電話する女
「——『ああ、私は一向に構いません。愛するあなたを幸福に導けた……この事実だけで、私の心はこんなにも満たされている。これ以上の幸福が、一体この世の何処にありましょうか』」
六畳間ほどの狭い四角形の空間に、甘やかな響きを持った女の声が染み渡った。
周囲の壁全てを防音素材で覆った殺風景な部屋。
唯一の光源である電気スタンドが照らし出しているのは、部屋に一人たたずむ少女。
「——うーん、ちょっと媚びてる感じがするかなぁ。もっとこう……見返りを求めないで、貴方に尽くすのは貴方のためじゃなくて自分のためなんですよ、っていう、相手本意に見せかけた自分本位?」
哺乳瓶の底を切り抜いて作ったような地味めの眼鏡。普段はそれに加えて二本の三つ編みを束ねてさらに垢抜けなさを倍増させているのだが、お風呂上がりである今は櫛を通されたストレートロングの黒髪。
中里初音。普段はごく普通の女子高生だが、その実「仁科透華」の名でアニメ界を疾駆している超人気声優。
そんな彼女が目を通していたのは、右手ににぎられた一冊の本。
昨日、久しく会った憧れの先輩声優、貴織一二三とともに行った収録現場でもらったばかりの台本。
けれどその台本は、すでに長年読み古したようにクシャクシャとなっており、数ページにわたって手垢が染みついていた。
「いっせーのっ——『あなたが幸福であるなら、私も幸福になるでしょう。たとえあなたが他の女性と枕を共にする光景を見せられたとしても、私は構いません。あなたの幸福のためならば、私は甘く高鳴っているこの心の臓さええぐり出し、惜しみなく差し出しましょう』」
そう。初音は今、アテレコの練習をしていた。
両親が庭の物置を改造して作ってくれた、小さな防音室。これのお陰で、近所迷惑にならずにトレーニングができていた。感謝の言葉もない。
今は夜だが、ほのかに暑気がある。ましてこの部屋にはクーラーがない。お風呂に入ったばかりなのに、初音はいつの間にか汗まみれになっていた。
それでも初音は気にすることなく練習を続行。
今回、初音に与えられた役は、主人公に一途な愛を送る魔女の役。
魔女であることを理由に忌み嫌われていた。けれど主人公は唯一優しくしてくれた。
そんな主人公に、魔女は恋に落ちる。
けれど、その想いは叶わない。主人公にはすでに、心に決めた女性がいた。
魔女には、その女を簡単に消し去る魔法の力があった。
しかし、魔女は欲望に走ることはしなかった。
魔女の望みは、主人公を手に入れることではなく、主人公の幸福。
主人公が幸福であれば、自分が伴侶でなくても良い。
たとえ生涯独身になろうとも、陰ながら主人公を見守り、困ったら助ける。老い果てるまで見守り続ける。
そんな寂寥感にあふれた、報われぬ決意を固めた魔女。
男の理想を体現したような、献身的で甲斐甲斐しい女性。
だが、その理想の乙女を演じる若手声優は、そんな人物像にわだかまりのようなものを覚えていた。
魔法でインチキをしようとしない姿勢は大いに好感が持てる。
けれど、他に恋をしている女性がいるからといって、すぐに諦めて身を引いてしまうというのはどうなのだろう。諦めがあまりにも早すぎるのではないだろうか?
主人公の想いの矛先を自分に向けようと、努力をしてみる価値はあるように思える。
(……まぁ、わたしは恋なんてしたことないから、分からないのかもしれないけどね)
自分は、恋というものをしたことがない。
保育園の頃、年若い先生にそれらしい想いを抱いたことはある。だがそれはあくまで「それらしい」憧れのようなものであり、本物の恋ではない。それくらいなら理解できる。
そういう点から、初音は恋愛もののアニメに出演する時、演出に困ってしまう時が多少ある。
他の声優が、そういう悩みを持っているかは定かではない。
初音は仕事に対して妥協ができない性格であるため、人一倍苦悩してしまうだけなのかもしれない。
だが、この業界において、仕事を与えられるだけでも大いなる救いであることを初音は知っている。
だからこそ、役を与えられたからには、ただ声を当てるだけで終わらせない。
その役の気持ちを可能な限り理解し、良い演技をすべく努力する。
これまでも、これからも。
初音はパイプ椅子に置いてあるボトルを取り、その中の天然水を少し飲んだ。
体を休ませてから、もう一度練習を再開しようとした時だった。
ボトルと同じく、パイプ椅子の上にあるスマートフォンが、震えだした。
ディスプレイは、着信を表している。
相手は「芳川美織」。
どきり、と胸が高鳴る。
憧れの先輩声優の本名——もし「貴織一二三」と登録すると、初音が声優であるとバレてしまう可能性があるため、本名を教えてもらって登録した——である。
昨日に番号を交換し合って早々、さっそく電話をかけてくれたことに嬉しくなる。
一方で、恥ずかしい気分にもなる。
数回そわそわしてから、ままよ、とばかりに通話ボタンをタップし、スピーカーを耳に寄せた。
「も、もしもし、えっと、あの、仁科……じゃなくて、今は中里ですけどっ!」
『こんばんわ、初音ちゃん。私。美織よ』
「は、はい! 電話帳に登録してあるので、分かってましたっ!」
『そう。……こんな時間にごめんなさいね。今、大丈夫かしら?』
「大丈夫ですっ。さっきまで練習してましたけどっ、今は休憩中ですっ。用件がおありでしたらどうぞ! なくてもどうぞっ!」
『ふふふ。じゃあ、お言葉に甘えて、用件を言うわね』
こんな夜に電話をかけてきて、一体何を言われるのだろうか。
期待と不安を同時に抱きながら、憧れの声がつむぎ出す用件をじっと待つ。
電話の向こうから、逡巡するような空白が数拍子生まれる。
やがて、意を決したような声で、言った。
『実は——』




