アニオタ、動画配信者を卒業させる
「ど、どうぞ、粗茶ですが」
宝仁が恐る恐る、円卓に茶杯を置いた。
バリー・ロゥは、ほんわか湯気を立てるその茶杯をぼんやりと見つめたまま、微動だにしなかった。
「菊花茶です。好みが分かれる味だけど、疲れが取れますよ」
常春がそう促すと、バリーは無言で茶器に触れる。
それからまたしばらく停止してから、おもむろに茶器を口に運んですすった。また円卓に置く。
またしばし動かなくなってから、また茶を少し飲む。それの繰り返しだった。
ここへ来たばかりの頃の威勢の良さが嘘のように廃人じみていたバリーのその様子に、円卓に座る『三老』や麗剣、宝仁はどう扱ったものかとだんまりしていた。……李響は一見澄ました態度だが「それみたことか」とばかりに口元が少しだけ弧を描いていた。
やがて、チマチマ飲んだ末に茶杯を空にして、ようやくバリーがその天の岩戸みたいに重い口を開いた。
「なぁ、そこのアニメシャツの坊主……イセシマって言ったか。お前さん、一体ナニモンだ」
「僕はただの高校生ですけど」
「はっ……ただの高校生が、あんなとんでもねぇ技ポンポン使うわけがねぇだろう。嘘つくなっての……」
バリーが一笑を交えてそう口にした。自嘲っぽい口調だった。
だが、その後、ほんの少しながら、表情に明るさが戻った。
「だが、なるほどな……お前さんが「本物」ってわけか」
「僕だけじゃないです。あの『三老』の方々は、全員あなたよりはるかに強いです」
バリーは信じがたい表情で、三人の老人を見る。
「信じがたいかね!? よし! 一度やってみよう! 大丈夫だ、殺したりはしないから!」
若干物騒な文脈を混ぜたセリフを嬉々として暑苦しく言い放った景一。
バリーは観念したようにかぶりを振った。
「いいや、やめとくよ。その坊やが言うことなんだ、きっとあんた方も大層強いんだろうさ」
「そうか! 残念だ! だがまたいつでも来るがよろしい!」
この場にそぐわぬ暑苦しい態度に、バリーと晃徳を除く全員が軽く吹き出した。
「そうか……俺はようやく出会えたんだな、「本物」に。しかも中国じゃなくて日本でとは……世の中、何がどうなってるか全然分からないもんだな」
「そんなものですよ。世の中には、十三歳と二十四歳のカップルだっているんですから」
「はははっ、犯罪じゃないか? それ」
常春の物言いに、バリーは少し元気そうに笑った。
しばらくまた沈黙してから、バリーは少しずつ話し始めた。
「……俺は、昔は中国武術をやってたんだよ。師匠は有名な達人の弟子で、師匠やそのまた祖先の繰り広げた戦いの武勇伝を語って聞かせてくれた。まだ物を知らないガキだった当時の俺は、その武勇伝にひどく憧れたもんだよ。俺もいつか真面目に練習してりゃ、そんな師匠達と同じ魔法みたいな強さを得られるんだって、マジで信じきってたんだ」
超人的な技法への憧れ——それは、中国武術を学ぼうとする多くの者が抱く理想だ。
しかし、それが叶ったのなら、目の前の大男は『打假狼』なんて名乗ってはいないはずだ。
「だが……俺がバカだったよ。師匠は格闘技を一ヶ月かじった程度の奴に一分足らずで負けちまった。公に試合をしたわけじゃない、互いのメンツに傷がつかないよう秘密裏にやった試合だ。俺はそれを偶然見ちまったのさ。信じられない気持ちで次の日に道場へ行ったら、師匠は左頬の殴られた痕を「階段から落ちた痕」だと弟子たちに嘘をつきやがった。それだけじゃねぇ、負けた奴のその口で、今まで通り自分の師匠たちの武勇伝をベラベラと語り出す始末。……俺は師匠を完全に見限り、道場をやめた」
茶杯を握るバリーの大きな手に力が入る。
「それから師匠の師匠について調べてみたんだが……こいつはとんだ詐欺師だったよ。自分の使う太極拳の流派の正当性を金の力で押し通し、そいつに負けたって奴も買収されたサクラだった。——分かるか? 俺は今まで詐欺師どもに搾取されてきたんだよ」
悔しげに吐き捨てるバリー。
常春は「……心中、察します」とだけ言う。
中国武術の世界には八十年代くらいまで、非科学的で迷信的な修行や伝説が根強く残っていた。
宗教や迷信を嫌う現政府が根絶に力を入れたものの、まだその根っこはしぶとくどこかで生き残っている。
「だから俺は総合格闘技に手を出した。シンプルイズベストな打・投・極を練習し、ウェイトトレーニングにも熱心に取り組んだ。それが長じてプロ入りし、それなりに名が知られるようになった後、俺はふと思ったのさ。……インチキ野郎ばかりが闊歩する中国武術って世界に、復讐してやりたいって。ネットでの動画視聴が当たり前になった今の世の中で、奴らの化けの皮の下にある醜い本性を暴き、全世界の晒し者にしてやりたいって」
そこまで語るのに熱になっていたようで、バリーは気持ちを落ち着けるように一度深呼吸した。
それから、落ち着いた口調で次のように言った。
「……けど、俺は心のどこかで、まだ諦めきれていなかった。「本物」への憧れを、いい歳して捨てきれていなかったんだよ。俺は結局、ガキの頃から変わっちゃいねぇ。小柄で華奢な人間が大男を相手に快勝するような、非現実的な強さに憧れ続けていたんだ。
——伊勢志摩老師、あなたに負けて、俺はそれに気づかされました」
急に呼称が変化したと思った瞬間、バリーは席を立ち、常春の前で両膝をついて平伏した。
「虫の良い話であることは百も承知。その上でお願いいたします。——伊勢志摩老師、どうか私をあなたの門下にお加えください。あなたに幾度も地に伏せさせられ、私は己の無知と傲慢さを思い知りました。どうかその深奥な技芸を、私に授けてはいただけないでしょうか」
今度こそ、全員が言葉を失った。
あの傲岸不遜な『打假狼』の平伏は、それほどまでにインパクトが強かった。
常春はしばらく沈黙し、口を開いた。
「……頭を上げてください」
バリーは言われた通り頭を上げた。
常春を真っ直ぐ見つめるその眼差しは、どこまでも真っ直ぐに見えた。少なくとも、さっきまでのように相手を侮ったソレではない。
「それは、僕達『正伝聯盟』の一員になるということですか?」
「それで伊勢志摩老師の武術を学べるのであれば」
常春は円卓に座るその他の顔ぶれへ振り向き、視線でどうすべきか尋ねた。
『三老』は揃って頷いて見せた。
常春はそれを了承と受け取り、バリーに手を差し出した。
「——言っておくけど、本物の武術の修行は厳しい。肉体的にじゃない、精神的にだ。あなたが今まで「正義」だと思っていた動きや感覚、考え方が「不正義」になることが多い。けど、ティッシュペーパーになったつもりで教えを吸い取っていけば、あなたは必ず今よりも強くなれる。それは保証する。……それでも、僕に師事したいか」
バリーの表情は晴れやかになるが、すぐにそれは引き締まった表情に置き換わる。
「愚問です。よろしくお願いします——我が師」
常春の手を、バリーの大きな手が握った。
こうして、常春に「バリー・ロゥ」という弟子ができた。
アルバイトとして教えている米軍関係者とは根本的に指導内容が異なる、本物の弟子だ。
蟷螂拳、気功法、軽身功、点穴、夜行術……バリーは今後、そういった必殺技術の数々を、厳格に学んでいくことになる。「伊勢志摩常春」という武術家の持つ全てを、一身で受け入れることになるだろう。
無論、神奈川県からテキサス州はかなり距離が遠い。けれどバリーはできる限り毎年来日し、常春の指導を受けることを宣言した。
——ヨーツーブのアカウント『打假狼』は、常春に惨敗した様子を撮影した映像『The true』をアップしたことを最後に、永遠に更新されることがなくなった。




