アニオタ、日常系を語る
頼子が人気のない屋上前の階段を選んだのは、話す内容が内容だからだ。
どういう事情であれ、暴力沙汰に関わる話なのだ。人前で堂々とするべき話ではない。
常春もまた、その辺を突っ込まれると予想していたので、彼女の考えに乗った。
案の定、突っ込まれた。
「その、伊勢志摩さ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「ん?」
「あの四人をやっつけたのって……伊勢志摩なの?」
「うん」
隠しても仕方のないことなので、常春はあっさり肯定した。
頼子は「やっぱり」と思っていたが、それでも驚いた。
常春は弁当箱のおにぎりを頬張り、咀嚼し、飲み込んでから再び口を開いた。
「僕は蟷螂拳っていう中国の拳法を少しだけ学んだんだ。あっちから仕掛けてきたから、その、ちょっと手を出しちゃったっていうか」
謙遜して「少しだけ」などと言ったが、実際はいささかどころではない。凄まじく厳しい修行だった。少しでも技の形を間違えたりすれば、細い竹棒でピシャッと叩かれたり、足を払われたりしたものである。対人練習では、蹴られた大腿部が内出血でどす黒くなったり、打撃の摩擦で前腕の肉がめくれて尺骨が剥き出しになったりしたものだ。
頼子もまた、常春が謙遜していることをなんとなく分かっていた。
「伊勢志摩はさ、中国人なの?」
「日本人だよ。師匠は中国人だったけど」
「だった、ってことは……」
「うん。もう亡くなったよ。中学二年の頃に」
頼子は申し訳なさそうに、
「ごめんね。嫌なこと聞いちゃった」
「気にしなくていいよ」
「うん。それと……ありがとね。昨日、助けてくれて」
「どういたしまして」
常春は、箸でおかずの出し巻き卵をつまみ、食べた。
「僕の方こそ、お弁当分けてくれて感謝してるよ。ありがとう。すごく美味しいね、これ」
頼子はほんのり頬を染め、口を尖らせた。
「……それ、ウチが作ったんだ」
「へぇ、すごいね」
「あ、ありがと。本当は友達に食べさせるつもりだったんだけど、風邪で休んじゃって」
頼子が両膝に口元を隠しながら言う。口元はほころんでいた。
常春は時間を見るために、スマートフォンのスリープ画面を開いた。大人気日常系アニメ「お茶立て町のお茶目なお茶屋さん」のキャラの全員集合画像が壁紙になっている。
それをチラ見した頼子が尋ねた。
「伊勢志摩、アニメ好きなの?」
「好きだよ? とくに「日常系」がね」
アニメの話にシフトしたことで、常春の口調が少しはずむ。
「ニチジョウケイ、って何?」
「可愛い女の子たちが、ただただ平和な日常を過ごすだけのアニメさ」
「何それ、あんまり面白くなさそう」
「えー? そんなことないよ。面白いよー」
常春が心外だと抗議の声を上げる。
「「日常系」は確かに大きな変化はないんだけど、その分、争いも戦争もなくて平和なんだよ。それに、変化にはとぼしくても、それはまったく彩りがないって意味じゃないんだ。その何気ない日常の中にいろんな発見や宝物が転がっていて、それを一つ一つ見つけていくようなところが面白いんだよ」
頼子はクスクスと笑った。
「伊勢志摩、必死すぎ。今までで一番よくしゃべってるよ」
「そ、そう?」
「ん。でもちょっと安心した。伊勢志摩って、別にケンカが好きってわけじゃなさそうだね」
「まあ、武術の技術交流は好きだけど、無意味な争い事は好きじゃないよ」
そこでふと、常春の表情が引き締まった。
「——だけど、「現実」は「日常系」とは違う。この「現実」はひたすら不条理だ。いくら平和に過ごしたい人が多くても、必ず争いを起こす人がいる。残念ながら、世の中に争いというモノがなくなる日は、永遠に訪れない」
頼子はそう語る常春を見て、気分がざわつくのを感じた。
普通の人が今のセリフを言えば、「ちょっと立派なこと言ってるな」程度にしか感じられなかっただろう。だが常春の言動からは、「実感」のような生々しさが含まれている気がしたのだ。
瞳からも、さっきまでとは違う、ひどく冷たい感じがした。
「いけない、あんまり喋ってると、昼休み終わっちゃうね。早く食べなきゃ」
だが、次の瞬間には、いつもの常春に戻っていた。食事を再開する。
その激変っぷりに頼子はあっけに取られた。まるで、二重人格みたいだった。
正直言うと、常春のことが不気味に思えた。
だがそれ以上に、強い好奇心と興味がわいた。
パクパクとおにぎりを頬張る常春を、頼子はひたすら見つめていた。
◆
ところどころにサビがついた、廃工場の中。
学校の体育館ほどの大きさを誇るその建物の中は、驚くほどモノがなく、さらっとしていた。
その廃工場の奥に、一人の男が立っていた。
チョココロネみたいな金髪リーゼントの下には、精悍な顔立ちがあった。177センチの大柄な体は、骨太だが、無駄な筋肉が一切付いていない。
足首までの長さがある白い特攻服。その背中には、マッチョな悪魔の絵がプリントされていた。
その男の前には、人の群れが集まっていた。全員、背中にマッチョな悪魔の絵の入ったフライトジャケットを着ていた。
——神奈川県有数の暴走族「魔王軍」。
総数は二十人弱と、他の有名な暴走族の中では少なめだった。
しかし、団長の圧倒的な強さと、メンバー一人一人の強さが他の族とは桁外れである少数精鋭。
白い特攻服を着た男こそ、「魔王軍」団長、筧転助である。
転助は、群れの先頭に立つ四人の男と対面していた。
「……なるほどな、たった一人の一般人の高校生に、お前ら四人はなす術なくぶちのめされたと」
今この四人から聞いた話を、転助は神妙な顔でそらんじた。
曰く、この四人は昨日、女子高生にナンパした。
曰く、女子高生は嫌がっていた。
曰く、そこへ一人のひ弱そうな男子高校生が現れ、止めに入った。
曰く、その男子高校生をぶちのめして黙らせようとしたが、逆に返り討ちにされた。
「そりゃお前らが悪りーよ。ぶちのめされても文句は言えねぇぜ」
その四人は「そんなぁー」と情けない声を上げた。
「——が、「魔王軍」のメンバーにちょっかい出されて黙ったままっていうのも、メンツが立たねーってモンだ」
転助が不敵に微笑みながらそう言うと、四人は表情を明るくした。
「それに、ひ弱そうな高校生一人に、お前ら四人が一方的にやられたっつーのも気になるな。……おいお前ら、そのガキの動きはどんな感じだったよ?」
そんな質問をした意図はただ一つ。その高校生が転助と同じく、なんらかの武術や格闘技の使い手だと見たからだ。
四人は顔を見合わせ、あれこれ話し合った。
「……なんか、パンチがすげぇ速かったな。一瞬で顔面に三発打ち込まれたぜ俺」
「いや、パンチだけじゃねぇ、走る速度もヤバかった。離れた距離を一瞬で詰められたもんよ。加速装置かっての」
「おまけに忍者みてぇに身軽だった。俺の肩に跳び乗ったもんよ」
「そういや、あのガキ最後に、変な構え方してやがったなぁ」
転助は最後のセリフに対して、「どんな構え方だったっ?」と問うた。
「えっと……なんか、カマキリみてぇな構え方でした」
そんな構えを取る武術など、この世に一つしかなかった。
転助は愉快そうに笑い、
「なるほど、蟷螂拳か! こりゃ面白ぇや!」
「な、なんスか、その……トーロー」
「蟷螂拳だよ! 中国拳法の一つだ! なるほどなるほど、確かに伝統的な蟷螂拳なら、空手やボクシングで一発殴る間に三発は打てるし、忍者みてぇな身軽さや速さも軽身功でお手のものだ! ふははは、最高だ! もう蟷螂拳は見掛け倒しのモンしかねぇと思ってたんだが、まだそんなアンティークが残ってやがったのか!」
「そ、そんなに面白いんスか?」
「面白ぇ面白ぇ。面白すぎて——ますますケジメ取りたくなってきたぜ」
転助は獰猛に笑った。
全員が色めき立った。
四人の男のうちの一人が転助に歩み寄り、興奮気味に言った。
「や、やってくれるんスね、総長!」
「おうよ。こんな楽しそうな喧嘩は久しぶりだぁ」
「それじゃあ、ついでに、あの女にも責任取らせましょうぜ!」
上機嫌だった転助の眉が、ピクリと反応した。
「は? お前今、なんつった?」
「だから、俺らがナンパしたあのJ Kにも責任取らせましょうって話ですよ! あの女は俺らをコケにしやがったんだから、拳法野郎と同罪ですぜ! 別に喧嘩ができなくても、女なら女なりのケジメの付け方があるじゃないっスか! たとえば、あのデカパイで——」
それ以上は続かなかった。
その男の顔面を、転助が裏拳で殴りつけたからだ。
素人目にはただの裏拳にしか見えないが、それによって殴られた男はゆるい放物線を描いて大きく吹っ飛ばされた。
ドシャァ! と倒れる音。
転助は怒号を上げた。
「おう誰だぁ!? あんなポコチン野郎誘ったのはぁ!! クビだクビ!! 即刻ジャケット没収して追い出せやぁ!!」
今度は、士気を煽るような口調で、高らかに叫んだ。
「いいかテメェらぁ!! 俺らは物も盗らねぇし、女も犯らねぇ!! 「魔王軍」が欲するモンはただ一つ————面白ぇケンカのみだぁ!! わぁったかぁ!?」
オオオオオオオオオオオオオオ!!!
「よぉし!! それじゃあ、その拳法使いの小僧を探し出せぇ!! んで、俺の前へ連れてこいやぁ!! 楽しい楽しいタイマンだァァァァァァ!!!」
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!
無数の雄叫びが、廃工場のサビた壁や天井をビリビリと震わせた。
そう。
いくら「平和な日常」を望む者が多くても、必ずそれを争いで乱したがる者が現れる。
——常春は頼子を助けたことがきっかけで、そんな厄介者を多数引き寄せることになる。
まるで、一粒の火の粉が草原に灯り、やがて燎原と化すかのように。