side槙村 修行編《1》
——槙村公平が衛命流空手道場に入門して、すでに一ヶ月が経過していた。
「次、『廻し受け』! 始めっ!」
館長である眼鏡の優男、下地弘の号令が道場に響き渡る。空手着に身を包んだその細身からは想像できない声量だ。
槙村を含む門下生全員が、そろって同じ動作を行う——外から内へ渦を巻くように両掌を円転させてから、両掌を前へ推し出す。それを繰り返す。……防御と反撃にとても役立ち、衛命流において最重要視されている手法だ。
しばらくその『廻し受け』を反復練習した後、「やめっ!」という下地の号令によってピタリと止める。
「次、『三戦』! 始めっ!」
槙村を含む門下生全員が、そろって同じ動作を行う——肩幅に広げた両脚を内側へ、両拳を外側へ絞る。全身の筋肉を雑巾のように締め上げることで、まるでその場に根を張ったような安定感を持つ立ち姿勢を作る。那覇手系空手の基本の型『三戦』である。
その『三戦』のまま、片足を半歩進める。ゆっくりと息を吐きながらゆっくりと正拳を出していき、伸びきったところでピタリと吐気を止める。それから鼻で息を一瞬で吸いながら一瞬で拳を引き戻す……これを何度も繰り返す。壁まで来たら、全員ねじるように逆方向を向き、また繰り返す。
「呼吸をよく意識しなさい。拳の伸びきりと同時に息を止めて全身の筋肉を締め上げ、一瞬で吸うことで呼吸の隙を最小限におさえるのです。体術と呼吸の一致なくして、年齢や体格を超える強さは得られませんよ」
下地の助言を聞いた門下生一同は、いっそう呼吸と体術の一致に心身を注ぐ。
それから『転掌』という型を練習した。その名の通り、掌による技を中心とした型である。呼吸法をまじえて繰り出されるその掌はしなやかで流動的。
『三戦』が「剛の基礎」。『転掌』は「柔の基礎」。
——そこで、槙村は他の門下生らと切り離された。
槙村が道場の端で『廻し受け』と二つの型を一人で練習している間、他の門下生たち——いずれも槙村より練習歴が長い——は進んだ稽古を見せた。
『三十六手』『十八手』『制引戦』などといった型——そして組手。
槙村は自習のかたわら、それらの稽古を羨ましそうに見つめていた。
組手を見ているうちに、胸中に焦りのようなものが湧いてくる。
——これが、入門して一ヶ月間の稽古風景だ。
毎週日曜日、槙村はこの道場に通って稽古にはげんでいる。
最初だからか、ひたすら基本の繰り返し。
スポーツや格闘技としての側面がない、武術としての空手だからか、学んだことのないような要訣まで学んでいる。慣れない動きに苦しみながらも、本格的に学んでいるんだという気分にさせられてやりがいはあった。
とはいえ、一つだけ不満があった。
槙村は『廻し受け』の練習を一度やめ、下地のもとへ歩み寄って尋ねた。
「師範……なんで俺には組手をやらせてくれないんすか」
そう。不満なのはそこだった。
一ヶ月間、来る日も来る日も『廻し受け』『三戦』『転掌』の反復練習ばかり。対人練習を一度もやらせてもらっていないのだ。
下地は目を閉じ、諭すような口調で告げた。
「君にはまだ早い。君は今、徹底的に基礎を養わなければならない段階。……赤ん坊は、ハイハイに慣れてからでなければ立って歩くことができません。足が折れてしまいますからね。君は確かにスポーツとはいえ空手の経験者ですが、衛命流に関して言えば生まれたての赤子も同然。まずは立って歩ける脚力にあたる「基礎」を練り上げるべきだ」
赤ん坊扱いにムッとするが、気持ちを整え、自分の考えを主張した。
「けど……一人で練習ばっかりしてても、不安なんすよ。強くなれるかどうか」
スポーツ空手時代、槙村は組手を数えきれないくらいやった。
その時の経験が邪魔をしているのか、組手をやらないと不安になってくるのだ。
下地は無言になる。組手の音が道場に活発に響くが、槙村はまるで洞窟の中みたいに静かな気配を感じていた。
だがしばらくすると、下地は軽くため息をつき、
「……いいでしょう。でしたら一回だけ、組手を行うことを許可します。——鶴羽」
「はい師範、ここに」
下地の呼びかけに、鈴を鳴らしたような女の声が答えた。
歩み寄ってきたのは、この武張った空手道場には似つかわしくない、たおやかな雰囲気を持った美少女だった。
聖母のように柔和でありながら、どこか強い芯を秘めたような顔立ち。枝毛一つない黒髪は鶴の双翼をかたどった髪留めによって一束にまとめられ、肩甲骨の高さで先端が揺れている。
自分と同じ空手着——ただし帯は槙村が白で、彼女は黒——に包まれたその肢体は当然ながら細く、硬さと屈強さに欠けて見える。しかし、立ち振る舞いに無駄がない。まるで熟練の芸妓を思わせた。
下地鶴羽。師範の実の娘である。
下地は槙村の方を一度見てから、再び娘の方へ向いて言った。
「鶴羽、槙村の組手の相手をしてあげてくれないかい」
「はい」
優美に会釈すると、鶴羽は槙村の前へとやってくる。そして再びきれいな一礼。
「お願いしますわ」
「……あ、ああ。お願いします」
話が勝手に進んで戸惑いつつも、槙村は礼を返した。
「槙村さん、衛命流の心得にのっとり、わたしからは一切攻めません。どうぞ随意にお攻めくださいな」
「……マジか?」
「はい。まじです」
そう言って柔和に笑う鶴羽。
続いて、下地が言った。
「槙村、昔習っていた空手も使って構いません。とにかく鶴羽へ攻めかかりなさい」
バカにされている……わけではなさそうだ。
少なくとも、鶴羽は自分よりもずっと衛命流を長く学んでいる。立ち振る舞いからも、その技巧の高さがうかがえる。
槙村は両拳をファイティングスタイルで構え、ステップを小刻みに踏み始めた。昔習った動きだ。
女だから本気は出せない——そんな甘い事を言う気は今さらなかった。そんな生半可な気持ちでここに来ているわけではない。
それに、衛命流で戦う人物を、下地以外で見たことがない。これはチャンスだ。
見せてもらおうか。先手を求めない衛命流ってやつを。
「では——始めっ!」
下地の開始の号令とともに、槙村は道場の床を踏み抜く気で蹴って疾駆。風のように身を寄せ、ジャブ気味に正拳を放つ。……我ながら会心の出来だ。
しかし、拳の延長線上から鶴羽の姿が消えた。軽く身をひねり、ギリギリで避けたのだ。
これで終わりではない。槙村はとにかく手数にモノを言わせ、拳や蹴りをめちゃくちゃに放った。これが公式戦なら、最低でも三発はクリーンヒットしているであろう猛攻。
しかし、鶴羽はすべてを躱し、防ぎ切っていた。
正拳を横へ押しやり、アッパーを退がって避け、回し蹴りが振り放たれるよりも速く懐へ入り、槙村の片手を掴む。そのまま踊るように回転し、その渦中に一本足の槙村を巻き込んだ。
「うわっ!?」
バランスを崩し、放り出される槙村。受け身をとって立ち上がると、再び鶴羽へ勢いよく向かって行った。
戦車のように猛然と体を進めながら、幾度もパンチを繰り出す。しかしそれらは渦を巻くような鶴羽の掌の動きにすぐさまからめ取られ、両腕を捕らえられる。それからその両腕を縄の繊維のようによじり合わされ、それによって上半身のバランスが崩れたところへ足払いをくらって転がされた。
床へしたたかに体を打つが、痛みを興奮が上回る。
跳ぶように立ち上がり、まっすぐ殴りかか——ろうとするように見せかけて鶴羽の左手首を掴んだ。
そのまま引き倒してやる。そう思って力を入れようとしたが、
「うわ!? ちょ、まっ、わっ!?」
鶴羽の手首から伝わる力の流れが、規則的に暴れ回った。
槙村が最もバランスを崩しやすい向きへ力を振り回す。それをやられた槙村は、まるで直下型地震にあったかのように足元をふらつかせた。……基本の型の一つ『転掌』にある技だ。手首のしなりで作り出した「波」を相手に伝え、力の方向を惑わしてバランスを崩させる。
槙村はたまらず手を離す。
しかし次の瞬間、丸太を高速でねじ込まれたような鋭い衝撃を土手っ腹に受けた。
「ごはっ——」
それは、鶴羽の正拳突きだった。
息ができなくなるほどの勢いを浴びせられ、槙村は「く」の字になって弾き飛ばされた。
(ざけんじゃねぇ……どう考えても、女が出していい突きじゃねぇぞ…………!?)
「殴る」より「抉る」の方がしっくりくる。そんな突きだった。
槙村は痛みを堪えて立ち上がろうとするが、それよりも先に鶴羽の拳が眼前で寸止めされる。とてもあの突きを出したとは思えない、白くなめらかそうな手だった。
「……まいった」
槙村は茫然とそう言った。屈辱さえ感じる余裕がなかった。
鶴羽の拳が引っ込む。槙村はジンジンした痛みを感じつつも、今度こそ立ち上がった。
「ありがとうございました」と鶴羽が一礼。槙村もあわてて同じように一礼。
周囲から拍手が沸き立った。
「槙村さん、大丈夫ですか? わたしも一応手加減はしたのですが……」
「あ、ああ……大丈夫だよ」
口ではそう言いつつも、内心では突っ込みまくっていた。……あれで手加減? ふざけんな、どんだけだよお前。
下地が近づいてくる。
「どうですか? これが衛命流空手です。後手で戦い、後手で最大限の力を発揮する空手。……槙村、鶴羽と戦っていて、何か気がついたことはありませんか?」
槙村は少し考え、言った。
「……防御がすげー上手かったっす。あれ、全部『廻し受け』っすか?」
「そうです。廻し受けは衛命流における最重要の基本。さらに鶴羽は今の組手で、君が学んだ三つの基礎の技しか使っていませんでした。……分かりますか? 三つを学ぶだけでも、あれだけ戦えるようになるのです」
「だったら、俺ももう組手に参加しても……!」
「まだダメです。君の基礎はもう少し積み重ねが必要だ。何より——君は攻撃に対して未練を持ち過ぎている。それは我が衛命流とは真逆の思考です」
意識していなかった弱点を突かれた気分になる槙村。
下地は少し考える仕草を見せてから、次のように言った。
「槙村、君は土曜日は学校が休みでしたね。これからしばらく、その土曜日を私に預けてみる気はありませんか?」
「え……どういうことっすか」
困惑する槙村に、下地はにっこりと鶴羽そっくりな笑みを浮かべた。
「とっておきの修行法を施してあげます。来週の土曜日の昼、私の家に来なさい」




