side槙村 道場めぐり編《中》
メモ帳を落としたことに気がついたのは、衛命流の道場を去って十分ほど後のことだった。
一瞬、取りに戻ろうと思ったが、やめた。あの手帳に書かれた道場の名前はあと一つだけだし、その道順も覚えている。それ以降は白紙だ。もともと100円弱の安物であるため、また買えばいい。
そのままの足どりで、槙村は次の道場へと向かう。
次に行く場所も「ホームページがない道場」である。
しかも情報源は、ヤンキーどもの噂からである。
いわゆる「超実戦向きの空手」を教えているという場所だ。いじめられて不登校だった奴がそこへ入門してわずか三週間で強くなり、いじめてた奴を逆にいじめ返して不登校にしたという逸話がある。
信じがたい話だ。なので、これはダメ元というか、好奇心というか、そんな感じの訪問だ。
あと、道場主はヤクザ関係の者で、ケンカの心得なんかも知っているという。そんなデンジャラスな素性に惹きつけられて集まる門下生が多いらしい。つまり門下生の民度は……お察しというわけだ。
だが、少なくとも、さっきの道場よりは自分の理想に近い空手なはず。
あっという間に着いた。
見た感じ、ただの細長い一階建てで、家というより自治会館みたいな印象だ。だが、中でドタドタと騒音が聞こえてくる辺り、やはり道場なのだと感じた。
入り口にあるインターホンを押し、しばらく待つと空手着姿の大男が出てきた。
「あん? なんだ、入門かぁ?」
なんというか、いかにも悪そうなツラをしている男だった。練習中だったのか、額にはうっすら汗が浮かんでいる。
その凄むような目つきに若干圧されるも、槙村は平然とした態度を装って答えた。
「その前に、見学がしたいんだけど」
「見学だぁ? ウチの空手疑ってんのか、ああっ?」
不満げに威圧してくる道着の男。
「——まぁまぁ、いいじゃねぇかよ本山。俺ぁ別にかまわねぇぜ?」
その道場の男の後ろから、もう一人道着姿の男が出てきた。
槙村はその人物を見た瞬間、怖気が立つのを実感した。
戦車のような分厚い胴体から、丸太のように太い四肢が伸びている。切り株みたいな首の上に、岩を思わせる厳めしい顔が乗っている。
何より、顔のところどころに付いた小さな傷痕や、道着から覗くハムのような胸筋に刻まれた刀傷が、「その筋」の者であることを暴力的に認識させてくる。
「悪りぃなぁ、ウチの弟子がビビらせちまってよ。俺は道場主の縦島ってもんだ。おめぇはよ?」
「……槙村公平だ」
「そうかい。見た感じ、高校生くらいか? まあいいさ、俺の教えを受けりゃ、どんなヒョロガリでもあっという間に強くなれらぁ。さぁ、中入りな。歓迎するぜ」
多少胸騒ぎを覚えながらも、槙村は道場へと足を踏み入れた。
入った途端、雑多な匂いがした。
その雑多な匂いの通り、道場の中には雑多に物が置かれていた。
いちおう門下生が練習するだけのスペースはあるものの、すみっこには練習器具や衣類やその他もろもろ……とにかく適当な感じに積み上げられていた。悪い言い方をすれば、ゴミ山っぽい。
中央部の空間では、門下生達が突き技の練習をしていた。
「おう、その辺適当にかけな」
縦島の言う通りに、道場の端っこにあぐらをかいて座った。
「おうオメェら! 今日は見学してぇって坊主が来てるからよ、いつもより気合い入れろや!」
押忍! と門下生全員が返事した。
さっき話した本山も加わり、稽古が始まった。
槙村は真剣に、厳格にその風景を見つめる。
最初に準備運動。
次に各種突き技受け技を反復練習。
次に道場の端から端へ往復する蹴りの練習。
次に型稽古。
そこまでなら、普通の空手だと思っただろう。
だが、小休止し、組手の練習に入った途端、槙村は思わず我が目を疑った。
なんと、道場の端っこに積んであったモノを門下生が引っ張り込んで崩し、床を散らかし始めたのだ。
「キレたのか」と一瞬思ったが、同じ行動を始めたのは一人だけではなかった。他の奴も次々と道場を荒らしだした。
やがて、床はモノだらけとなった。
鉄アレイ、物差し、ハンドグリップ、空っぽのプラコップ……いろんなものが散乱している。
槙村は思わず、
「な、何やってんだ……!?」
「実戦を想定したトレーニングだよ、槙村クン」
自分と同様に端っこからその様子を眺めていた縦島は、ニヤリと笑って言った。
門下生はというと、足元に落ちているモノの数々へ視線を走らせ、拾った。
ある者は黒板用の巨大な三角定規、ある者は中身の入った制汗スプレー、ある者は空っぽのペットボトル、ある者はタオルケット……
次の瞬間、その各々持ったモノが「武器」であると確信した。
放射された制汗スプレーのガスを大きな三角定規で防ぎながら殴りかかったり、
空っぽのペットボトルでバシバシ叩いたり、
突進してきた相手をタオルケットで闘牛士よろしく包み込んだり、
鉄アレイにつまずいて転んだところを押さえつけたり、
やりたい放題だった。
「…………なんだ、これは」
槙村はそうこぼさずにはいられなかった。
対し、縦島がしたり顔で言った。
「俺が考えた、超実戦型自由組手だよ」
「組手? これがか……」
どう見ても単なるケンカの練習にしか見えなかった。
空手も何もない。だいたいが拾った道具をメインに戦っていて、空手技はそのオマケみたいな扱いだった。……こんなのが、組手といえるのか。
槙村の言いたいことを察した縦島は、世間知らずのチビッコを諭すような口調で言った。
「お坊ちゃん、俺ぁ裏の世界で暴れてきたから知ってっけどよぉ、空手だけで勝てるほどケンカってな甘くねぇもんだ。相手によっちゃ、鉄パイプやら短刀やら拳銃やら使ってきやがることもある。あと、自分よりデケェ奴に素手で勝とうとするのはバカタレだ。だから俺んとこは空手だけじゃなくて、周囲のモノをうまく使って戦う「兵法」みてぇなもんも教えてんのよぉ」
……確かに、この道場なら、手っ取り早く強くなれるかもしれない。
だが、槙村には一つだけ、しかしめちゃくちゃ気に入らない点があった。
『自分よりデケェ奴に素手で勝とうとするのはバカタレだ』
空手の可能性を信じていないところだ。
空手道場のくせに、空手を最初から見限っているのだ。
武道とは本来、弱い奴が強い奴に対抗するためのものではないのか?
デカい奴には素手で勝てない。これでは昔の自分と同じではないか。
槙村はもう、そうでないことを知っている。
自分より大きな男をワンパンで吹っ飛ばす、暴走族のリーダーを知っている。
その人物をして「バケモノ」と言わしめる、得体の知れない強さを持ったアニオタを知っている。
槙村は確かに強さを求めている。
だが、強ければ良いというわけではない。
槙村は、空手で強くなりたいのだ。
そんな槙村だからこそ、目の前の無秩序なケンカリハーサルを「組手」と呼ぶ神経が、たまらなく不快だった。
勢いよく立ち上がる。
抑えられた、しかしこの騒音の中でも透き通って聞こえる声で、槙村は告げた。
「こんなもん、空手でも何でもねぇよ」
騒がしかった門下生たちが、水を打ったように静まりかえった。
しかし、それは各々の不満で満ちた、張り詰めた静けさだった。
「俺は空手を習いたくて来たんだ。ケンカごっこ見せろなんて言った覚えはねぇよ。じゃあな」
槙村は足早に玄関へ行き、靴を履いて外へ出ようとした。
だが次の瞬間、背中に衝撃が走り、その勢いで外へ投げ出された。
「……テメェ、何しやがる!?」
何度か転がってから立ち上がった槙村は、門下生の本山へ怒鳴った。
「このクソガキがぁ……俺らの空手に向かって面白ぇ口叩くじゃねぇか。死ぬ覚悟できてんだろぉなぁ!?」
本山の怒号と怒気に闘争心を刺激され、槙村は負けじと言い返した。
「ハッ、叩いた覚えはねぇよ。だってテメェらのソレは空手じゃねぇんだからよ」
「……このガキャァァァァ!! ぶち殺したらぁぁぁぁぁ!!」
本山の声に引き寄せられる形で、残った門下生もワラワラと道場から出てきた。
勝負はすでに始まっていた。
槙村もやる気は満々だ。
「オラァぶぼっ!?」
正拳で殴りかかってきた門下生を、クロスカウンターの要領で殴り飛ばす。
さらに身を進め、次の門下生へ前蹴り。
今度は左右から二人同時に迫ってきた。槙村はパンチと足刀蹴りを左右へ同時に叩き込んで沈める。
爆竹のごとく快調に攻め続ける槙村だが、その勢いが続いたのは最初だけだった。
「ぐぅっ……!?」
やはり多勢に無勢。門下生はあっという間に周囲を取り囲み、四方八方から打撃を繰り返してきた。
「くそっ……たれがぁっ!!」
雄叫びで強引に気合いを入れ、拳を薙ぎ払って何人かなぎ倒す。
消えかかっていた焚火に油を注いだような気勢に任せて、とにかく知っている技をやたらめったら連発し、目の前を塞いでいる奴らをあっという間に打ちのめす。
いいぞ。体が温まってきた。こうなったらノーダメクリアなんて贅沢は言わねぇ、多少の生傷は腹くくって全員ぶちのめして——
「うわっ!?」
瞬間、プシューッというスプレー音とともに、目に霞と痛みがセットでやってきた。
目に染みる。催涙スプレーだ。
「あぐっ……」
さらに、呼吸が止まりそうになるほどのインパクトが、背中に叩き込まれた。
あまりのショックに体勢を崩しつつ、後ろを見る。ボヤけた視界の中で、木刀を構えた門下生が一人。
さらに腹を蹴られる。
顔面を殴られる。
胸に膝を叩き込まれる。
もはや反撃の気力は、完全に削ぎ落とされていた。
しばらくすると打撃の応酬は止んだ。
槙村は膝をついてうずくまる。何度も咳き込んだ。
自分より倍近くデカい手が胸ぐらを掴み上げる。間近には、道場主である縦島の岩じみた面構え。
「おい、小僧……思い知ったか? これがおめぇがケンカごっこと罵った俺らの空手だよ。分かったらとっとと非礼を詫びな。そしたら許してやるよ」
和らげられた語気で発せられたその言葉に対し、槙村は鼻で笑ってから言った。
「……死ね、腐れヤー公」
岩のような厳つい顔がさらに険しくなったのと同時に、腹へ門下生の蹴りがぶち当てられた。
さらに縦島に殴られる。腐っても道場主なようで、そのパンチはこの中の誰よりも重かった。
「オラァ、さっさと詫びろやぁ!! 俺らの世界はナメられたらシメーなんだよ!! 詫び入れるまで永遠にやめねぇぞコラぁ!!」
道場主まで、門下生による私刑に加わった。
絶え間なく豪雨のように衝撃を叩き込まれ、槙村は意識を手放しかけた。
「そこまでです」




