悩む声優、探す親友
光野女学院。通称ヒカ女。
偏差値65を誇る、神奈川県トップの女子校。
通っている女子はみな富裕層ないし高給取りの家の息女という、いわばお嬢様学校。歴史も大正初期に端を発していたりと長い。
「女という立場に甘んじるなかれ」。創設者の標語を実行するように、高いレベルの教育を行なっている。そのため、生徒の質は折り紙付き。ヒカ女があるS市の学生の間には「ヒカ女の子を彼女にできたら勝ち組」という言葉があるほどである。
広大な敷地内に立ち並ぶ施設の数々。
現在は午前の授業が終わって昼休み。
高等部校舎の廊下の窓で、一人たそがれている少女がいた。
漆黒の長髪を左右に分けて三つ編みにし、窓から来る風で揺らしている。大きな近視用の丸眼鏡がさらに外見の地味さを強めているが、眼鏡の下には世間で「超絶美少女」と評されている人間離れした美貌がひそんでいる。
中里初音——またの名を仁科透華。
昨日、お茶茶茶茶会のステージで美貌と声を振るっていた人気声優は、今はただの地味めな女学生に戻っていた。……初音は昔からド近視で、声優をやるときはコンタクトレンズを着用している。
この学院で、初音が声優であることを知っているのは三人のみ。
学園長、現生徒会長の下地鶴羽、そして初音の幼馴染にして親友の孫麗剣。
「……はぁ」
初音は地味仮面の下にある美貌を憂いに染め、一人ため息をついた。
脳裏に浮かぶのは、一人の男の子。
パッと身、小柄で華奢な普通の少年。高校二年生の自分と同い年くらいの。
だけどその瞳は、宇宙のように奥底が分からず、ジッと見ていると吸い寄せられてしまいそうな感じがした。
……昨日のイベントで、自分を暴漢から守ってくれた少年の姿。
あの時は本当に怖かった。あんなに殺意を剥き出しにされたことは生まれて初めてだった。思い出すと、今でも怖気が立つ。
だけど、守ってくれた人がいた。風のように現れて、自分を助けてくれた男の子がいた。
あの時は気が動転して、声が出なかった。お礼を言うべき場面であったにもかかわらず。出すべき時に声が出ないなんて声優失格だ。
結局、その少年はそれ以降会うことはなかった。
「お礼、言いたいなぁ……」
それが、初音の中では心残りだった。
ありがとう。それだけでも言いたい。
だけど、住所も知らなければ、名前も知らない。そんな人を探すなど、広大な砂漠の中から一粒の砂金を探す行為に等しい。
「それなら、SNSを使って呼びかければ——」
そう思いかけて、やめた。
SNSを使って一個人を、まして男の人を名指しで呼びかけるなど言語道断。所属事務所の人からキツく言いつけられていることだった。
「仁科透華」の人気はすでに単なる声優としての枠組みを超え、アイドル的な人気になってしまっている。どういう理由であれ、男と一緒の所を見られようものなら邪推されかねないし、それによってファン離れが起こる可能性もある……それが事務所の見解であった。
昨日の騒動も、誤解とはいえ、それが原因で起こったことなのである。
ネットにばら撒かれた仁科透華のスキャンダル写真。あれはフェイクだ。本人だからこそそう言える。それを事務所へ言ったら、とりあえず信じてくれた。
誰かは分からないが、ああいうことをする者がいるのだ。そのことを初音は悲しく思う。
声優としての面子を傷つけられたからではない。
——あんなまがい物の写真一つだけで、人気が大きく変わってしまうからだ。
初音は幼い頃から声優に憧れていた。声さえあればいろんな人物になり変わることができる声優という存在が、何にでも変身できる魔法使いみたいに思えたのだ。
幼い頃の女児アニメの声真似から始まって、養成所を経て、事務所に入り、ようやく声優という魔法使いになることができた。
だが、自分が声優になった頃には、声優という存在の定義が変貌してしまっていた。
アイドル的存在にまでなり、社会的知名度は上がった。だがその分、声優は声よりも、容姿やスタイルなどといった生来の付加価値を重要視されることが多くなってしまっていた。
さらに外見が優れていても、女性声優は年齢も見られる。歳を重ねるにつれて重要視されなくなっていき、そして最終的には業界から消えていくのだ。お世話になった先輩声優が流れ出るように引退していくところを、初音はずっと見てきた。
これでは使い捨てカイロと同じ扱いではないか。先輩の中には、自分なんかより優れた人も多かったというのに……
いや、分かっている。声優という職業の分母が大きすぎるのだ。知名度が高まり、声優になりたい人が増えたが、増えた分だけ、生き残り続けるのが難しくなる。
「なーにたそがれてんだい?」
「ひゃぁ!?」
思案の海に浸かっていた初音の意識を、隣からの声が強引に現実へ引っ張り出す。
ばっくんばっくん鳴る心臓を押さえながら、初音はいつの間にか隣に立っていた親友の姿を認めた。ぷっくり頬を膨らませ、
「……麗ちゃん、おどかさないでよぉ」
「あはは。悪かったねぇ、ハツ」
親友は陽気に笑う。
やや赤みがかったショートヘア。ヒカ女指定のジャージ——さっきまで体育だったからだろう——が、カモシカのようにスレンダーな体の輪郭を描き出している。気丈そうでいてどこか愛嬌のある目鼻立ちが、自分に対して親愛の笑みを見せている。
孫麗剣。初音の幼い頃からの親友だ。
老華僑の祖父を持ち、父親がIT事業で財を成した経営者。初音と違って本物のお嬢様である。
「美しく、強い娘に育って欲しい」という願いを込めて「麗剣」らしい……その名付けに沿ったように男勝りな性格で、相手が自分より大きな男でも平気でズケズケとモノを言う。おまけに何かの武術をやっているらしく腕っぷしも強い。そんな勇ましさと強さ、おまけにスポーツ万能なところから、このヒカ女ではディープな意味で彼女を慕う女子が多いらしい。
何より……小さい頃からの大切な親友だ。
「いやさ、あんたがものすごい憂鬱そうにしてたからさ、おどかして元気にしようと思ってさ。……もしかして、まだ「昨日の事」を気にしてんのかい?」
麗剣が気をやや張り詰めさせながら訊いてくる。少し怒った顔をしているから、きっと刃物男に襲われた事を言っているのだろう。
初音はふるふるとかぶりを振り、
「ううん。違うの」
「じゃあなんだい?」
「……その、昨日助けてくれた男の子に、お礼言えてないな、って」
言うと、麗剣はしばしキョトンとし、それからにんまぁっと意地悪な笑みを浮かべた。
「なぁによ、ハツってば。もしかして、その子に惚れちゃった?」
「ち、違うよぉ! その、あの、ただ、お礼言えてないのが申し訳なくて……」
「ホントーかなぁ」
「もう! 本当だってば!」
真っ赤になった初音をしばらくからかってから、麗剣は意地悪な笑みを引っ込めた。
「……それで、お礼言うのはいいんだけどさ、相手がどこの誰だか分かってる?」
「ううん……顔しか分からないの」
「そりゃ厳しいわぁ」
はーっ、と上を向きながらため息をつく親友。
もう会えないという事実をあらためて思い知らされ、初音も合わせてため息。
「しょうがないなぁ……アタシが手伝ってやるよ」
初音はものすごい勢いで親友を見返した。
「ほ、ほんとっ?」
「うん。アタシはネットとか使うの得意なんだから。IT実業家の娘をナメんなよー?」
「本当に見つけられるかなっ?」
「やってみないと分かんないよ。それにハツ、あんたは立場上ネットとかあんま見ない方がいい。一般人にも知名度が広がったあんたを悪罵する書き込みを見つけるなんて、犬のクソを見つけるよりも簡単なんだから。そしたら仕事のモチベが下がるだろ? だから、一般人のアタシが動いた方がいいんだよ」
「えっと…………よ、よろしくお願いしますっ!」
感謝7割、成果への期待3割を心に抱きながら、初音はぺこりとおじぎした。
親友は「任されたっ」と、薄めの胸を張ったのだった。
初音との昼食後、昼休みが終わりに近づいたので、孫麗剣は自分のクラスへ戻った。
善は急げ。早速スマホを取り出し、ネットという大海での漁を開始する。
その手と指はいつになく動きが急いていた。まるで焦っているように。
……今回の恩人探しは、初音だけでなく、自分にとっても必要なものだった。
確かに、親友の思いを叶えたい気持ちはある。
けれど、麗剣にはもう一つ、親友の恩人を探す目的があった。
彼の蟷螂拳——アレを何としても自分たちの手中に納めたい。




