side槙村 修行編《4》
さらに一週間後。
「〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
言葉にならない声を出しながら、白装束姿の槙村は滝に打たれていた。
32、33、34、35……数えながら落水の冷気に耐え続ける。
しかし、一分くらいたった後、とうとう耐えかねてジャブジャブと滝壺から上がってしまう。
「さぶっ、寒っ! ちきしょう、血が凍って死んじまうっ!」
素早く日向に入り、必死に両手をこすり合わせてぬくもりを作る。
「くそっ、どうしても「耐える」「我慢する」って気持ちが抜けやしねぇ。でも仕方ねぇっての、体が拒否ってんだ。気持ちだけでどうにかできんだったらフグ毒にも耐えられるっつぅの、クソめ」
ブツクサ文句を言う槙村。
体が温まった後、また滝に当たる。
「ぃひいいいいいいいぃぃぃぃ!?」
また凶器的な冷たさに当てられ、変な叫びを上げる。
また滝壺を出て、日向で体を温める。
また滝に入る。
これの繰り返しだった。
こんな感じで、滝行は進んでいるようでいて、まったく進んでいなかった。
槙村は意地を張って、土曜だけでなく日曜日にも滝行を行っていた。今日は日曜日である。
「負けん気で挑むものではありませんよ」と下地に言われたが、そんなもん気にしていられない。
また温まって、また滝を浴びて、また温まって、また滝を浴びて……
とうとうその繰り返しに疲労感が生まれ、槙村は日向にある岩に抱きつきながらへばっていた。
「……んっとに、何やってんだろうなぁ、俺はよ」
少し前までは、全身派手に着飾って、享楽的に暮らしていたというのに。
今では自慢の茶髪はまっさらな坊主頭。女と遊ぶこともなくなり、めぐりめぐってこんな山伏みたいなことをやっている。
どこでどう人生間違えた?
いや、間違えたのではなく、間違えさせられたのだ。
……あのアニオタの皮をかぶった、最強野郎のせいだ。
あいつに関わったのが運の尽き。あの異常な強さに魅せられると同時に、強い敵愾心も抱かされ、強さに対する妄執が始まった。これまでの享楽すら忘れるほどに、その妄執は強かった。
そうだ。俺はあいつを完膚なきまでに叩き潰すために修行しているんだ。
あいつを倒して、俺は——どうするっていうんだ?
いや、そもそも、こんな滝程度でヒィヒィ言っているような自分が、あの怪物を倒せるのか?
自分がやっているのは、たどり着けるはずのない太陽に向かって走り続ける行為に等しいのではないだろうか?
一度芽生えたマイナスの感情は、超強力肥料を与えられた植物のごとくニョキニョキ成長していく。
「くそっ!」
悔しさのあまり岩を叩く。
滝行程度でこんな無様を晒している自分が、ひどく情けなく思えた。
こんなことで、自分は強くなれるのだろうか。
「——あまり落ち込まないでくださいな」
そこで、声が聞こえた。女の声。聞いたことがある。
振り向くと、そこには白装束の鶴羽がいた。
慈愛と芯の強さを感じさせる美貌が優しく微笑み、槙村を見下ろしていた。日向の陽光にまばゆく彩られたその姿は、一瞬、精霊の類かと見間違わせた。
だが、すぐに我に返る。
今の悔しがる様を見られたと思うと恥ずかしくなり、顔を背けてぶっきらぼうに言った。
「……何の用だよ。俺を冷やかしに来たのか。だったらとっくに滝で冷えっ冷えだ。帰れ」
「いいえ。槙村さん、すごく必死なようですから……少し、お世話を焼きたくなってしまいまして」
「お世話だぁ?」
「はい。お父さんに内緒で、一つだけヒントをと思いまして」
言うと、鶴羽は履いていた草履を脱ぎ、ひたひたと滝壺へ入った。
「あ、忘れていました。少しこれ、預かっていていただけませんか?」
鶴羽が髪留めを外して差し出してきた。鶴の双翼をかたどったその髪留めを、槙村は丁寧に受け取る。
「失くさないでくださいね?」
ニッコリと満面の笑みを浮かべる鶴羽。そのフルパワーな笑顔からは、何やら強い圧力を感じた。……「失くしたらただじゃおかないですよ」と意訳できそうだ。
槙村がうなずくのを確認すると、鶴羽は煙のような水しぶきを巻き起こす滝に歩み寄り、背中を預けた。
ああ、入りやがったよ、あの蜘蛛女。きっと俺みたいにみっともなくヒィヒィ言いながら滝に打たれるんだ。いや、あいつのそういうところは見てみたいかも。
だが、10秒、20秒、30秒……1分経っても、槙村の期待通りの反応は見れなかった。
鶴羽は目を閉じ、神妙に、ただただ瀑布をその身で受け止めていた。
我慢しているようには見えない。むしろ、すぅっと力を抜いて、受け止めているように見える。
2分、3分、4分、5分……
10分経っても、鶴羽は微動だにしない。
槙村はもはや唖然とする他なかった。
自分より肉付きが薄いくせに、あの冷気の塊のような落水に耐えている。
いや、耐えている、という表現では不十分に思えた。
まるで、鶴羽が滝壺の底から突き出した岩となり、滝と滝壺を仲介する「大自然の一部」になったかのように見えたからだ。
耐えているのではない。
受け入れているのだ。
受け入れて、自然と一体となっているのだ。
——人は、地球上で最も繁栄した種であり、そして最も傲慢な種だ。
あまねく生物を支配し、戯れにもてあそび、ついには大自然さえもコントロールしようなどと本気で考えている。
だが、人間が大自然をコントロールするなど、愚行の最たるものであり、そして叶わぬ夢。
その愚行は、支配者と被支配者の図式を決して抜け出せないからだ。大自然に力で劣る人間が、力で大自然を支配し操ることは不可能。
だが、受け入れ、同化することはできる。
大地と水の恵みを食して育った人間の雌雄が結ばれ子を産み落とし、やがて老いて土に還る。その子も親と同じように大地と水の恵みを食して育ち、子を産み土に還る……人もまた大自然の循環の一部に加わっている事実を謙虚に認める。
そして、大自然の力を受け止め、受け入れ、同化する。
是即ち、神人合一。
今の鶴羽を見た槙村は、それを直感で理解した。
密教や修験道に関する予備知識がなくとも、理解させられる何かが、鶴羽の滝行にはあった。
しばらくすると、鶴羽が滝壺から上がってきた。
「見ていて、何かつかめましたか?」
柔らかく微笑み、そう尋ねてくる。その顔は、ついさっきまで凄まじい冷気と水の重さを浴び続けていたとは思えないほど、普段通りだった。
「え、あ、えっと……」
あまりにも浮世離れした目の前の少女に、槙村はうまく言葉が出なくなった。なのでコクコクと首肯をしめした。
水でぐっしょりと濡れた白装束。肌にぴったりと貼りついた布は、彼女の曲線美をくっきり表していた。
ふと、胸元が少し開いているのが見えた。
程よくふくらんだ双丘の真ん中……鳩尾のあたりに、傷跡のようなものが見えた。
目を凝らしてみないと分からないほど、うっすらとした傷跡。あれは……手術痕?
思わずじっと見ていると、細い両腕が胸元を覆い隠した。顔を上げると、頬をかすかに赤く染めてこちらをじぃっと睨む鶴羽の顔。
「……槙村さんも、男の人なのですね。そんなに凝視して……えっちです」
「ば、馬鹿! ちげぇよ! 見てたのは傷だよ、その胸の傷!」
潔白を証明するために、言及すべきでないかもしれないその傷に思わず言及してしまった。
だが鶴羽は気に病んだりすることなく、「ああ」と何かに気づいたように軽く声を漏らしただけだった。
むしろ鶴羽は、その胸の傷を愛おしそうに指先でなぞりながら、告白した。
「この胸の中には——わたしの双子の姉がいるんです」
「は……?」
言っている意味が分からない。
中に姉がいる? それって思い出的な意味か? それとも……
そこで、先週の記憶が思い起こされた。
写真に写っていた、鶴羽そっくりな女の子。
双子の姉、というのは、十中八九あの子だろう。
だが、その姉が「この胸の中にいる」ということは、つまり——
「わたしの姉は、命をかけてわたしの病を治してくれたんです」
そこから先は、おおむね槙村の予想通りの展開だった。
「わたしには、双子の姉がいたんです。だけど、わたしは生まれつき、重い心臓病をわずらっていて……お医者様からは「長くは生きられない」って言われていました」
「……なら、どうして今そんなにピンピンしてんだ」
「姉が心臓をくれたからです」
槙村は息を呑んだ。
「わたしが心臓移植の手術を受けたのは、六歳の頃でした。小児ドナーは当時も今と同じく不足していて、ドナー待ちが何人もいました。だから姉は、いつも口癖のように言っていました。「もしあたしが先に死んだら、あたしの心臓を鶴羽にあげて」と。……それは現実になってしまいましたわ」
「……死んだのか」
鶴羽は微笑んでうなずいた。
「はい、濁流が起こっている川に落ちて。……わたしたちは悲しみました。そのせいか、発作が起こってしまったのです。わたしももう命の猶予が迫っていて、もう心臓移植しか助かる道はありませんでした。……このままでは二人とも死んでしまう。だからこそ両親は姉の遺言通り、姉の心臓をわたしに移植することを許可したんです。わたしは姉の心臓を移植され、無事に生きながらえることができました」
再び、胸の手術痕をなぞる鶴羽。
姉が胸の中にいるというのは、そういうことだったのか。
「……悪りぃ鶴羽。余計なこと訊いた」
「いいえ。むしろわたしは、このことを誇らしく思っているんです。……槙村さん、髪留めを返していただけますか?」
鶴の双翼をかたどったデザインの髪留めを、鶴羽に手渡す。
鶴羽はそれを掌に置き、再び槙村に見せた。優しく微笑みながら、
「この髪飾りは、わたしが作ったものなんです。二枚の翼……二人の大切な人に命をかけて助けてもらったことを決して忘れず、二人の分まで幸せに生きていくために。鶴の翼なのは、わたしの名前が由来ですけれど」
「二人……だと?」
そのうちの一人は、言うまでもなく鶴羽の双子の姉だろう。
だがもう一人は?
またも槙村は思い出す。あの写真立てからいなくなっていた、「もう一人」を。
「槙村さん、昨日、写真立てを見ていましたよね? なら、予想はつくのではありませんか」
「……ああ」
「母親」だ。
彼女の母親もまた、何らかの形で彼女を守って逝ったのだ。
「小学六年生の頃、わたしと母が乗っていたバスが煽り運転を受けて事故を起こしたんです。母はわたしを庇って重傷を負って、搬送先の病院で亡くなりましたわ」
鶴羽は、滝へ目を向けた。
「あの時は、さすがに落ち込みました。わたしはひたすらに塞ぎ込み、自分を責めましたわ。わたしが自分の身くらい自分で守れていれば、母は死ななかったかもしれない。姉といい、母といい、わたしは家族の命を食らって生きてる疫病神なんだって、本気で思っていました。……それをお父さんに言ったら、ひどく悲しそうな顔で頬を打たれましたけど」
……槙村は、かける言葉が見つからなかった。
何不自由なくぬくぬく暮らしてきた自分では口出しが憚られる、酷な思い出の数々。
自分の悩みといったら、空手の伸び悩みや、倒したい相手を倒せない悔しさくらいのものだった。
歳は同じだというのに……目の前の少女に比べ、自分はなんと矮小なのだろう。
「わたしは学校も休んで、いろんなところをウロウロしました。そのうち、この滝にたどり着きましたわ。昔、お父さんが滝行しているところを見ていたのを思い出したわたしは、この苦しみから開放されたい思いで私服のまま滝に打たれました。どうにでもなれって感じでしたけど……滝の流れに身を委ねているうちに、わたしの中にあった自己嫌悪とか、自責とか、死にたいって気持ちとか、全部消えていっちゃいました。
……そして思ったんです。どうしようもないことで自分を苦しめるよりも、命をかけてわたしを救ってくれた二人の分まで幸せになる方が、ずっとずっと二人の供養になるって。だって二人とも、わたしを愛して救ってくれたんですから」
再びこちらを振り向いた鶴羽の笑みは、とても輝いて見えた。
顔や髪を伝う滴が陽光を反射し、きらめいているのだ。
しかし槙村の目には、その物理学的理屈を越えた別の輝きが、確かに映った。
——とくん。
心音が、突然高く跳ねた。
妙に体がそわそわする。顔が熱い。冷たかった体が一気にあったまった。
息が苦しい。けど、嫌な苦しさじゃない。いつまでも浸り続けていたい、甘い苦しさ。
もしかして風邪か? いや、風邪にしては心地がいい。でも苦しい。ああもう意味わかんねぇ。ていうかなんかすげぇ恥ずかしい。
鶴羽から、目を離せねぇ。
「槙村さん?」
その鶴羽がきょとんとした表情で、槙村の顔を覗き込んできた。
「……い、いや、なんでもねぇよ」
気恥ずかしくなって、プイッと顔を背けた。
頰が熱い。ほんとになんなんだこの謎の症状は。
「それで……参考になりましたか?」
鶴羽はそう訊いてくる。
槙村は咳払いして気を取り直し、答えた。
「ああ。めちゃくちゃなったよ」




