アニオタ、またもや試される
あっという間に平日は過ぎ、土曜日となった。
「ここか……」
常春は名刺と目の前の店の看板を交互に見て、そこが目的地であると判断する。
洋風建築の入口付近だけを中華っぽくしたチグハグな建物。赤い柱で支えられた瓦の軒の下には、春聯と倒福で赤くいろどられたドアが構えてある。ノブには「定休日」と書かれた札が吊るされていた。
最寄り駅から五駅を渡り、歩くこと二十分と少々……常春はそのレストラン「至熙菜館」にたどり着いた。
名刺に書かれた簡単な地図だけでは分かりにくく、スマホの衛星マップで補う形で道をたどってきた。
月曜日の麗剣の誘いに乗って、常春は一応足を運んではみたのだが、
「定休日、って書いてあるんだけど」
常春は一人突っ込んだ。
入っていいのだろうか。
いや、麗剣は確かにこの日に来いと言った。ならば、尋ねても問題はないだろう。きっと、ここの店の人とは馴染み深いのかもしれない。
……常春は最悪、闇討ちをかけるための罠の可能性も見ていた。彼女とは月曜日が初対面だが、縁というのはどこでどうつながっているか分からないものだ。常春はいろんな武術家を倒してきたので、その分メンツを潰されて恨みを抱く者もダース単位で存在するかもしれない。
……いずれにせよ、このドアを開けなければ始まらない。
常春は洋風のドアノブをひねり、手前へ引いてみた。——カギが開いている。
周囲に意識を張りながら、店内へと足を踏み入れる。お茶と香辛料の匂いがほんのり香る。
立地的に陽が入りにくいため明るさにとぼしく、薄暗い店内。
店の中心にまで差し掛かった時だった。——静かな闘気を肌で感じ取ったのは。
常春は素早く立ち位置をズラす。一瞬後に、さっきまでいた座標を小柄な人影が高速で通過した。
距離を取って、その人影を見つめる。薄暗くても、夜行術を心得た常春ならくっきりその姿が見える。
まず目を引いたのは、仮面だった。京劇で使う赤い臉譜の仮面の後ろから、太い三つ編みが肩甲骨のあたりまで垂れている。Tシャツとゆったりめの長ズボンというシンプルな衣装をまとうのは、常春よりも少し背の低い細身の体格。華奢で弱々しく見えるが、全身の重みが足裏に沈殿しているような安定感が感じられ、武術の腕前はかなりのものと判断できる。
その仮面の少女は真っ直ぐ常春を見据え、稲妻のように急接近。半身になりながらピラミッドのごとくどっしり踏み込み、正拳突きを繰り出す。速い!
常春はギリギリで身をひねってその正拳をかわしつつ、すれ違って後ろを取ろうとする。
だが仮面の少女は弾けるように体の向きを変え、再度歩を進めて次の一手を仕掛けてきた。斜め下へ斬り下ろすような掌打を、あのピラミッドのごとき盤石な踏み込みとともに放つ。
常春は軽身功の身軽さを活かし、当たる直前に大きく後ろへ跳ねて回避する。
数歩分の距離は稼げたため、常春は高速で相手の技を分析する。
あの技、間違いない——形意拳だ。
太極拳、八卦掌と並んで『中国三大武術』として数えられる名門。
脱力と姿勢によって体重を足裏に集中させて力を出す沈墜勁を中心に、いくつかの精密な体術を組み合わせて、相手を一撃で打ち倒せるほどの勁を発する。見た目は単純そうだが、習得が難しい拳法である。
最初の正拳突きは『崩拳』といい、二回目の掌打は『劈拳』という……どちらも形意拳の基本の套路『五行拳』に含まれる技だ。
仮面少女がまたも詰め寄る。ここは通路が狭い一本道。一直線に突き進んで戦う形意拳には向いている。
盤石な踏み込みを交えた右正拳突き。常春は横から腕を差し入れて右拳の軌道をズラし、あさっての方向へと通過させた——と思った次の瞬間に左拳。それも受け流すと今度は前へ踏み込んでの右掌打へと繋げようとしてくる。
これは確か鷂の俊敏な動きを模した『鷂形拳』という技だ……と記憶を振り返りながら、常春は仮面少女の両肩に手を置いて跳ねた。
強大な勁を込めた右掌打が空を打ち、常春は少女の両肩を中心にして足で円弧を描くように宙返り。両者の動きはまるで回転する陰陽魚のような調和をはたし、一方が空振り、一方が回避という結果を生み出した。……『揶』と呼ばれる蟷螂拳の体さばきの一種である。相手の気と力を読み、それを回避に利用するのだ。
常春は一回転して着地。仮面少女も切るような速さで常春へと向き直る。
再び軽快ながら安定した足さばきで近づく仮面少女。
対し、常春はあえて前へ進んだ。
形意拳は戦車のごとく前へ前へと突き進む拳法。相手が小柄だからといって、それに真正面から挑むなど愚の骨頂。本来は。
右足が鋭く進み、右掌が斜め下へ落ちる軌道で迫る。『劈拳』だ。
それに対し、常春は踏み込もうとしている相手の右足めがけて、素早く『斧刃脚』を放った。振り子のように前へ放たれた靴裏は仮面少女の向こうずねを打ち、足の動きをつっかえ棒よろしくストップさせた。歩法が中断されれば、形意拳の貫くような勁は出せない。
さらに、常春も攻めはそこで終わりではない。流れそのままに、蹴り足で仮面少女の右足の指を踏んづける。敵は足をピンで縫い付けられたように動けなくなった。
仮面少女が体勢を崩す。その顔面に当たる寸前で、常春は拳をストップさせた。
「もういいだろ? 出てきたらどうだい、孫麗剣さん」
暗がりの奥へ呼びかける常春。
すると、闇がうごめき、二人の人影が出てきた。
「相変わらず鋭い奴だねぇ、あんた」
苦笑しながら出てきた影の一人は、常春が呼びかけたとおり、麗剣であった。
常春は踏んでいた足を解放し、仮面少女を自由にする。
途端、仮面の下から情けないソプラノボイスが出てきた。
「あああ〜〜〜、麗姉さぁん、すごく怖かったです〜〜!」
「おーよしよし、よく頑張ったね。どこも怪我してないだけ偉いよ。さすがはアタシの弟弟子だね」
仮面少女を撫でながらそうなぐさめる麗剣。……ん? 弟弟子? ということは仮面少女ではなく、仮面少年か。
「……それで、どうですか郭老師? なかなかの腕前でしょう、彼は」
しばらくしてから、麗剣はもう一人の人影に呼びかけた。
「——好功夫」
そう言った人物は、温厚そうな老人だった。
人が良さそうなシワ付きの顔だが、その瞳の奥からは宇宙のように深い「何か」を感じた。……常春はこういう目をした人間を何人か知っている。その一人が、自分の師であった。
ダークレッドの唐装に包まれた体型は、やや恰幅が良く、軽いメタボ体型に見える。だが常春は、その体型が内家拳——気の運用や呼吸法を重視する中国武術の総称——の度重なる修練によって下腹部や腰部の筋肉群が異常発達しているものであると一目で見抜いた。
その老人は、人の良さそうなシワをなぞったような親しみやすい笑みを浮かべ、言った。
「ようこそ、伊勢志摩常春くん。愛弟子である麗剣から話は聞いているよ。私の名は郭浩然。至熙菜館の店主にして、この団体——『正伝聯盟』神奈川支部を統括する身だ」




