アニオタ、李響と試合をする
中華円卓が端っこへ引っ込められ、大きく動き回れるだけの空間が広間にできあがる。
感心な若者たちへ向ける笑みを浮かべた小樽、
ぼんやりしているようでいてどこか真剣な顔つきの浩然、
相変わらず無表情を崩さぬ晃徳、
緊張の面持ちの麗剣、
あわあわあわあわと口をパクパクさせて顔面蒼白となった宝仁。
広間の端に並ぶそれらの表情たちが見つめる先は一つ。
一触即発の緊迫感を発している、常春と李響。
両者は右手を前にした構えを取っていた。その状態で互いの右手同士を触れ合わせた状態で、ずっと動かない。
『塔手』。互いに構え手を触れ合わせ、そこから伝わる触覚で相手の出方を察知する。中国武術的な儀礼では、試合開始前にこの状態を作る。
「俺の通背拳は小樽老師譲り。決して生易しくはない。腹をくくっておくんだな」
構えた右手越しに見る李響の目つきは、戦意で尖っていた。いつでも来い受けて立つぞ、とでも言わんばかりの眼差し。
対し、常春は力みも緩みもしていない、地平線のように細められた目つき。感情は平静でニュートラル。波風一つ立たない湖面を連想させる。
互いの視線が、一対の糸のように重なり合っている。
張り詰めた沈黙が、二人の間で凝縮する。空気の入れすぎで今にも弾けそうな風船のようであった。
やがて——李響の右手が霞のようにボヤけて見えた。
常春は頭を後ろへ引く。一瞬後、常春の顎があった位置を、コンパクトな平手打ちが切り裂いた。今のを食らっていれば、脳震盪でしばらく動けなくなっていただろう。
さらに次の一瞬で、その平手打ちは急激に軌道を直線状に変えて宙を疾った。顔を狙ったその右掌打へ、常春は『塔手』の時に前へ出していた右手をこすらせて軌道をズラす。掌打は左耳のすぐ隣を通過した。
だが同時に、右側頭部めがけて鋭く急接近する空圧を感知した常春は、軽く身をかがめる。それからほとんど間を作らず、李響の左腕が頭上を鞭のごとく薙ぎ払った。先ほどまでの二撃はブラフ、本命はコレだったか。
李響の攻めはなおも続く。前に突き出していた右掌を使い、常春の髪をつかもうとしてきた。常春はそれよりも迅速に上半身を後傾させて空気をつかませ、同時に爪先を用いた蹴りを李響へ叩き込んだ。蟷螂拳の『閉門脚』という蹴りである。
だがその蹴りも、直前で持ち上げた片膝によってブロックされた。
自身の体勢が不安定なことを懸念した常春は、羽がふわりと舞うような軽やかさで大きく後方へ跳んだ。踏み込みに合わせてまっすぐ放たれた李響の正拳が目標を失って空を切る。
李響は舌打ち混じりに毒づいた。「ちっ、『騰』の体さばきか……!」
着地して早々、常春は高速移動の歩法『八歩趕蝉歩』で瞬時に離れた距離を潰し戻す。李響の間合いに深く踏み込みつつの右拳打を放つ。
直撃する寸前、李響は左手で常春の右拳を押し下げて威力を消し、同時に顔を右掌で打ち掛かった。
それを常春の左腕が持ち上げて防ぎ、そのまま左手を拳にしてジャブのように鋭く打とうとした。しかしそれも迅速に引っ込めた右肘によって防がれる。さらにそこから左掌。それも常春は防ぐが、李響は常春に反撃の隙は与えんとばかりにガンガン攻めてくる。
あらゆる形、あらゆる角度をとって拳や掌が絶え間なく襲ってくる。それらの動きは軽快で柔軟で円滑で居付かず途切れない。まるで無数の蛇が食んでくる様子を連想させる高速連打。
これこそまさに通背拳。蟷螂拳に勝るとも劣らぬスピードを持った拳法。
肩と腕の無駄な力を極限まで抜き去ることで、人間の腕が本来持つ「2〜3kgの水袋」という性質を取り戻させる。柔らかくも重い物体と化した両腕を背筋と足の力で鞭のごとく高速で操り、敵を問答無用でメッタ打ちにする。
その腕の動きは軽く、柔らかく、変幻自在で、まともに当たれば大男のパンチよりも重い。速さと重さという矛盾を実現した攻撃の応酬が常春を襲う。
いくら最小限の力で受け流しても、次の瞬間にはその腕の動きが水のごとくニュルリと形を変えてまた迫る。それを防いでもまた間もなく次の攻撃が……と、まったく終わりが見えない。
アッパー気味に斜め下から迫る拳。常春はそれを掌で受け止めようとしたが、李響のその拳は直撃寸前に開かれて掌と化し、なおかつ軌道も急激に下へ変化。……常春は、自分の胸に両掌が今まさに打ち込まれようとしていることをすぐに察知した。
常春が大きく後ろへ跳ねたのと、李響が後足と背筋の勁をバネのように爆ぜさせて両掌打を発したのはまったく同時だった。李響の押す力に同調する感じで常春が後退する感じだ。
ノーダメージのまま、距離を取ることに成功した常春。
「……功夫不錯」
常春は思わずそう口にした。
李響の功夫の高さを、手合わせして痛感した。このまま腐らず修練を地道に積み続ければ、きっと素晴らしい武術家になれるだろうと確信した。
……李響は無言だが、内心では常春の立ち回りをかなり称賛していた。普通ならば一撃くらい受けてもおかしくないほど高速で連打したのに、全て防がれ、避けられた。
おまけに技が馬鹿正直に套路通りではない。状況に応じて、蟷螂拳という枠組みから外れない程度に変化が加えられている。……套路の中に含まれる「法」を自分のモノにしている何よりの証。
認めるより他はない。この細身で華奢なアニオタは、中国武術を中国武術として身につけている。それも、並の中国人武術家よりもずっと深く。
しかし、ここで勝負を捨てるのは、また別問題だ。まだ勝敗は決していない。李響は戦意を保つ。
常春が再び瞬時に間を詰めた。その『八歩趕蝉歩』の最後の一歩に合わせて放たれた右拳を、李響は腕の摩擦で受け流す。
すかさず反撃しようとしたが、それよりも速く常春が次の攻撃を仕掛けてきた。左拳を外側から円弧の軌道で振り放つ。圏捶という、ボクシングのフックにも似た突き技だ。
頬を狙ったものと読み、李響は常春の左手首を右手刀で受け、圏捶を停止させた。
だがその打撃に込められた力が妙に弱い……と感じるのと同時に、李響は右腕をつかまれた。受け止めた常春の左手がそのまま噛みついてきたのだ。しかも掴む力が、まるで万力で挟まれたように強い。
李響は舌打ちする。——やられた。確か蟷螂拳には、一つの攻撃に複数の用途を含ませる特殊な打法があったはず。今の圏捶は、殴るためでもあるし、相手の腕を捕まえるためのものでもあったのだ。それら複数の用途を一つの動作に凝縮させたために、先読みがうまくできなかった。
さらに常春は、右腕を李響の首の後ろへ回して抱きつき、足を払ってバランスを崩して転倒させた。
李響が床に仰向けになると同時に、その鳩尾へ体重ごと膝を乗せて動きを封じる。李響の鼻先で常春は拳を寸止めさせた。
取り返しが効かない状態。果し合いならば、この時点で常春が李響にとどめを刺している。
「よし、そこまでだ!」
そこで静止を呼びかけたのは、李響の師である小樽だった。
常春は立ち上がる。師匠がそう命じたのだから、きっと起き上がった瞬間に襲いかかってくることはないはずだ。
李響も起き上がる。
「二人とも、良い試合だったぞ! ワシは久しく血が沸き立つのを実感した! さあさあ、互いの腕と熱意を讃え合おうではないか!」
小樽は向かい合う若者二人の背中を叩き、気持ちよく笑った。
彼の言う通りに、常春は相手の腕を称賛しようとして、やめた。
李響はひどく屈辱を感じた顔をし、うつむいていた。
こんな状態の相手を称賛しても、された側は惨めさを強めるだけだ。
彼の申し込んだ試合とはいえ、結果的に彼のメンツを潰してしまったことを残念に思う常春。もう少し良い勝ち方があったかもしれないと思っていると、
「すごいじゃん、伊勢志摩くん! まさか響兄ぃに勝っちゃうとは思わなかったよ!」
「えっと、確かにすごいですけど、あの、ボク、見ててハラハラしました……」
麗剣が嬉々とした態度で、宝仁がヘナヘナと安心しきった態度でそう常春を称賛した。
常春は黙って笑うことでそれらに答える。
「それでさ、入ってくれるだろ? 正伝聯盟にさ! ていうか、入っておくれよ! そんなすごい蟷螂拳、あんたの代で途切れさせるなんざ勿体無いって!」
喜んでいるのか懇願しているのか分からない態度で、そう勧誘してくる麗剣。
「喜んで入らせていただきます」
常春は、最初から言う予定だった答えを遅れて告げた。
その言葉を、『三老』はしっかりと耳に納めていた。
……三人の若者が盛り上がる一方で。
李響は恥辱を噛みしめるように表情を歪めていた。握りしめた拳が悔しさでブルブルと震え、食いしばった歯がギリギリと鳴る。
そんな様子もまた、『三老』はしっかりと見ていた。




