side槙村 修行編《2》
で、土曜日となった。
カラッとした6月の暑気を坊主頭で感じながら、槙村は衛命流空手道場兼下地家へとやってきた。
「あ、槙村さん。いらっしゃいな」
最初に会ったのは鶴羽だった。
Tシャツにジャージのズボンという気の抜けた格好で、道場の壁際にしゃがみ込んでいた。鶴の双翼をかたどった髪留めが、風に揺れている。
「おう……つーかお前何やってんの?」
槙村はタメ口で言う。彼女は槙村と同い年で高校二年生だ。しかもこのS市で一番偏差値の高い女子校、光野女学院に通っているらしい。
その鶴羽が、笑顔でちょいちょいと手招きしてきた。……来いってか?
近づくと、鶴羽は視線を再び壁の根本へ向けた。
「何があんだよ、こんな壁に」
「これです、これ」
彼女が指差した先にあるのは、
「……地蜘蛛の巣じゃねぇか。これがどうかしたかよ?」
「可愛いですよねぇ」
「は?」
何言ってんだこいつ。
「こんな靴下みたいな巣を作ってそこに篭もるなんて、まるでサンタクロースのプレゼントみたいで可愛いと思いませんか? はぁ……この触り心地の良い巣を引っ張り出したいけど、可哀想でそれは出来ませんわ」
「何言ってんだ、蜘蛛なんてキモイだけだろ」
「とんでもありません! 蜘蛛は衛生害虫を食べてくれる益虫なんですからね! 特にこの地蜘蛛の巣は、漢方薬にもなるんですから!」
いつもは物静かな鶴羽がいきなり熱弁を振るいだし、槙村は思わず圧倒された。
かろうじて「そ、そうか」とだけ言えた。
鶴羽は再びちょんちょんと地蜘蛛の巣をつつきだし、うっとりした笑みを浮かべる。
やはりそこらへんにいる美少女とは違う。
綺麗とか可愛いではない。「美麗」と言える、一段上の美しさ。
そんな彼女のうっとりした笑みは、一枚の絵画のようであった。
……つついているのが蜘蛛の巣でなければ。
「下地って、蜘蛛好きなの?」
「ええ。好きですわ。あの周囲に足が拡散したように生えた見た目が、神秘的だと思うんです。ハエトリグモとかは目がいっぱいあって可愛いですし、アシダカグモはゴキブリを捕食するところがワイルドで素敵です」
「えぇ……」
あんなキモいもんが好きとか、レベル高ぇなこいつ。
「お前変わってんな、下地よぉ」
「そんなことないですわ。……それと槙村さん、わたしのことは下地ではなく、鶴羽とお呼びください。お父さんと区別ができないでしょう?」
鶴羽は稽古時と普段で、父に対する呼称を使い分けているようだ。
「まぁ、そうかもな。んじゃ鶴羽」
「はい」
鶴羽は口元を微笑ませる。
イマドキの女子みたいな軽々しい笑いではなく、見ていて心が落ち着く雅な笑みだった。
今まで会ったことのないタイプ。不思議な感じのする少女だった。
「槙村、来ていましたか。こんにちは」
そこで、下地の声が聞こえた。半袖ワイシャツにスラックスという、娘と同じくらい簡素な格好の師が近づいてくる。右脇に、何か白い布の塊を抱えていた。
「オス師範。それで、とっておきの修行法って、どんなやつっすか」
期待と緊張感を等量胸に抱き、槙村は尋ねた。
すると、下地は抱えていた布の塊を両手で持ち、展開させた。
着流しの白装束だった。
……時代劇で見たことがあるデザインだ。侍が切腹するときに着るあの真っ白な衣装に似てるやつ。
下地はニッコリ笑って言った。
「槙村、まずはこれに着替えなさい」
下地家の近くには川があるという。
鶴羽を家に残し、槙村は師に連れられるままその川へやってきた。
支流の一本をたどっていく。流れが槙村から見て手前に向かっているため、上流へと進んでいるのだ。
キャンプやバーベキュー客がいるほど開けていた川が、次第に狭くなっていく。
森へ入り、緑の割合が濃くなっていく。
どぉぉぉぉぉぉぉ…………という大量の水が落ちる音が、進むたびに大きくなる。
やがて白装束姿の槙村は、そこへ連れてこられた。
滝だった。
はるか上方から大量の水をこんこんと流れ落とし、滝壺に溜まり、そこから支流へと流れていく……大いなる自然の循環。まるで母なる地球の血管の一本を思わせる。
「……あの師範、もしかして…………とっておきの修行法ってのは」
どおおおおおおおおお、とうなるように水を落とす滝を指差しながら、槙村がおそるおそる尋ねた。
この切腹侍のような白装束。
あの滝。
答えは一つしかない。しかしそれを信じたくない。
「はい。君にはこれから、滝行をしてもらいます」
師である眼鏡の優男が、真顔で予想通りの答えをのたまってくれた。
それを聞いて、しばし頭が真っ白になる。
だが、それはすぐに、燃えるような憤怒へと変わった。
「——ふざけんじゃねぇ!! 俺は空手習うためにあんたに弟子入りしたんだ! シャーマンになりてぇなんて誰が言ったよ!? なんで滝行なんて迷信に頼らなきゃならねぇ!? 俺は神様にお祈りでもしなきゃ強くなれませんってか!?」
「迷信などではありませんよ」
槙村の猛火のような怒号を、下地の静かな一言が鎮静化させた。
その静かながらも逆らいがたい気迫に、槙村は押し黙った。
「滝行は武術の鍛錬として、非常に高い効果をもたらします。かの剣豪宮本武蔵も、修行のために滝行を行ったといいます」
「……どういう効果があるんすか」
「それは自分の力で知りなさい。もしここで私が滝行の意味を教えてしまったら、君はその「見返り」のみを求めてしまい、純粋な気持ちで挑むことができなくなってしまう。それでは意味がないのです。意味を掴み取るまでの間は、暗中模索する気持ちでひたすら滝に打たれ続けなさい。ネットでの検索も禁止です」
そこまで言うと、下地はきびすを返した。
「ちょ、ちょっと師範——」
「一つだけヒントを与えます。……滝行を、単なる我慢大会だと思わないことです。我慢や忍耐という言葉を捨て、流れ落ちてくる水をあるがまま受け止めるのです」
そう言って、下地は去っていった。
……まるで大海原のど真ん中に、方位磁針も無しに、ボート一隻で取り残されたような気分にさせられた。




