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アニオタ、空気椅子をさせる

 翌日、日曜日。


 常春は『正伝聯盟(せいでんれんめい)』神奈川支部へと来ていた。


 いる場所は無論、至熙(しき)菜館(さいかん)の地下にある広間だった。


 けれど今日は茶を飲みに来たわけでも、話をしに来たわけでもなかった。


 再確認——正伝聯盟の主要な活動は「伝承」である。


「その状態を、僕が「いい」と言うまで維持し続けなさい」


 常春の引き締められた命じに、バリー・ロゥは「(シィ)」と返事した。


 身長2メートルを超える巨漢は、今、空気椅子のような立ち方のまま静止していた。


 足を肩幅に開き、両爪先を前へ向け、背筋を真っ直ぐにしたまま腰を落とした体勢。両膝はやや内側へ寄り、大腿部は床と並行。


 正しい形を取られたことにより、今のバリーの両足には、全体重が分散なくずっしりのしかかっていた。


 それを維持することがどれだけ辛いかを、バリーも、そして常春も知っていた。


 『馬歩(まほ)』という、中国武術における基本の立ち方だ。


 中国武術には多くの「立ち方」が存在する。だが、それらは一部の例外を除いて、軸足は必ずこの『馬歩』の形を取る。それが最もバランスを保つのに優れた形であるからだ。


 だからこそ、このように『馬歩』を長時間保つことで、それによって体に来る苦痛を伴って神経レベルで形を覚え込ませる。人間、苦痛を伴って覚えたことは忘れにくいのである。


 だがそれだけが、この『馬歩』の意味にあらず。


 『馬歩』を長時間維持する……この練習を毎日行うと、上半身から力が抜け、全身の重みと気が下に降りてくるのだ。足の裏に妙な重量感を感じるようになってくる。


 それを踏み込みや蹴り込みなどによって爆発させ、その(ちから)を上半身に稲妻のごとく伝達し、敵に打ち込む。それが発勁(はっけい)と呼ばれる技術だ。


 『馬歩』はいわば、中国武術の根っこ。

 『馬歩』が不正なら、武術という美しい花が咲くことは叶わない。

 『馬歩』ができたのなら、中国北方拳術の八割は習得できる。


 それを知っているからこそ、昔日(せきじつ)の武術家たちは『馬歩』を重んじた。


 そんな古い教えを、古いまま伝えることこそが、正伝聯盟の使命なのだ。


 他の門弟たちは、すでに『馬歩』を終え、弾腿(たんたい)という拳法の練習へと入っている。

 弾腿はもともと回族(かいぞく)——中国人ムスリムの拳法だったが、拳法の基礎的な動きを養うために最適なため、多くの武術門派が基礎練習として取り入れていた。これもまた伝統的な修行プロセスである。


 だが、突いたり蹴ったりを繰り返す他の門弟たちとは違い、バリーはただひたすら『馬歩』だけを続ける。


 しかし、バリーはそれに微塵も不満を抱かなかった。


 バリーは知っている。目の前に立つアニメキャラTシャツの少年の、異常な力を。


 その階梯へ少しでも近づくには、まずは「動」の練習から離れ、「静」の練習に専念せねばならないことを。


 中国武術は伝統的東洋思想を下敷きに作られている。

 道教において「静動」、すなわち「陰陽」は調和がとれていなければならない。

 「動」を欲するには、まず「静」という段階を経なければならない。


 やがて、常春の「起来(立ちなさい)」という一言とともに、バリーは『馬歩』からゆっくり立ち上がった。


「よし、一度休もう。汗を拭きなさい」


 バリーは息も絶え絶えな様子でうなずいた。ただ立っていただけなのに、バリーは雨にでも降られたように汗だくだった。


 バッグからタオルを取り出して汗を拭い、軽く水分をとっていると、常春が歩み寄ってきた。


 先ほどまでの厳しい「師」としての顔は一時的になりをひそめ、柔らかい少年の微笑を浮かべていた。


「いよいよ明日、帰国なんだね」


「……ええ。残念ながら」


 常春の指摘に、バリーは本当に残念そうに返した。


 そう、バリーは明日、アメリカに帰国しなければならない。


 常春という新たな師に就いてから、まだ一週間しか経っておらず、教えを受けたのも今日一回のみ。無念なのも無理はなかった。


「バリー、武術の練習は一人でもできる。帰国した後も『馬歩』の練習を欠かさなければ、きっとあなたは大成できる。そういうふうに出来ているんだ、僕らの武術は」


「はい……」


 そう頷くものの、バリーはなおも不本意そうにしていた。


 常春はしばらく考えてから、


「バリー、紙とペンはあるかな?」


「?……分かりました」


 バリーはゴソゴソとカバンを漁り、やがてメモ帳とボールペンを取り出して常春に差し出した。


 常春はメモ帳の紙面にサラサラとアドレスを書き記し、バリーにペンごと返却した。


「それは僕のPCのメールアドレスだ。文章は英語でも中国語でも構わない、何か不明なことがあったら、一報しておくれ」


「っ……はいっ。感謝致します、我が師」


 バリーはメモ帳を右手に握りしめると、そのまま右拳を左手で包み、頭を下げた。


 常春も頷きを返すと、気を取り直した口調で言った。


「よし、休憩は終了だ。最後にもう一度『馬歩』をやろうか。ここでやり方をしっかり覚えて、故郷でしっかり復習しなさい」


「はい!」


 再び、練習が始まった。


 この日、バリーは脳裏にしっかりと正しい『馬歩』を刻み込んだのだった。



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