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side槙村 修行編《終》

 去りゆく鶴羽(つるは)の後ろ姿を見送ってから、槙村(まきむら)はふたたび滝行を再開した。


 先ほどの鶴羽の姿を見て、ようやく確信した。


 「我慢するな」というのは、別に「気を抜け」という意味ではない。


 「我慢」とは即ち、逆らう行為。


 自然に対して「我慢」せず、受け入れる。


 「受け入れる」とは即ち、同化すること。気を抜いてだらけることにあらず。


 自然を「受け入れる」。


 槙村は、滝という大自然の血流を「受け入れた」。


 川の流れの中にポツンと立つ岩もまた、大自然の一部。


 その岩のごとく、静止しつつも大自然と繋がりを同じくする。


 エゴイズム、主義主張の一切を捨て去り、意識を徹底的に自然との同化に集中させる。


 冷たい。重い。……だが、エゴを捨てようと集中し続けるうちに、その極寒の冷気が他人事のように思えてくる。「メタ化」と呼ばれる精神状態だ。


 やがて、自己の存在が、この大自然と溶け合うような感じがしてきた。


 唯物論的に言えば、それは錯覚である。


 だが、槙村の精神は、確かに自然と溶け合っていた。


 今まで槙村を駆り立ててきた執着心も、水に溶けて流れていく。


 時間の感覚すら、曖昧になっていく。


 日が西へ傾いていく様を、ぼんやりと無感情で眺めていた。


 夕方になってから、ようやく「帰らないとな……」と思った。


 その瞬間、槙村の意識が自然から回帰した。


 滝から何事もなかったように歩き去り、滝壺を出て、サンダルを履いて下地家へと向かった。


 





 その日以降、槙村は常に変な感じがしていた。


 今までは少しでも早く強くなろうと常に急いた気持ちだったのに、今は常に気が鎮まっている。


 倒すべき相手、伊勢志摩常春を学校で見かけても、以前ほど対抗心が生まれなくなっていた。


 いつもは教師の言葉が右耳から左耳へ通り抜ける授業でさえ、すんなりと頭に内容が浸透してくる。


 時間が過ぎ、放課後になっても、授業を全て終えた時特有の開放感はない。ただ「終わった」と感じただけた。


 校舎を出て、下校している途中、


「——よーお、久しぶりじゃねぇかぁ。このボケナスぅ」


 クソ野郎に出会った。


 短く刈り込んだ金髪。眼光が鋭く、いかつい顔付き。2メートルはゆうに超える背丈。


 知っている顔だった。たしか、後藤という男だ。


 後藤は指をパキパキ鳴らし、ニヤつきながら言った。


「今日はあの腐れリーゼント野郎はいねぇみてぇだなぁ。んじゃ、今日はあの時の憂さ晴らしのために、ボコボコに殴られてもらうぜぇ?」


 以前、自分はこの男になす術なくやられた。そこを「魔王軍」のボス、(かけい)転助(てんすけ)に助けられたのだ。


 かつては怖気が走るほど恐れた巨漢。


 だが今の槙村にとって、その巨漢はひどくつまらないものに見えた。


「どけよ。お前みてぇに暇じゃねぇんだ、俺は」


「あぁん!? テメェに用は無くてもコッチはあんだよ! 怖気づいたかよこのインポ野郎!? またあのリーゼント野郎に助っ人頼みに行くんでちゅかぁ!? ドラちゃんに泣きつくのび太くんみてぇによぉ!」


 前の槙村なら、ここでブチ切れて殴りかかっていただろう。


 だが不思議なことに、今の槙村はまったくと言っていいほど、心が落ち着いていた。


 殴ってやろうという気が、全然起こらない。


「どけよ」


 再度槙村が言い放つと、後藤は顔を真っ赤にし、


「じゃあ黙って死んどけガキャァ!!」


 怒りの赴くまま、右ストレートを放ってきた。


 ボクシングの理合(りあい)を用いて放たれた拳が、猛然と空気を切り裂きながら向かってくる。


 だが、槙村はいまだ冷静だった。——これよりもずっと凄まじい突きを放つ蜘蛛女を、槙村は知っていた。


 槙村は掌の螺旋に右ストレートを巻き込み、力を無効化させて防御した。そこからすかさず、顔へ掌を打った。自然と出てきたその技は、ここ一ヶ月間何度も練ってきた『廻し受け』だった。


 後藤の顔はそんなに強く打っていない。だがそれでも鼻っ面に衝撃を当てられたことは、後藤の怒りをさらに燃え上がらせる。


「っ……こなぁらぁぁぁぁぁ!!」


 やたらめったら殴ってくる。荒削りだが数があり、以前の自分なら何回かは殴られていただろう。


 だが、今の槙村は、後手でこそ力を発揮する。


 やってきたパンチを掌の円弧運動に巻き込み、その相手の腕を次のパンチを放った腕に三つ編みのように絡みつかせる。肩が強制的に傾かされ、バランスを崩して横へ転ぶ。


「こっ、この野郎ー!!」


 後藤はまたも烈火のごとく怒り、立ち上がって拳を打ってきた。


 槙村はそのパンチを片手で受け流しつつ、もう片方の手を拳にして後藤の鼻先で寸止めさせた。


 後藤は巨体を進めながら打撃を連発。しかし、いずれも「防がれ、寸止め」という結果から抜け出せなかった。


「はぁーっ、はぁーっ……」


 すっかりスタミナ切れでへばった後藤を他人事のように見ながら、槙村は自己の肉体に起こった変化に内心で驚いていた。


 驚くほど自然に技が出てくる。


 それらの根本を成す体術は、ここ一ヶ月に学んだ『廻し受け』、『三戦』、『転掌』の三つの中から引き出されていた。


 自由なようで、型にはまった動き。

 型にはまったようで、自由な動き。


 「型を厳格に学び、そこに含まれた法則は自由に使う」という東洋武術の基本を、槙村はすでに体得していた。 


「もうやめろよ」


 槙村はそう素っ気なく言うと、バテている後藤の横を通り過ぎた。


 後藤はもう突っかからなかった。


 もう勝てない——そう勘が察していた。


 少し前まで、自分にあっさり負けるくらいの奴が、ここまで力をつけた。


 そのことに、興味すら持っていた。


「……お前、どうしてそんなに強くなったんだ」


 思わず、そう訊いてしまうほどに。


 槙村は振り向き、素っ気なく一言。


「滝行」





 ——その後、後藤延夫(のぶお)は更生し、修験道を歩むことになるが、それはまた別のお話。



 

 ◆



 あっという間に週末。


 日曜日、衛命流道場で行われている稽古。


 準備運動をしてから、『廻し受け』『三戦』『転掌』とこなしていき、そこから槙村とその他門下生の練習は分離。槙村は見知らぬ型と組手をやっている門下生を見ながら黙々と三つの基礎を練り続ける……それが、これまでの練習風景。


 だが、今日はそれに変化が起こった。


 『廻し受け』『三戦』『転掌』を終えたあと、下地がいきなり言った。


「槙村、君も今日から組手に参加して構いませんよ」


 それは、槙村が待ち望んでやまなかった言葉だった。


 そのはずなのに、


「そうっすか」


 感動が、無かった。


 飛び跳ねて喜んでいいはずなのに、そうする気が起きなかった。


 「あぁ、そう」としか思えなかった。ほとんど無感情だった。


 そんな槙村を、下地はとても満足げに見ていた。


「滝と向き合った成果が出たようですね」


「はい?」


「君に滝行を課したのは、心身ともに、衛命流にふさわしい状態に持っていくためです」


「どういうことっすか」


「滝行には、主に二つの武術的効果があります。

 一つは丹田……臍の下にある部位の充実です。大量の落水を全身で受け止め続けることによって、丹田に圧力を与えて充実させる。丹田が充実すれば、重心が安定します。滅多なことでは転ばなくなり、呼吸も楽になり、技にも力が乗ります。

 もう一つは、その丹田充実による精神の強化。全身に散っていた力が丹田に集中すれば、精神は安定し、状況を客観的に見る能力が養われる。さらに、全身の「気」の流通も円滑になり、健康にも良い。

 肉体の鍛錬は精神の鍛錬に直結する——これが東洋武術の真髄。滝行は、それを補助するのにうってつけの修行なのです」


 下地は一息ついてから、続けた。


「無論、武術の稽古にも精神を鍛える効果はありますが、君の場合はその武術に執着している状態だった。なので稽古では逆効果と思い、滝に打たれさせたわけですが……こんなに早く成果が出るとは思いませんでした。これは君の才能なのか、あるいは……」


 そこで言葉を濁すと、下地は隣にいる鶴羽をチラッと一瞥した。……まさか師範、気付いてんのか?


「うふふ。きっと才能です」


 鶴羽もまた気まずさをおくびにも出さず、奥ゆかしい笑みでごまかした。この蜘蛛女、なかなかに食えない奴みたいである。


「まあいいでしょう。とにかく、君は無事に衛命流の修行を一段上の段階へと進めた。毎週土曜日の滝行はこれにて終了し、これから新たな型稽古と組手に参加することを許可しましょう」


「はい」


「今の心の状態を、ずっと忘れないように。血気にはやりそうになった時は、心を今の状態にまで持っていくよう、自己をコントロールしなさい。それが難しければ、また滝と相談してみなさい。服と浴室はいつでも貸しますよ」


「はい」


「よし。では、稽古を再開しますよ」


「はい」


 ひたすら「はい」とだけ答えた。


 伊勢志摩常春よりも強くなる、という目標は今なお変わらない。


 だが、焦ってばかりいた今までとは違い、その目標へ気長に歩いていけるような気がした。


 ——槙村の長い長い修行の日々は、まだ始まったばかりだった。


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