最期のわがまま
美織は一条とともに、自宅へと戻った。
そこから先は、言葉がなかった。
食事もシャワーも着替えも何もかも頭から放り出し、一条とともにベッドへと身を投げた。
ぶつけるように互いの唇を重ねる。そのキスは時間を経るごとに熱烈に、粘っこく、執拗になっていく。
それでもなお繋がり足りぬとばかりに、互いは互いの衣服を脱がし合い、生まれたままの姿になって互いの素肌と体温を重ねた。
そこから、さらに深い繋がりを求めた。
二人は貪欲に、心と体を交わし続けた。
疲労も忘れ、時間の感覚もおぼろげなまま、あらゆる体勢で絡み合い、愛をささやき合い、獣じみた快楽を共有した。十五年という空白を埋めようとするかのように、熱く深く愛し合った。
気が付くと、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。
その朝日に当てられて、愛欲で昂っていた二人にようやく理性が戻った。
裸体のまま、ベッドで仰向けになる。
「タカくんっ……」
美織は甘える子猫のように、一条の分厚い胸板にしなだれかかった。
セックスの後、人は情緒が一時的に退行することがある。今の美織は、精神が十五年ほど若返っていた。ちょうど、二人が離別した時と同じ年代だ。
一条はそんな美織をそっと抱き締める。互いの指を絡み合わせる。
しばし、二人は黙って体を寄せ合っていた。それだけで、身にのしかかる疲労もほんのりと心地よいものに変わる。
しばらくして、美織が小さくささやくように尋ねてきた。
「ねぇタカくん……今までどこに行ってたの?」
そう訊きつつも、美織はおおかたの見当を内心で付けていた。
鋼のように引き締まった一条の肉体。昨晩、何度も指と唇を這わせたから分かった——無数の傷跡。
うっすら残っているもの、くっきり残っているもの、あらゆる傷跡が鋼の肉体を彩っていた。まるで使い古した銃器のようだ。
おそらく、いや、確実に、自分の想像もつかないような危険な世界で生きてきたのだ。
「傭兵をやっていた」
美織の予想通りの類の答えを、一条はあっさり口にした。
「俺は刑期を終えたのち、住んでいた街へ一度戻ってきた。だが、刑期を終えても俺が脛に傷持つ身の上であることに変わりはなく、街の連中は俺を腫れ物のように扱った。……実は、お前の家も尋ねていたんだ。だが、ご両親から「もう二度とこの家に来ないでくれ。娘にも関わらないでくれ」と門前払いをくらったよ」
「そんな……!」
初耳だった。一条が自分を一度尋ねていただなんて。
両親はそれを拒絶し追い返し、あまつさえ自分に黙っていたのだ。
自分の夢を支え、応援してくれていた親にはいつも感謝している。けれど、この事ばかりはさすがに憤りを覚えた。
「俺は悟ったよ。一度この拳を血で汚してしまった俺を受け入れてくれる居場所など、あの街に、いや、この国にはないということを。……俺は半ば自棄になった。一度暴力で手を汚したら、そこから逃れられない。なら、とことんその沼に沈んでやろうと思った。だから俺は傭兵に身をやつした。中東やアフリカなどでは、傭兵のニーズはそれなりにあったからな。俺は端た金で雇われ、数多くの地獄を駆け抜けた」
一条の言葉が、徐々に熱を帯びていく。その当時の自分に似せたような、やけくそ気味な口調だった。
「悔しいが……俺は戦場が楽しかった。法律やら倫理やらの枷を外し、身に宿る戦いの術を出し惜しみせず存分に振るえるその地獄が、居心地がよかった。最初の頃は非戦闘員の女を犯そうとするクズを殴り倒す程度の良心は持ち合わせていたが、だんだんそのような異常な光景が「日常」に思え、見て見ぬふりをするようになった。俺はそんな地獄に馴染んでいた。俺は戦うのが楽しかったんだ。だからこそくだらない殺し合いに耽溺した。……そして一方で、そんな自分を心の奥底で嫌悪していた」
美織の肩に回された無骨な手が、ギュッと引き寄せられた。
「そんな中、俺はお前の活躍をネットでよく見ていた。……嬉しかったよ。ずっと憧れていた声優になって、活躍しているお前を見ているだけで、俺の心は暖かくなった。俺の血塗られた拳にも、お前を救った名誉がある。その事実のおかげで、俺はヒトとして本格的に踏み外す一歩手前で踏みとどまることができていた。だからこそ、俺は人を殺して飯を食う自分自身を嫌うことができていた。……もし自分を好きになっていたら、俺は本格的に「戻れなく」なっていただろう」
「タカくん……」
「だが、そんな俺に「逃げるな」とばかりに天が選択を迫った。——一ヶ月前、癌が見つかったんだ。しかも、すでに末期だそうだ。比較的若いから進行が早かったんだろう。余命はあと二、三ヶ月らしい」
美織は思わず息を呑んだ。
暖かかった精神が、一気に零下にまで下降した。
全身に嫌な痺れが出てくる。息が苦しくなる。
一条がいなくなる? そんな、嫌だ、せっかく会えたのに。
美織のそんな内心の恐慌とは裏腹に、一条はすっきりした微笑を浮かべて言った。
「まぁ、散々人殺しを楽しんだんだ。それにふさわしい末路を天が与えたのだろうよ。俺もそれをあっさり受け入れ、どう余生を過ごしたものかと黙考していた。……ちょうどその頃、俺はSNSである映像を見て、衝撃的な気分にさせられた」
映像って? と問う余裕など今の美織にはなく、一条の話を受け身で聞いていた。
「……仁科透華、とかいったか。そんな名前の声優がステージ上で襲われたのを、一人の子供が助けた映像だ。その子供を見て俺は目を疑った……その子は間違いなく、俺が一度戦場で武を交えた子だったからだ」
可愛い後輩の名前がいきなり出てきたことで、美織の心にかろうじて質問をする気概が生まれた。
「あの男の子が……?」
「ああ。とても十三歳とは思えないほどに強かった。俺は今まで自分に敵う兵士を見たことがなかった。だがその子はそんな俺と伯仲するほどの強敵だった。……まあ、撤退命令が下ったせいで最後までやれなかったのが心残りだがな」
不思議と、一条の口調が少しばかり弾んでいた。
「そんな少年——伊勢志摩常春の姿を再び見た瞬間、俺の中に、死ぬ前に日本でやりたい三つの「わがまま」ができたんだ。
一つ目は、伊勢志摩常春との再戦。
二つ目は、親愛なる郭浩然老師への謝罪と最期の挨拶。
三つ目は——お前に会うためだ、美織」
それを聞いた瞬間、美織は目に涙を含ませ、一条の胸に強くしがみついた。
「タカくんっ……!!」
「泣くな、美織。今、俺はとても幸せなんだ。ずっと修羅の泥沼から抜け出せずにいた俺が、またこうしてお前のそばに居られるんだからな」
「やだ……私、もっとタカくんと一緒にいたいよっ……!」
「俺もだ。しかし、それはもうかなわない。だからせめて俺がくたばるその時まで、ずっと俺の側を離れないでくれないか」
美織はすすり泣くばかりで、返事をしない。
一条とて分かっていた。自分がいかに残酷なお願いをしているのかを。
こんなことになるなら、いっそ再会など望まず、ずっと消えたままでいて、彼女が他の男と幸せになるのを陰ながら見守っていた方が良かったのではないか。
だから、これは「わがまま」なのだ。
一条二三貴という人間が最期に望む、愛という「わがまま」。
しばらく泣いた後、美織は泣き腫らした顔で言った。さっきまでの迷子じみた泣き顔とは違う、決意に満ちた顔つきだった。
「……分かったわ。私、タカくんの力になる。タカくんのそばにずっといる。タカくんの「わがまま」を叶える手伝いもしてあげる」
「ありがとう、美織」
一条は両腕で包むように美織を抱きしめる。
「その代わり……タカくんにも一つだけお願いがあるの」
「何だ? 何か欲しいものでもあるのか?」
美織はかぶりを振ってから、熱に浮かされたような眼差しで一条を見つめ、これ以上ないくらい真っ赤な顔で言った。
「私は——」
正直、病気をネタにするのは湿っぽくてイヤだったのですが、こうした方が話を進めやすかったので、溜息をつきつつ書きました。
自分、できれば敵にも味方にも生きていて欲しい感じの性格なので……




