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side槙村 道場めぐり編《下》

 柔和さの中に厳しさを内包したその声が、槙村の意識をこの世界につなぎ止めた。


 この声……知っている。というか、今日聞き知ったばかりの声だった。


 うつ伏せになった満身創痍の槙村は、視線を上げて前を見た。


 少し離れた位置にいるのは、細身な学者風の優男。


 その眼鏡の下にある、穏やかながら底の知れなさを感じさせる眼差し。


 衛命流空手道場の館長、下地弘だった。


「あ……あんた、なんでここに……?」


「君が落とした「コレ」ですよ、槙村君」


 下地は小さく微笑み、槙村の落としたメモ帳を見せてきた。


「コレを読む限りでは、どうやら君は、いろいろな道場を訪ねて回っているようですね。私の道場の次にここの道場の名前が書いてありましたが……この道場には少々危うい気風がただよっているので、心配で追いかけたんですよ。来てみれば案の定、散々な目にあっているようですね」


「うる、せぇ……冷やかしに来たんなら、とっとと、失せろや……」


「とんでもない。私は助けに来たのですよ」


 槙村から目を離し、縦島へ視線を移す下地。


「というわけですから、どうかここは大人しく退いてはいただけませんかね。ここまでやったなら、もう満足でしょう?」


 あくまで柔らかな物腰を崩さない下地。


「るせぇよ、外野が! 余計な口出しすんじゃねぇ!」


 門下生の一人が、下地へ躍りかかった。


 細身の優男に、骨太な巨漢が襲いかかる。その様子に槙村は冷や汗をかいた。普通に考えれば結果が目に見えている勝負だった。


 だが、下地は「普通」ではなかった。


「おわぁっ!?」


 門下生が下地に触れた瞬間、その大柄な体が瞬時に横転した。


 その門下生は地面に叩きつけられた衝撃によって一気に戦意を削がれ、唸って悶える。


「は……!?」


 槙村は目が点になっていた。


 なんだ、今のは? 今、下地(あいつ)は何をしたんだ?


 ……実際には、ただ攻撃を受け流してから足を払って転ばせただけなのだが、槙村には速すぎて見えなかったのである。


「野郎ー!!」

「ぶち殺せぇーー!!」

「うおおおおおおお!!」


 一人がやられた事をきっかけに、門下生全員がわらわらと下地へなだれ込んだ。


 対し、下地は少しも揺らぎを見せなかった。静かに、しかし近寄りがたい緊張感を持ったたたずまい。


 一人目が近づき、突きを打とうとするが、それよりも速く下地の正拳が飛び出して顔を打った。……筋力と体重で殴るのとはまた力の感じが違う。まるで、底部の火薬の炸裂に押されて急激に加速された銃弾を思わせる、突発的な突きだった。


 鼻血を散らしながら仰向けに倒れるその門下生。その仰臥(ぎょうが)はドミノのごとく後ろの仲間を巻き込み、そのまま数人を一時的無力化するという役目を果たした。


 その間に下地は、斜め左右からの拳を両腕の小さな円運動で受け流し、すかさず両者の鼻っ面へ拳撃。また二人倒れる。


 残った門下生もすぐに攻めに戻った。


 気合いとともに回し蹴りが振り放たれる。だが下地は蹴り足の内側へ流れるように入身(いりみ)し、蹴りの遠心力が弱い太腿を片手で押さえつつもう片方の手で正拳。


 横合いから殴りかかってきた相手のパンチを左手で受け流し、そのまま左拳で顔面を打って反撃。


 木刀を振り下ろしてくる門下生。下地は振り下ろされる前に木刀の柄頭を右手で押さえて振りを止めながら左拳で反撃。


 下地は怒涛の勢いで攻めてくる門下生たちを、素早く、鋭く、的確に迎え打ち続ける。


 多勢相手にたった一人の下地が押し負けていない最大の理由は、「防御」→「反撃」の速度が凄まじく速い、もしくは「防御と反撃」が一挙動で同時に行われているからに他ならない。


 『夫婦手(めおとで)』。防御から反撃へのプロセスを最速でこなせる、沖縄空手の実戦手法。空手の源流たる中国拳法白鶴拳(はっかくけん)では「父子相随(ふしそうずい)」と呼ばれている。

 

 洋の東西を問わず、高度な武術には必ずこういった「攻防一体」の技術が含まれているのだ。


 あれだけいた門下生が冗談みたいな勢いで倒れていき、やがて全員寝伏せた。


「ぐぬぬぬっ……!!」


 立っているのは、道場主たる縦島のみ。


 縦島は真っ赤になった苦悩の表情という奇妙な顔だった。困惑と憤怒が同時に心中で燃えているのだ。


 そんな縦島に、下地は最初と変わらぬ柔らかい物腰のまま、説得するように言った。


「もう、これでやめましょう。私は争いたくてここへ来たわけではありません」


「じゃかぁしぃ!! ヒトの弟子散々痛めつけといて、何をぬかしやがる!?」


「彼らが攻撃を仕掛けてきたから反撃したまでのこと。「空手に先手なし」とは言いますが、無抵抗で殴られるだけの空手を学んだ覚えはありません」


「ごちゃごちゃゴタクばっかし口走りやがって!! この若造がぁ!!」


 縦島は憤激と脚力にものを言わせ、一直線に下地へと突っ込んだ。


 間合いに下地を捕まえ、その岩石みたいな拳を真っ直ぐ叩き込む……


「せいやぁ!!」


 ……かと思いきや、繰り出したのは前蹴りだった。砂利を掘り返し(・・・・・・・)ながら(・・)の。


 ここに来て「縦島兵法」が発動した。蹴りによって掘り返された石つぶてが、下地の目元へ飛ぶ。寸前に両腕で顔をかばって防いだため、眼鏡に当たらずにはすんだ。


 だが、両腕を上げたことによって胴体がガラ空きとなり、そこへ向かって縦島が体重を込めた正拳突きを走らせる。


 勢いと体軸がよく乗った渾身の一撃。当たれば相手は大きく吹っ飛ぶだろう。


 ——が、その必倒の拳打は、直撃寸前で空を切った。


「ほごぉ!?」


 次の一瞬後には、下地の左拳が縦島の顔面を綺麗にとらえた。


 下地は直撃寸前に左向きへ全身をひねり、拳の直撃点から体をズラしたのだ。同時に左拳を右へ突き出し、縦島に当てたのだ。


 おまけに下地は、全身の筋肉をしぼるように締め上げ、地面に根を張ったようなしっかりとした立ち方を作っていた。その巨木じみた固定力と縦島の突進力とがぶつかり、縦島は己の力で己を殴る(・・・・・・・・)ハメになった。——那覇手系空手の基礎を養う型『三戦(サンチン)』の応用であった。


 空を仰ぎ見ながら倒れる縦島。もはや気力は、先ほどの一撃でほとんど削がれていた。


「「空手に先手なし」……この言葉は、君子を気取るためのものではありません。無益な争いをせぬ為、そして何より……空手は後手の方が(・・・・・)有利だから(・・・・・)に他なりません」


 下地は縦島を見ながらそう言った。


 ……だが槙村は、その言葉が自分へ向けて放たれたものだと思えてならなかった。


「空手は人体を刃に変える武術。もしも先に手を出されたならば……その刃を抜き放つこともやぶさかではありません」


 下地は縦島を視線で射抜くように見つめる。


 その視線の鋭さに、縦島は刀の一突きを幻視し、心胆が冷えるのを実感した。


 ……勝てない。この男には、逆立ちしても勝つことはできない。


 武道家というより学者にしか見えないこの優男を、縦島は野生のカンで恐れてしまっていた。


 しばらくすると、下地はにっこりと笑い、


「それと、こう見えて私は今年で五十五歳(・・・・)です。若造呼ばわりは心外ですよ」


 別の意味で衝撃的な言葉を告げたのだった。








 夕陽が沈もうとしている空の下。

「さっきは助かったよ……礼を言うぜ。ありがとう」


 槙村は下地の肩を借りて歩きながら、弱った声で感謝を告げた。


「お気になさらず」


 下地はそう簡潔に返す。


 現在、槙村は下地に連れられるまま、衛命流道場まで向かっている途中だった。


 手当てをしてくれるというのだ。


 これ以上彼の世話になることに、槙村はプライドゆえのためらいを感じていたが、正直さんざん殴られて辛いので、その好意を受け入れることにした。


 見た目からはまったくその強さが読めないが、こうして下地の体に触れてみると、練度のケタが違うことが嫌でも分かった。


 この一見細っこい体のいたる所が、木刀みたいに硬かった。


「それにしても、無茶をしますね君は。あのような無茶ばかりしていると、長生きはできませんよ。もう少し忍耐と、最低限の礼儀を身につけなければ、余計な敵を増やすだけです」


 痛いところを突かれ、槙村は押し黙る。


 だが、なんか(しゃく)なので、拗ねた子供じみた口調で言い返した。


「……あのバカどもを全滅させやがった奴が、よく言うぜ」


「あちらが先んじて拳を繰り出して来たから反撃したまでです。「空手に先手なし」とはそういう意味ですから」


 下地が、しばらく間を置いてから、次のように訊いてきた。


「君は、どうして強くなりたいのですか」


「……ぶっ倒してぇ野郎がいるんだ。今の俺じゃ、足元にすら及ばねぇくらいの化け物だ。そいつをぶちのめすために、どうしても強くならなきゃいけねぇ」


「ならば、仮にその人物を倒したとして、その後はどうするつもりですか?」


「……それは」


 分からなかった。


 常春を倒して、その後どうするかなんて、考えてすらいなかった。


 下地は教導するような口調で言った。


「闘争術としての意味しか持たぬ武術の行きつく先は、勝ち続けて死ぬか、負けて死ぬかの二つしかありません。たしかに空手は戦うためのものですが、それだけでは自分の人生を狭めてしまう。だからこそ、それ以外の意味を持たせなければ、良き人生を歩むことはできません」


 槙村は、黙って聞いていた。


「槙村君、君には才能がある。が、それ以上に危うさもある。……私のもとで修行し、たぎる血気を抑えてみてはどうですか」


 それを聞いて、槙村はしばし考えた。


 まだよく分からない人物だ。


 しかし、これだけは言える。


 おそらくこの男は——常春に匹敵し得る実力の持ち主だ。


 掲げている理念こそ自分とは正反対だが、それを踏まえても、師事する価値は十分にあると思った。


 何より、この人に師事してみたいと、本気で思ってしまった。


「…………お願い、していいっすか、師範(・・)


「もちろん」


 槙村はようやく「良師」を見つけたのだった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 『三年かけて良師を探せ』と武道を習う方から聞きますが、槙村君も良師を探してあてたようで。今後の活躍に期待大ですね。
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