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夢を叶えた女、夢を護った男

「雨脚が強くなってきたわね……」


 その女——芳川(よしかわ)美織(みおり)は本降りになっていた外の景色を、傘越しにしんみり見つめていた。


 鼻筋が通り、穏やかに整っていつつもどこかくたびれた感じの艶っぽさがある顔立ち。亜麻色に染められた長い髪は先端付近で緩やかにウェーブを刻んでいる。白い生地に赤い花柄で彩られた夏物のワンピースが、細くも均整の取れた輪郭を描き出している。


 そんな美織が持つ傘の下には、もう一人、とても美しい少女がいた。


 仁科透華。今をときめく超人気声優である。


 黒曜石を糸にしたような艶やかな黒髪が特徴なその美少女は、申し訳なさと感謝の気持ちが半々ずつ混ざったような口調で美織に言った。


「ありがとうございます、貴織(たかしき)さん。わたし傘忘れちゃったからって、一緒に入れてもらって……」


「いいのよ。私たち(・・・)は声が命だもの。風邪を引いたら大変よ」


 美織は相合い傘をしている少女に、雅な微笑みを浮かべてそう言った。


 「貴織」とは、彼女が仕事としている声優をやる時に名乗る名前の一部だ。


 芳川美織——またの名を、貴織一二三(ひふみ)


 声優業界で長年その名を知らしめている、ごく少数のトップ声優の一人だった。


 18歳の頃に声優デビューし、才能を開花。それから十年以上もの間、仕事をほとんど減らすことなく活躍し続けている。


 昨今の女性声優は年齢を見られがちだが、彼女は純粋な実力でそんなオヤジ根性丸出しの業界を黙らせてきた。


 最近では時代を追って動画配信者としてもデビュー。彼女のチャンネルは一気に人気を博した。


 そんな「貴織一二三」に憧れて声優になる者、また少しでも実力を近づけようと努力する者は数多かった。


 この隣にいる「仁科透華」も、そうして生まれた逸材だった。


 二人は現在、新作アニメの収録を終えて、帰っている途中だった。


「あの、今日は本当に楽しかったです! またこうやって、貴織さんと共演出来て……」


「ふふ、私もまた貴女と会えて嬉しかったわ。最初会った頃よりずいぶん見違えてて、びっくりしたもの」


 最初の頃、声優になりたてでテンパりまくっていた頃の透華を思い出し、微笑ましい気分になった。


 しばらく歩いて、二人は駅前にたどり着いた。


 本当は二人一緒の電車に乗る予定だったが、透華だけを先に行かせることにした。何だか、このまま帰るのはもったいない気がしたのだ。


 残念そうな顔をする透華の頭を優しく撫でて別れた後、美織は再び夜の街の中に出た。


 煌々と光を発する街並みを、無数の人々が行き交っている。東京のど真ん中の情景は、夜になってからその明るい顔を見せる。


 その街並みを、雨粒という無数のプリズムがさらに煌めかせている。美織はそんな雨に彩られる夜の輝きが好きだった。多少寒い思いをしても見ていたくなる。


 近くのコンビニでカフェオレのカップを購入し、店の壁にもたれながら、雨の夜景をうっとり細めた目で眺める美織。


 美織の脳裏に、これまでの追憶が流れる。


 ——自分は、今、夢を叶えている。


 幼い頃、女児アニメを見たことに端を発した声優という夢を、自分は叶えた。それだけでなく、今なお前へ進み続けている。


 いろんな人が、自分のことを支えてくれた。


 最初から応援してくれた母、最初は反対したが最終的には好きにしろと言って助けてくれた父、学校の友達。


 そして——自分を見つめてくれていた恋人。


 少し朴訥(ぼくとつ)だけど、とても優しくて律儀な人だった。


 高校一年の頃の体育の自習中、隠れて何やら変な体操をしているのが気になって声をかけたのがキッカケだった。「それ、何の体操?」と聞いた自分に、「彼」はやや不満げに顔をしかめながら「……拳法だよ」と言った。


 それから何度も交流を重ねていく内に惹かれあい、いつの間にか恋人同士になっていた。


 しかし、その別れはすぐに訪れた。


 美織は告白を断った男の恨みを買い、その男の率いた不良集団によって輪姦されそうになった。


 そこへ助けに来てくれたのが「彼」だった。


 「彼」はその激烈な拳法を使って、十数人にも達する多勢を無傷で全滅させた。主犯格の男を打ち殺し、その他大勢も半殺しにしてしまった。生涯にわたって立ち居が困難になった者もいるという。


 「彼」は自首し、少年刑務所送りとなった。


 それ以降、「彼」からは音沙汰がない。


 世間は「彼」をこぞって叩いた。「普通の子だった」「人殺しをするような子じゃなかった」「大人しい子供ほどキレると恐ろしい」……メディアはバイアスだらけの報道で「彼」を非難した。


 そんな無責任な意見ばかり言う世間に、美織は心底腹が立った。


 「彼」がいるから、今の美織があるのだ。もし「彼」がいなかったら……心を病んでいただろう。


 だからこそ、美織は「彼」に感謝している。


 だからこそ、会えないのが今なおもどかしい。


 もうとっくに刑期は終えているだろう。それなのに、美織の前に彼は現れない。


 美織は、今なお「彼」の事が好きだ。愛している。


 けれど、そろそろ現実を見据える時期に来ているのかも知れない。


 自分はもう生物学的な女としてのタイムリミットが迫っている。もう「彼」の事は忘れて、別の男性を見つけるべきなのかも知れない。


 だが、やはり「彼」の姿が、今なお脳裏に張り付いて消えてくれない。


「……はぁ」


 モヤモヤしたものを胸中に抱き、美織はため息をついた。


 今は夏だが、雨が本降りになっているためほのかにひんやりとしている。その微かな冷えが、美織の内にある寂しさをさらに助長させる。目の前をカップルが通り過ぎるのを見るたびにさらに体感的に寒さが増した。


「……ダメね。こんなんじゃ」


 これ以上ダメなスパイラルに陥る前に、美織は気を取り直した。カフェオレの残りを一気にストローで吸い取り、空き容器をゴミ箱に放り込んでから傘をさして駅へと歩き出した。

 

 雑踏をかき分け、歩いていた時だった。




 ——見覚えのある、後ろ姿を見つけた。




 最初は「()」によく似た後ろ姿だなぁと思って視線を送っただけで、強い感心は抱かなかった。


 けれど、その男性が横を向いた時の横顔まで「彼」にそっくりだった。


 いや、自分が最後に「彼」を見たのは、「彼」が暴漢たちを叩きのめした後に「自首してくる」と去った時だ。その時の年齢は十六。目の前の男性は、まず三十を少し超えている。


 だが、それを含めても、面影が濃かった。


 気が付くと、美織は他人にぶつかるのも気にせず、その男を追いかけていた。


 さながら、幻想に魅せられ、引き寄せられていく迷い子のように。


 駅より離れたところへ進んでいても、全く気にしなかった。


 その男は歩くのが早かった。けれど一生懸命息を切らせて走り続け、


タカくん(・・・・)……なの?」


 やがて、近くなった男の背中に向かってそう恐る恐る尋ねた。


「……その歩調、その呼び方。やはり美織か」


 見もしないまま自分の名前を言い当てられ、美織の心音が一気に高まった。


 その男はおもむろに振り向き、自らの顔を明かした。


 精悍ながら知性がにじむ顔立ち。やや骨太で大柄な体躯。


 自分に向けて穏やかな眼差しを送るその偉丈夫は、やはり美織の中の「彼」の姿とは様変わりしていたが、面影はちゃんとあった。


 何より、彼は自分を名前で呼んだ。


 間違いない。


 彼こそ、自分の恋人だった——一条(いちじょう)二三貴(ふみたか)である。


 美織は我知らず傘を取り落とす。雨に打たれるが、それすら気にならない。


 気が付くと、美織は一条の胸の中に飛び込んでいた。


「タカくん、タカくんなんだよね……? 本物なんだよね……?」


「お前が俺の拳法の練習を「体操」呼ばわりした事、俺は忘れていないぞ」


 からかうような優しい声色とともに、大きな手が美織の背中に回った。


 やっぱり……本物だ。


 美織はこの時、奇跡というものを本気で信じていた。


 十五年間願ってやまなかったことが、こんな形で訪れるなんて。


「タカくんっ……!」


 懐かしい彼の匂い。ずいぶんと体格が大きくなってしまったが、この体温は紛れもなく一条二三貴のものだ。


 それを感じると同時に、美織の中に非難の感情が一気に生まれた。


「バカッ! どうして今まで会いに来てくれなかったのっ!? 十五年よ!? どうしてこんなになるまで私を一人にしたのっ!?」


 その感情を言葉として、ひたすら目の前の最愛の男に浴びせかける。


 一条は美織の後頭部をそっと撫でると、穏やかな声で言った。


「……すまなかったな。だが、俺は殺しの前科持ち、お前は人気声優だ」


「私は気にしなかった! そんなつまらないことっ! だって、タカくんは自分の手を汚してまで、私のことを守ってくれたんだから!」


「……ありがとう」


 一条は一息置いてから、ささやくように訊いてきた。


「美織——()幸せか(・・・)?」


 美織は目を見開き、そして嫣然(えんぜん)と微笑んだ。


「うん。今、私幸せよ。今でも仕事に情熱が持てているもの。毎日が充実しているわ。これも全部、タカくんのおかげよ」


「そうか」


 言うと、一条はそっと美織から身を離した。


 そして、背中を見せた(・・・・・・)


「タカくん……?」


 愛しい体温が離れ、一気に身の置き所のない不安が押し寄せる。


 一条は背中で、優しく語った。


「俺が日本に帰ってきたのにはいくつか理由があるが、そのうちの一つは、お前にまた一目会うためだった。……お前が幸せであるか、確かめるためだった。これで俺の願いの一つは叶った。立ち去るとしよう」


「な、何を言ってるの……?」


「もう十五年も経ったんだ。お前にはもう別の大事な男なり何なりができているだろう。俺みたいな薄汚れた人間が側にいると、いろいろと不味かろうよ。……だから、さようならだ美織。ずっと、幸せにな」


 そう言って立ち去ろうとした一条の背中に、美織はすがるように貼り付いた。


「いないわよそんな人っ!」


 胸中で渦巻く怒りやら悲しさやら恋慕やら、内混ぜになった感情の赴くまま、美織は言葉をぶつけた。


「いきなり現れて、いきなり自己完結しないでよっ!! 自分のこと、汚いものみたいに言うのやめてよっ!! もっと、私の話も聞いてよっ!!」


 涙が溢れてくる。


「私はっ……今でもタカくんのことが好き。タカくん以外の男の人となんて考えられない」

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― 新着の感想 ―
[一言] 新エピソードもワクワクさせてくれますね!
[一言] 幸せになっでほぢい!!!!!!!!(号泣)
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