アニオタ、執念の捜索によって身バレする
「仁科透華襲撃事件」から、あっという間に一週間が経った。
最初の頃はネットでトレンド化していたそのニュースも、あっという間に新たなニュースに埋もれ、SNSでも一文字目だけで検索語候補に出てくることはなくなった。
ネットの発達は情報の流通を飛躍的に加速させた。その分、ニュースが別のニュースで塗りつぶされるのも速くなった。
人々は常に、新しい刺激を求めるのである。
だが常春にそんな事は関係ない。
平和な「日常」であれば、それでいい。
襲撃事件からの一週間は、何事もなく平穏な日々が続いていた。
——校門を出た瞬間、強烈な殺気を受けるまでは。
「っ!!」
獣並みの反射神経で、殺気が飛んできた方向へ目を向ける常春。
校門を出てすぐのところに、明らかに私服姿な少女二人組が立っていた。
一人は、ボーイッシュな出で立ちの少女。赤みがかった黒い短髪に、強気そうでいて少女らしい親しみやすさを感じさせる目鼻立ち。深緑色のTシャツと、インディゴデニムのハーフパンツ。162センチの常春よりやや高い程度の背丈で、全体的にスレンダーな体型。
もう一人は、その少女の後ろに隠れるように立つ地味めな女の子。漆黒の長髪を二束の三つ編みにして垂らし、目元には丸眼鏡。フリルのついた白い長袖と黒いプリーツスカートは、いずれも肌の露出を極限まで抑えた奥ゆかしいものだった。
常春の視線を受けると、ボーイッシュな少女は不敵に口端を吊り上げ、地味めな少女は恥ずかしそうにうつむく。……前者が、先ほどの殺気の送り主だろう。
さらにあっちから歩みを進めてきたことで、その強い疑念は確かな確信へと変わった。
前足を踏み出すとき、踵を地に付けてから踏み出すのではなく、足裏と地面を平行にして踏み出している。まるで足裏が大地に吸い付くような足取り。——『平起平落』。中国北方武術の一派、八卦掌における歩法の要訣である。
常春は、すぐさまこの少女が武術の心得持ちであると見抜いた。しかも日常生活の癖レベルで動きを身につけている。結構な腕前のはずだ。
そのボーイッシュ少女は常春の近くまで来る。瞬間——その右手が一閃と化した。
常春の体が考える前に動いた。空手で言う貫手のような形をとった少女の右手を、こちらも右手で掬い上げるように防ぎ、そこからすかさず彼女の右脇下で左拳を寸止め。
彼女の使った技が八卦掌の『穿掌』であると知覚したのは、刹那の攻防が終わった後だった。
「……『白虎洗臉』。蟷螂拳の套路「小番車拳」に含まれてる動きだね。あんたが当てる気だったなら、今頃アタシの右腕は動かなくなっていたんだろうね?」
後ろでアワアワと動揺している三つ編み少女を尻目に、ボーイッシュな少女はそう口にした。不敵な笑みだが、緊張で強張っていた。
常春は何も言わず、触れた右手から彼女の「力の流れ」を知覚し続けている。もし攻撃の意思を再燃させるなら、問答無用で『截脈』を使い右腕をしばらく麻痺させるつもりだ。
だが、彼女は闘気を緩め、一歩しりぞいた。
「悪いね、いきなり手荒な事して。あんたが「本物」であるか、もっと突っ込んで確認したかったんだよ。……でも、杞憂だったね。あんたは間違いなく、本物の国術使いだ」
国術。「伝統的な中国武術」を意味する中国語。
この言葉をわざわざ持ち出したところを見ると、「政策によって改悪された現代の中国武術」と、「改悪されていない昔ながらの中国武術」を分けているように感じられる。
そのボーイッシュ少女は手を差し出し、同胞へ向けるような友好の笑みを浮かべて言った。
「紹介が遅れたね。アタシは孫麗剣ってんだ。んで、こっちの眼鏡っ子がマブダチの中里初音。アタシら二人とも、あんたに会いたくてきたんだよ——「カマキリ野郎」くん?」
その呼称に、常春はかすかに目を見開いた。
孫麗剣は、とにかくあらゆる手段でもって常春の身元を探し出した。
興信所を使うという手もあったが、有料な手段は最後に取っておきたい。商売人の娘であるため、コストをかけるべき部分とタイミングはわきまえていた。
麗剣が使ったのは、ネットのあらゆるコンテンツやサービスだった。
まだ「仁科透華襲撃事件」の話題がホットなうちに、巨大匿名掲示板に「透華たんを救出した謎の少年とは何者か?」というスレッドを立てたり、SNSで複垢を作りまくってネット民の特定精神を煽って回ったりした。
だが、所詮は不特定多数が利用するネットだ。玉石混合どころではない。役に立たない情報、読むからにガセと分かる情報、冷やかしの書き込み、初音への中傷などばかりが手元に入ってきた。……特に最後のに対しては、考えつくかぎりの罵倒の言葉を返信してやった。
めぼしい情報が「蟷螂野郎という、めちゃくちゃ強い喧嘩屋がいる」というものしか手に入らないまま、日にちが過ぎていく。
「仁科透華襲撃事件」が話題として冷めていき、それに合わせる形でネット内の動きも静まっていき、こりゃ望み薄かなぁと考えながら惰性に任せて掲示板を徘徊していた時だった。暗闇の中に光明が見えたのは。
それは、アニメ板とはまったく関係のないジャンル、裏情報板で見つけた。ヤクザなどの裏社会に関する情報を書き込む板だ。
「岩田組、組長逮捕によって崩壊秒読み」というスレだった。
総レス数100にも満たない寂れたスレだったが、思わぬ拾い物というべきか、だらけていた麗剣の寝ぼけ眼を覚まさせる情報が書き込まれていた。
曰く——神奈川県S市に拠点を置いていた暴力団組織「岩田組」が、たった一人の少年の手によって総崩れを起こした。
曰く——その少年は鬼のように強く、誰一人として敵わなかった。
曰く——その少年は、奇妙な格闘術を使っていた。
曰く——少年は、カマキリの前足を模したような奇妙な構えをよくしていた。
麗剣は思わず机に身を乗り出した。
カマキリの前足を模したような構え。
これは、蟷螂拳の『蟷螂捕蝉式』のことではないだろうか?
さらにスクロールすると、またもや麗剣を驚かせる情報があった。
『馬鹿みたいに動きが速い。拳銃撃とうとした奴の懐に一瞬で近寄って殴り倒した。あれはもう人間の動きじゃない』
『そういえば、S市を中心に暴れてる「魔王軍」って族の総長を一瞬でぶちのめした高校生がいるって話だ。なんでもそいつ、カマキリ野郎とか呼ばれてるらしい。同一人物かもな』
カマキリ野郎……最初に手に入れた情報とカッチリ噛み合う、心地良い感触がした。
「カマキリ野郎 魔王軍」というワードで検索する。
暴走族関連のスレッドが表示された。そこをクリックし、書き込みを読む。
『魔王軍のヘッドのT・K氏を、普通の高校生が叩きのめした』
『ガセじゃない。俺は奴らが闘うところを廃工場の影から覗いてた』
『カマキリ野郎と呼ばれてたそいつは、潮騒高校の制服を着てた』
目的地が明確に絞り込まれた瞬間だった。
灯台下暗し。
目的の人物は、光野女学院から五つ駅を行ったところにある県立高校、潮騒高校にいる可能性高し。
——そんな執念深い捜索を聞かされることなく、常春は二人の少女と歩いていた。
「孫さん、だったかな。日本語と中国語、どっちで話せば不自由しない?」
「どっちでも不自由ないよ。でも、今日はこの子がいるから、日本語で頼むよ」
そう言って、麗剣は初音へ目を向けた。
常春の視線を受けると、初音は息を呑み、ためらいがちに常春をチラチラ見てくる。
その様子に小首を傾げる。
常春は、この二人とこれまで面識など無かった。それなのに、なぜ自分に用件があるなどと尋ねてくるのか。
それを麗剣に訊くと、
「それはこれから順を追って話す。というか、アタシは初対面だけど、あんたはこの子……ハツに一回会ってるんだよ?」
彼女はそう告げ、からかうように微笑んだ。
常春はさらに初音を凝視する。……だめだ、まったく記憶にない。さっぱりだ。
麗剣はため息をつくと、一言。
「——ハツ。「やぶきた」」
途端、ずっと沈黙を守ってきた眼鏡っ子が、突然はっきりした声を発した。
「『カマキリ野郎さん、お茶茶茶は好きですか?』」
常春は常在戦場の心得を忘れない少年である。
話している最中も、周囲に気を配ることを忘れない。シームレスに意識の力を使う主義だ。
しかしこの時、常春はその心得を一瞬忘れてしまった。意識を途切れさせてしまった。隙を作ってしまった。
初音が発した声……それはまさしく常春が愛する日常系アニメ「お茶立て街のお茶目なお茶屋さん」の主人公、「やぶきた」の声だったのだ。
声真似などでは断じてない。日常系アニメマイスターの常春は、本物と真似の区別がつく方だ。
そう。それすなわち、この中里初音なる眼鏡っ子が——今を輝く大人気声優、仁科透華その人なのである。
常春はおもむろに拳を握り、それを鼻っ面に叩き込んだ。痛い。鼻血がボタボタ出てきた。
「ちょ、あんた何やってんの!? 馬鹿なの!?」
「いや、ちょっと夢か現かの確認を。憧れの仁科さんが僕の前に現れたことに現実感が持てなくてさ。……だけど、これは現実みたいだ」
初音が頬をほんのり染めてうつむく。「そんな、憧れだなんて……」と小さく呟く。
麗剣から渡されたティッシュを鼻に詰めてから、常春は鼻声まじりに自己紹介した。
「僕は伊勢志摩常春です。よろしくお願いします。いつも応援してます」
「あ、はい……私、中里……じゃなくて、仁科透華です。応援ありがとうございます……」
お互いにぺこりとおじぎし合う二人。
「ほら、ハツ。なにジジババみたいな挨拶してるんだい。本題に入りな。先鋒はあんたに譲ってあげるから」
じれったそうに初音の背中を押す麗剣。
常春よりも少し低い背丈の初音が、間近で顔を見上げてくる。
ほんの一瞬、目を奪われた。地味な丸眼鏡でマスキングしているが、間近から見るその顔は、やはり「仁科透華」の人間離れした美貌に他ならない。
「その、伊勢志摩さん……」
初音は、まるで長年探し続けていた尋ね人をようやく見つけたような感慨を、その澄んだ瞳にあらわしている。その両眼に、常春の顔がくっきりと映っていた。
「あの時は、助けてくださって、ありがとうございます。——この言葉、ずっとあなたに言いたかった」
そして、とても嬉しそうな笑顔を見せる初音。万人の心を奪いそうな、輝かしい笑顔だった。
常春は数度まばたきをしてから、口元を微笑みにした。
「どういたしまして。あなたが無事でよかった」




