戦争ボケ
……初音が美織と電話をしているのと同時刻。
ほのかな暑気がただよう夜の歩道。
高速で往来する車のライトが闇を切り裂き、横切る外灯が湯気のようにぼんやり光を放っている。
そんな人工の光に見守られながら、一条二三貴は一人で夜道を歩いていた。
しかし、ただ歩いているだけではない。
前に片足を出した半身の体勢。
前足と同じ側の腕を前に出し、上半身はウエスト部を雑巾のように絞ることでほぼ真横を向いている。
そんな奇妙な姿勢を保ったまま、一条は歩いていた。
ときどき通り過ぎる人は、そんな一条をあからさまに避ける形で横へズレて、通り過ぎた瞬間に早歩きで遠ざかる。
気が触れた奴だと思ったのだろう。
だが一条は正気だった。
真面目にこの歩法を練っていた。
心意六合拳の基本の構え『鶏腿樁』。
その姿勢を維持したまま歩いている今の歩法を『鶏行歩』。
両腕両足を、真上から見て一直線上の位置関係にした『鶏腿樁』の構え。前から見た面積が小さく絞り込まれているため、攻撃が当てづらい。位置を少し横へズラしただけで、簡単に敵の攻撃を避けられる。
さらに手・足・鼻先・鳩尾が槍のごとく一直線上の関係であるため、衝突した力が減退せずに相手に伝わり、高い殺傷力を発揮する。
その高性能な構えをキープしたまま『鶏行歩』で歩く。足を前に出すときは震脚で強く踏み出す。出来る限り軽快に足さばきを行う。
これら二つは言うなれば「砲台」。心意六合拳の発勁と戦術の根幹をなす重要な基礎である。
この歩法を、一条はすでに五キロメートル続けていた。
珍妙な見た目とは裏腹に、この動きのまま歩き続けるのはひどく体力を消耗する。一条の分厚い上半身に通った半袖は、滝のような汗でずぶ濡れの有様であった。
夕方に美織の家を出たところからスタートし、ぐるっと回って戻ってくるコース。
もうすぐ美織の家に到着する。
あと少しだけ、この苦痛に付き合うことになった。
(苦痛、か)
一条の感じている「苦痛」とは、歩法の鍛錬による足腰の疲労のことだけではなかった。
——平和すぎるのだ。
たとえば、今通り過ぎた空き地にぼうぼうと伸びた草むら。
あの中から、5.56mmNATO弾の豪雨が降り注ぐのではないか——そういった一条の懸念が、ことごとく杞憂に終わる。
スマートフォンを操作しながら歩いていても、音楽を聴きながら歩いていても、襲われる心配がほとんどない国、日本。
弾雨のやまない国々ばかりを生きてきた一条にとっては夢のような国だが、同時に気持ち悪さのようなものも覚えた。
戦争をよく知る自分。戦争を全く知らない、その他大勢の日本人。
同じ国土を踏んでいても、全く別の世界にいるような錯覚が消えないのだ。ひどい疎外感を覚える。
彼らが平和ボケなら、自分は戦争ボケといったところか。
——つまるところ、一条は今なお、戦場という名の『非日常』から抜け出しきれていないのだ。
「シェル・ショック」という言葉がある。第一次大戦中に多くの兵士を苦しめた戦争後遺症だ。熾烈を極める塹壕戦の中、近くに落ちた爆弾の音はこの世のどんな音よりも凄まじいものだったという。その轟音を何度も耳に叩きつけられることで、神経が冒され、日常生活に支障をきたすレベルのショック症状を慢性的に引き起こす者が多かった。
自分も、それと同じなのかもしれない。戦場という『非日常』に、知らぬ間に心を冒されていたのかもしれない。
「美織……」
今、家で自分の帰りを待っている、最愛の女の名を呟く。
15年の時を経て再会した自分を、彼女は受け入れてくれた。
美織の顔を見るだけで立ち去るつもりだったはずなのに、その嬉しさに流されてしまった。
心と体を溶け合わせた時のとてつもない幸福感が、今なお体の芯に残留している。
彼女の存在こそが、今の自分を『日常』に繋ぎ止めている「杭」のようなもの。
もっと美織と一緒にいたい。今までしてやれなかったことを、たくさんしてやりたい。
「……っ!?」
が、次の瞬間、臓腑を絞られるような痛みが襲ってきた。
一条は電柱に手をつき、呼吸を必死に整える。
銃弾を撃ち込まれる痛みに比べれば幾分マシであるが、痛覚以上の衝撃を一条に味わわせた。
今更『日常』にすがるなどおこがましい——そう天が告げているようであった。
しばらくして痛みはおさまる。
けれど、最近この痛みの頻度が増している。
病は、着実に自分の肉体を侵略している。
「時間がない……」
一刻も早く、残り二つの未練を解消しなければ、死んでも死にきれない。
明日さっそく、そのうちの一つを解決しにいく予定だ。
検索エンジンのマップで『至熙菜館』がまだ存在していることに、一条は安堵していた。……やたらと星1の口コミが多いことが少し気になったが。
美織の方も、伊勢志摩常春に助けられたという後輩のツテを使って自分の手伝いをしてくれている。
「私、ひどい女。自分に憧れてくれている子の気持ちを利用しようとしているんだもの……」と乗り気ではなかったが、それでも一条の「わがまま」のために動いてくれた。
自分はもう後ろを振り向けない。
ゴールが目前まで迫った残り少ない人生を、全力で駆け抜ける他ないのだ。
一条は再び、鍛錬を再開したのだった。




