アニオタ、煽る
「説明会」は一週間後、日曜日に始まった。
いつもは茶飲みと談笑、そして稽古場として使われている「至熙菜館」の地下広間。
置いてあるのはホワイトボードと、その左隣に置いてある五つのパイプ椅子。さらに、ホワイトボードの前にポツンと来客用のパイプ椅子がある。
正伝聯盟の『三老』、伊勢志摩常春、李響の五人は、そのホワイトボードの隣にある五つの椅子に座って待っていた——来客用のパイプ椅子に座る人物の到着を。
説明会は今日午後3時より開始する予定だ。
しかしすでに時計の針は、3時を少し過ぎていた。
「……遅い! まだ来ないのか、あの男はっ!?」
カツカツと爪先を不機嫌そうに鳴らしながら、李響が文句を言った。
「まあまあ、まだ五分過ぎただけですし、少し遅れたと言う可能性もありますよ」
と、李響をなだめる常春だったが、内心で不安になってもいた。
一週間前に届いたあのメール……実は『打假狼』を騙るニセモノでした、というオチにはならないだろうか?
メールを返信した後にすぐ考えた可能性だった。確かに『打假狼』と書いてあったが、本物であるかどうかを証明する証拠はどこにもない。
たまたま『打假狼』の動画を見ていたタイミングで『打假狼』からメールが届いた……タイムリーすぎて、そのメールが『打假狼』本人からのものだと錯覚してしまった感じもあるかもしれなかった。
しかし、だからといってあのメールがニセモノであると切り捨てる気にもなれなかった。
「中国伝統武術の化けの皮を剥がす」と豪語している以上、『打假狼』は遅かれ早かれこの正伝聯盟へと辿り着くだろう。それが今なのかもしれないからだ。
もしニセモノだったら、少しガッカリである。『打假狼』を楽しませるため、いろいろと考えていたのだから。
だから、本物だったら良いなと思っていた。
——そんな常春の願いは、叶ったようだ。
「邪魔するぜ」
ドアが開き、知らない声が聞こえてきた。中国語である。
続いて、とても大柄な男がドアをくぐって入ってきた。
まず驚いたのは、かがんで通らないとドアを抜けられないほどの背丈だった。確実に2メートルはある。
Tシャツとハーフパンツは、内側から外側へ膨らむ筋肉でピチピチになっている。
顔は精悍なアジア人のものだが、鼻筋だけは少しばかり西洋人っぽい。おそらくハーフかクォーターだろう。
筒を横にしたようなスポーツバッグを肩にかけたその男は、来客用パイプ椅子の隣にバッグを置くと、どっかりと飛び乗るように席へついた。
寝るように深く座り、足を組んだその座り姿勢は、どう世辞を付けようとしても礼儀正しいものとは言えなかった。
よほど育ちが悪いか、相手を完全に侮っているかの二つに一つだ。
「……っ」
隣の李響が、唇の下で歯がみする音が聞こえた。
常春はぴっぴっと彼の裾を引っ張り、自制を無言で訴える。
李響は深呼吸し、すぐに落ち着いた。けれど、静かな怒気をまだ感じる。
常春はその無礼な座り方にまったく気にする様子を見せない。椅子から立ち上がってホワイトボードの前まで来ると、笑みをたたえて話を進めた。
「今日はよく来てくださいました、『打假狼』さん。今回の説明会は、入門の前に、中国武術がこれまで歩んできた歴史と現状を簡単に説明するためのものです。入門するか否かは、それから決めてくださって構いません」
対し、『打假狼』は挑戦的な笑みを浮かべ、
「いや、入門する気はないよ」
「そうですか。では、お話だけでも聞いていってください」
「あぁいいぜ。そのためにここに来たんだから、話くらい聞くぜ。ただし——お前さん方の体にな」
来たか。常春は狙い通りの反応に心中でしたり顔を浮かべた。
やはり向こうはハナから入門する気も、説明を聞く気もないのだ。正伝聯盟のメンバーを叩きのめして、その映像を動画サイトにアップしたいだけなのだ。
なら、余計な時間は取らず、さっさと話をそっちの方向へ持っていってやったほうが面倒がなくて良い。幸い、彼以外に説明会参加者はいないのだし。
『打假狼』は立ち上がり、鷹揚に手を広げて言った。
「お前さん方、どうして『打假狼』なんていかにも偽名な差出人に対して返信を送ったんだ? 知ってんだろ、俺のことをよぉ? ……この『打假狼』のことをよ」
常春は答えない。今なお笑みのままだ。
「つまりあれだ、俺を功夫狩りだと知りつつ招き入れたってことだろ? つまりそう言うことだろ? ——俺の挑戦を受けたんだよなぁ」
『打假狼』はのしのしとゆっくり歩み寄ってくる。
「はっきり言おう。俺はお前さん方の教える中国武術ってもんを信用してねぇ。筋肉ゼロで骨スカスカのチビた爺さんが大男を倒すだの、単なる正拳突きだけで人が吹っ飛んで死ぬだの、そんな噂を信じねぇ。——そんなもんはハナクソだぁ」
最後の言葉は、妙に強く、恨みがましい語気が込められていた。
「俺は総合格闘家だ。手前味噌だが、プロとしてそれなりに成功してる。あれこれ語る前にまずやり合おう、それが俺たち流の技術交流だ。分かるだろ? 嘘みてぇな武勇伝を語りてぇのなら、まずその嘘みてぇな実力を見せてみろっつぅ話だよ。な? ちっこいお坊ちゃん」
常春のすぐ目の前に、雲衝く巨塔のごとき巨躯が立ちはだかった。
長身と肉厚さを誇る巨体もさることながら、好戦的な笑みから発せられる無言の圧力。闘気とも呼べるソレは、普通の「お坊ちゃん」なら確実に気圧され、一歩退いてしまうものであった。
だが、常春は一歩退がるどころか、気圧される素振りを少しも見せず、ひたすら柔和な笑みを浮かべて『打假狼』の顔を見上げていた。
(——へぇ)
『打假狼』こと——バリー・ロゥは、そんな目前の少年に少しばかり興味を持った。
姿勢が緊張していない。中国武術の基本である『放鬆』を、今なお崩していない。
平常心である何よりの証。
見た目は萌え系アニメキャラTシャツを着たナードの少年。だがその外見に不釣り合いな、海千山千の狸爺のような侮れぬ雰囲気を感じる。
——こいつにしよう。
バリーは心中で舌舐めずりしながら、口を開いた。
「教えてやる。俺の名前はバリー・ロゥだ。坊や、お前さんは?」
「伊勢志摩常春です」
「へぇ、日本人かい。中国語が上手いから中国人かと思ったよ」
「恐縮です」
目線だけで一礼してから、常春は本題に入った。
「バリー・ロゥさん、ですね。それほど僕らの武術が実用的か見たいのなら、僕が相手になりましょう。もちろん、あなたのそのバッグの中にあるカメラを回した上でね」
「へぇ、いいのかい? 吐いた唾は飲めねぇよ? 言っとくが俺は試合ならお前さんみたいな坊主にも容赦はしない。やらなきゃやられるって状況を嫌ってほど経験してきたからな」
「構いませんよ。そういう経験をしてきたのは僕も同じですから」
「言うねぇ。……ちょっと待ってな、準備する」
言うと、バリーはパイプ椅子を端っこに退けてから、カバンの中から出したミラーレスカメラを出す。この広間全体を見渡せる位置でスタンドを立て、その上にカメラをセットして起動。録画状態にし、広間の中央に戻った。
「よし、準備OKだ。いつでもかかってきていいぜ? リトルボーイ」
バリーは戦意を示すように、その場でシャドーを見せつける。単なる格好付けではなく、鍛錬に裏づけられた洗練した鋭い動きが見て取れる。
常春は微笑み、この動画の主要視聴者層が使うであろう英語で話し始めた。
「了解しました。蟷螂門門人伊勢志摩常春、この勝負受けましょう。……ですが、その前に一つ準備をさせてください」
「へぇ? なんだい、心の準備かい?」
同じように英語で、からかうように訊くバリー。
常春は満面の笑みを……もう満面すぎて逆に煽ってるんじゃないかってくらいの眩しい笑顔を浮かべ、次のように言った。
「いえ。ハンデをつける準備をさせてくださいと言っているんです」
否。実際煽っていた。




