認める
常春の言質を取った後、すぐさま正式入会の手続きが始まった。
手続きといっても、別に拝師式——正式入門の際にとり行う儀式——のような形式ばったことをするわけではない。ただ『正伝聯盟』構成員の名前が書かれた赤い手帳に、常春の名を書き加えるだけだ。
やたらと仰々しく説明していたが、『正伝聯盟』とはざっくり言い換えれば、伝統的な中国武術の使い手たちが集まり、談笑を楽しんだり、困った時に助け合ったりする集団である。サークルのようなものだ。
しかし、同じ人種同士の絆というのは、異国人だらけな外国でこそ強固になりやすい。集まりの場を作るだけでも、その関係性はさらに強まる。
入会が正式に決定した後、常春は新たな仲間たちと茶の席を囲んだ。
そこでいろいろな話をした。……常春が周りから質問され、それに答えるというのがメインだったが。
自分が昔病弱で、それを武術と気功の修行で回復したこと。
その後、師とともに何度も繰り返した「海外旅行」のこと。
異国の珍味、地雷撤去の方法、最近流行りの金塊の密輸手段、爆弾テロや武装勢力の襲撃を経験したことなど、いろいろ話した。
デンジャラスな話を好む麗剣は目を輝かせて聞き、逆にそういう話が苦手な宝仁は子犬のように震えながら聞いていた。
そんなふうに、常春は楽しい時間を過ごした。
……いつの間にか姿を消していた、李響のことを気に留めぬまま。
「くそっ!」
李響は毒づきながら、套路を一人練っていた。
そこは、地下にある正伝聯盟の部屋から地上へ上がった「至熙菜館」店内だった。今日は定休日なので、誰もいない。
幼い頃より何千、何万、何十万と練り上げてきた套路。もはや意識せずとも、肉体が勝手に技を紡いでいく。
少しでも早く強くなるための修行のつもりだった。……しかしそれが、屈辱感から少しでも早く開放されたいがために行っている逃避行動であることを、李響本人は自覚していなかった。
練っても練っても、心に巣食う屈辱感は消えない。
「くそっ!」
再度吐き捨てる。
負けてしまった。
自分たち中国人こそが真に使いこなせると思っていた中国武術で、外国人に負けた。
さんざん大口を叩いておいてこのザマだ。
「——くそっ!!」
一回練り終わり、それからもう一回套路を練る。あっという間に汗だくになっていたが、それすら今の李響には気づいていなかった。
頭にあるのは、敗北の悔しさと、尊敬する師らの前でメンツを潰されたことへの憤懣。そして、それらをもたらしたあの小僧の顔。
今日は負けた。だが、俺はまだまだ発展途上だ。今よりさらに功夫を積んで、あの小僧を倒してみせる。
また一回套路を終え、もう一回繰り返そうとした瞬間、
「……少しいいか」
背後から声が聞こえた。
「うわ!?」
すぐ後ろから声をかけられ、李響は思わず飛び上がって驚く。いつもはこれほど背後まで近づかれたら嫌でも気づくはずなのに、今、まったく察知できなかった。
よほど注意力が散漫になっていたのだろうと反省しつつ、後ろを振り向く。
「慧老師……?」
『三老』の一人、慧晃徳だった。
骨太で腰の据わったその佇まいは、仏像を思わせる静かな存在感をひしひし感じさせる。少し伸びた坊主頭の下にある老夫の顔は無表情を崩すことがほとんど無く、考えが全く読めない。おまけに必要以上のことはしゃべらない。他の『三老』と同じく、常人にはない異質なエネルギーを感じさせる人物だ。
「何か……俺に御用でしょうか」
晃徳は相変わらずの無表情で訊いた。
「……話をしにきた」
「な、なんでしょうか」
思わず背筋に力が入る。改まって、何の話をしようというのだろう?
晃徳はいきなり核心をつく言葉を投げかけた。
「……仕返しなどやめておけ」
「——っ!?」
図星を突かれ、李響は驚愕する。
「なぜ……分かったのですか」
「……負けん気の強いお前の性格上、そうなるかもしれないと思っただけだ」
見透かされていた。やはり『三老』の一人は伊達ではない。
だからこそ、李響は否定を一切せず、主張した。
「俺は……勝ちたいんです。あの日本人に」
「……お前はなぜ勝ちたい」
「それは……」
言葉が出なかった。
答えは、ある。
「日本人では中国武術を極められない」と豪語した手前、それをこの手で証明しなければメンツが立たないからだ。
だが、李響はそれを口にすることが、ひどく恥ずかしいことのように思ってしまった。
かつて少林寺最高位の武僧だった大柄な老人は、そんな李響の心中を見通していた。
「……メンツにこだわるのは、必ずしも悪いことではない。だが、それに拘泥し過ぎるな。それは、視野をみずから狭窄させる思考だ」
「ならば、どうすれば良いのですかっ?」
李響はすがるような、反抗するような顔で訊いた。
対し、晃徳はどこまでも落ち着き払った口調と態度で、言った。
「……認めるのだ、目の前の現実を。負けたという結果を、あの少年の実力を、己の主張の間違いを、それらを認め、さらに己を磨くことだ。そちらの方が誰も傷つかないし、自己の修練にもなる。……仕返しをするより、よほど健全だ」
拳をギュッと握りしめる李響。
反論の余地もない正論だ。
「……人間は有史以来、目を覆いたくなるような弾圧や虐殺を幾度も繰り返してきた。だがそれらをもたらしたのは悪意ではなく、一つの思想や価値観に凝り固まった意識だ。分かるか? 人は他人を認められなければ、その他人を攻撃することしかできなくなる。だが同時に人は、その壁を乗り越えられるようにもできている」
「慧老師……」
「……最終的にどうするのかは、お前次第だ。しかし、私はお前が賢い子だと知っている」
晃徳は言うことは全部言ったとばかりに、踵を返して去っていった。足音は全くしない。
遠くにいてもなお大きく見える晃徳の後ろ姿が地下に消えるのを見た瞬間、李響は近くの椅子に落ちるように座った。
「あの人があそこまで喋ったの、久しぶりだな……」
李響は一人でしみじみ言った。
あの人は基本、必要以上のことをしゃべらない。
つまり、今回えらく口数が多かったのは、必要だったからだ。
自分のために。
不思議と、さっきまで心を支配していた黒々とした衝動が、快晴のように晴れていた。
「目の前の現実を認める、か……」
19歳の自分より年下であろう日本人の少年が、武術社会でも名高い『三老』に比肩するほどの力を持っている。
世の中というのは、自分が考えている以上に、広大なのだろう。




