アニオタ、推し声優に土下座する
三人は飲み物を自販機で買い、無人の公園へと場所を移した。空では夕日が茜色に燃え、葉桜をオレンジに光らせている。
常春と初音はベンチで隣り合わせに座り、いろんな話をした。……主に、彼女の出演しているアニメの話題が中心だが。
あの未亡人キャラの絶叫が凄まじくリアルで怖かったとか、あの妹キャラの声が可愛かったとか、あの悪女キャラのゲス演技が最高に素晴らしかったとか……
そんな二人の話の邪魔をしないようにとばかりに、麗剣は少し離れたところで見守っていた。
不意に、初音が改まった口調で言った。
「その……伊勢志摩さん、一つ、お聞きしてもいいですか?」
「なんでもどうぞ」
常春はまぶしい笑顔でそう促した。憧れの声優さんと話せて、もう心がぴょんぴょんしちゃっていた。……鼻にティッシュが詰まっているので台無しだが。
初音は、ためらいがちに次のように訊いてきた。
「……伊勢志摩さんは、私の何が好きなのでしょうか」
まるで、訊きたいけど訊くのが少し怖い、といった感じの口調。
……初音は人気声優として名をはせる一方で、自分の人気の「根源」がどこにあるのかをずっと気にしていた。
見目麗しい容姿まで求められる、昨今のアイドルじみた声優像。
声や演技を褒めて欲しい気持ちとは裏腹に、初音はその容姿をべた褒めされることの方が多かった。
複雑な心境だった。
自分は声優だ。声で戦う職人なのだ。なので声以外を評価されても、あまり嬉しいとは思えない。
それはすなわち、歳をとって若さがなくなれば、存在価値がなくなることを意味する。
そんなのは職人ではない。
だからこそ、目の前の少年の意見を訊きたい一方で、訊くのが怖かった。ここで「見た目が良いから」みたいな感想を頂戴すれば、軽くへこんでしまいそうな気がした。
しかし、常春は次のように言った。
「誰にでもなれるところ、ですかね」
初音は、不意打ちを食らった気分になった。
悪い意味ではない。
「あくまで僕の主観ですけど、あなたの声って、良い意味で個性が無いんですよ。個性が無いからこそ「あ! これあのキャラと声同じだ!」というのがなくて、だいたいキャスト欄見てから始めて仁科さんだって気づくんですよ。それがすごいと思うんです」
不思議な感覚だった。
「まるで透明みたいなんですよね。透明だから、なりたい色にすぐに染まれる。その色と重なれば、その色になれる。あなたの声も同じように、いろんなキャラ……人物になれる。まるで映画に出てくる、いろんな人や動物に変身できる魔法使いみたいだと思うんです」
まるで、自分の心の中を、覗かれているような感覚。
「……まぁ、こんな感じの理由でしょうか」
言い終えると、常春は少し恥ずかしそうにはにかんだ。
……他人を介して自分の思いを再確認するという、妙な感じ。
だけど、とても幸福な気持ちがあふれてくる。
「——ありがとうございます。とても、嬉しいです」
初音は作り物ではない、心からの笑顔を返した。
「そうです。伊勢志摩さんのおっしゃる通りです。……私は「透明」になりたいんです」
言うと、初音は不意に歩きだし、青々とした若葉でしげった桜の木の幹で立ち止まる。振り向く。
「色の無い透明になれれば、たとえ人間でも、この葉桜の色彩に溶け込んで、「同じ」になれるんです。華にだってなれるんです。いろんなものになれるんです。……だから私は、せめて声だけでも「透明」になろうと思っているんです。「透華」という名前も、その気持ちを込めて付けました」
そう言って微笑む今の初音からは、ある種の神々しささえ感じられた。
「だから、キャラに声を当てているとき、私はとても楽しくて、幸せなんです。私は二次元の中でなら、どんな「私」にも変身できるんです。伊勢志摩さんのおっしゃる通り、まるで魔法使いみたいですよね」
本当に幸福そうに、こそばゆそうに笑う。
「だから、私は……可能であれば、ずっと声でお仕事がしたいんです。まるで満天の星々を一つ一つ旅するみたいに、もっともっと多くの「私」になりたいんです」
その様子を見て、常春の中には一つの安心感が芽生えた。
「……よかったです」
「伊勢志摩さん?」
「あんな出来事があったから、怖くなって声優をやめちゃうことも懸念していたので」
「あんな出来事」が何を指しているのか、言うまでもないことだろう。
初音の表情にかげりが浮かぶ。
「……伊勢志摩さんは、信じているんですか? その……「写真」のことを」
少し、悲しそうに表情を歪める。
「あの「写真」は、私じゃないです。私、あんな露出が激しい服恥ずかしくて着れませんし、あの撮影場所がどこであるかも分かりません。だから、あの「写真」はウソなんです。……信じてもらえないかもしれませんけど、言っておきます」
「僕が信じる信じないが、それほど大事なことなのかな」
「え……」
「真実はあなたの心の中にしか存在しないんだ。なら、それを信じないで何を信じればいい? たとえ世界中のみんなが寄ってたかって後ろ指をさしても、あなたの中の真実は誰にも奪えはしないし、殺せもしない。あなたは周りから何を言われようと、その真実を見つめ続けていればいい」
そう。だからこそ常春は、周りから異常だと思われても、自分にできる最善の手段を迷いなく実行できる。
仁科透華を守って、それをスタッフに咎められても、常春は少しも恥じてはいなかった。
自分の中の「正しさ」を信じていたからだ。
「そもそも、あの写真は信じる信じない以前に、判断材料として持ち出すことすらおこがましいシロモノだ。少なくとも僕は、あの写真が偽物である理由を知っている」
「え……? そ、それは何ですかっ?」
訊かれると、常春はなんというか、心底気まずい顔をした。
「…………その、まことに言いづらいし、ヘタをすれば殴られるかもしれない理由なんですが……」
「怒りません。だから、教えていただけますか?」
常春は素直に白状することにした。
「……ホクロ」
「へ?」
「その……ステージであなたを助けた時、あなたの襟元から胸の谷間が見えて……右胸にホクロが付いてるのを発見してしまって。だけど、あの写真には、そのホクロが付いてなかった。だから…………あの写真はフェイクなんです」
麗剣が大爆笑した。
初音はというと、その白磁のような頬を信号みたいに真っ赤にし、表情に羞恥をあらわす。
そして、涙目で常春をジッと睨み、いじけたような声で一言。
「…………伊勢志摩さんのえっち」
「すみませんでした」
常春はシュバッと平伏して謝罪した。剥製にして博物館に飾ってもいいほど見事な土下座であった。
麗剣はそれからしばらく、馬鹿笑いをやめなかった。
「ひーーっ、ひーーっ……! あー、おっかしぃー。笑った笑ったー」
ひとしきり爆笑し、ようやく落ち着きを取り戻した麗剣は、目をこすりながら初音に問いかけた。
「お礼言えたから、次はアタシのターンでいいんだよね、ハツ?」
「あ……う、うんっ。ありがとう、麗ちゃん」
初音はそう頷く。
麗剣が、常春へと近づいてくる。足裏が地面に磁石みたいに吸い付くような歩き方。彼女の高い功夫の片鱗がうかがえる。
「君の八卦掌、なかなかよく鍛えられてるみたいだね」
「……へぇ、やっぱり分かっちゃうんだ。八卦掌だって」
猛獣を前にして虚勢を張るような、緊張した笑みを見せる麗剣。
「やっぱりあんた、ウチらに加わるに相応しい逸材だよ。ますます欲しくなっちまった」
「ウチら?」
「そうさ。伊勢志摩くん、アタシがあんたに会いに来た理由はただ一つ——『正伝聯盟』への勧誘さ」
正伝聯盟?
その単語の意味を問う前に、麗剣が常春の懐へ飛び込み、一枚の名刺を差し出してきた。
手に取り、名刺を見る。
「至熙菜館」という中華料理店のものだった。
「今週の土曜日、そのレストランに来ておくれ。そこで全てを話す」
そう告げる麗剣の眼差しは、真剣そのものだった。




