた後、常春は最後に告げた。
「「打ってはいけない部位」と最初に言いましたが、この表現の有効範囲は、平和な『日常』の中のみを限定とします。——つまり、あなた方の職場である「戦場」では、この表現は180度ひっくり返る。
あなた方は軍隊という、ネガティブリストで動く組織です。ご法度を犯さない限り、あなた方はなんでもできる。リストが許す限りのあらゆる局面で、「打ってはいけない部位」を打ってよくなる」
ペンのキャップを閉じ、ボードの縁に置く。
「——中国の兵法書である「孫子」には、『兵は国の大事なり』と書いてあります。戦争というのは、そう簡単にやってはいけないという意味です。往々にして戦とは、始めることは容易ですが、終わらせることは実に難しい。おまけに勝っても負けても人々の心にしこりを残す。古代であろうと現代であろうと、その事実は変わらない。だからこそ戦争とは『非日常』なのです。……今日のような物騒な技術を教えた僕の言えた義理じゃないとは思いますが、あなた方がその『非日常』に身を投じる日が死ぬまで来ないことを心から願っています」
そこで常春は一度弁舌を止めた。
途端、生徒達から拍手を頂戴した。
常春は照れ笑いを返してから、気を取り直すように両手を二回叩き合わせる。
「それじゃ、次はいつも通りにいきましょう。——全員、間隔を作って」
言われた通りに全員が距離を開いて整列する。
それを確認した常春の口から「『小番車』、始め!」と発せられた瞬間、全員が一糸乱れず同じ套路を始めた。
『小番車』。蟷螂拳の基本の套路にして、蟷螂拳の中でも危険な技がたくさん詰まった套路。
「精神修養」「健康法」「趣味」といった現代的な動機ではなく、「生きる」「殺す」ための格闘術を欲する彼らには、この『小番車』を重点的に教えている。
常春の掛け声に合わせて、套路の順序を一つずつこなしていく生徒達。一つの技で止まった彼らの姿勢や手足の位置などを、常春が口頭で指摘して自主的に直させていく。
『小番車』を終えた後は、その中に含まれている動作の用法と、その時に用いる意念の説明。
あっという間に時間は過ぎていき、とうとうレッスンの終わりの時間となった。昼の十二時。
「では、今日はこれくらいにしましょう」
常春のその言葉とともに、場の空気が弛緩した。
その後も練習熱心な生徒達から質問をされる。それに対し、常春は適切で納得のいく答えを返す。
それもようやく収まり、常春は伸び伸びと腕を伸ばしながら炎天下の基地の外へ出た。
日米両国を隔てるフェンスにふんわりと背中を預けながら、常春は夏空を仰ぐ。
「『至熙菜館』にでも行こうかな……」
自然とその選択肢に行き着くあたり、自分はあの『正伝聯盟』という集団に馴染みつつあるのだな、と自覚する。
フェンスにもたれるのをやめ、その足を『至熙菜館』へ向けて進ませようとした瞬間、スマホが震えだした。
電話である。着信者は「郭浩然」。
彼が自分に直接電話をかけてくるのは珍しいなと思いつつ、常春は電話に出た。
「もしもし、常春ですが」
『ああ、常春くん。私だ、浩然だ』
「声でわかりますよ」
常春は苦笑する一方、浩然の声に何やら焦りのようなものが微かに混じっているのを感じ取っていた。
「もしかして、何か困ったことでもありましたか」
『……ああ。非常に困った事が起きてしまったよ』
重みを持ったその声に、常春の気が否応無しに引き締まる。
ためらうような、状況に対して無理やり自分を納得させようとしているような、そんな間を数拍子置いたのち、やがて浩然は告げた。
『『至熙菜館』に……一条二三貴が来た』
因縁の名を。
ところで、基地内と基地外って携帯で通話できましたっけ?




