アニオタ、久しぶりに気圧される
言われた通りに薬を受け取り、指定の口座へ治療費を振り込んでから、常春は家へと向かった。
スマホを見て気づいたが、今日は倒れた翌日だった。
それを知って安心した。自分の家には頼子を待たせている。何日寝込んだままだと心配をかけてしまう。
いや、一晩帰らなかっただけでも心配をかけただろう。
それに今、頼子はいろんな出来事に襲われてナーバスになっているはずだ。これ以上、彼女の気持ちに負担をかけたくなかった。
常春は爽やかな朝日を浴びながら、足を急がせた。
「うっ……」
だが、不意に視界がぐらつき、膝から力が抜けてガクッと体勢を崩しかけた。
いけない。昨夜より良くなったとはいえ、まだ不調が残っているのだ。慌てない方がいい。
のろのろとした速度で、常春は帰路を進んでいく。
いつものクセで周囲に注意を配りながら、体に刻まれた本能のように足をただただ動かす。
ようやくマンションに到着した。
エレベーターを使って階を上がり、ずるずると引きずるような足どりで、とうとう見慣れたドアへと到着。
常春は鍵を使って玄関のドアを開ける。
嗅ぎ慣れた家の匂いに安堵を覚える。
今すぐベッドに横になりたいが、漢方薬を飲んだせいか脂汗で顔が気持ち悪かった。まず顔を洗いたい。
常春は脱衣所の引き戸を開け、
「……え」
肌色に遭遇した。
大きく形の良い乳房。それに反して細く引き締まったウエスト。腰から臀部へと湾曲するきつい曲線美。細くも柔肌の瑞々しさを感じさせる美脚。
やや鋭めな印象を与える美貌。わずかにブラウンがかった長い黒髪の先端からは、滴がしたたっていた。
湯気を立てて濡れた裸体の少女……頼子と目が合った。
ああ、なるほど……風呂上がりか。
最初は驚いた顔をしていた頼子だが、みるみるうちに羞恥で顔を染めていく。
「あ、なんかこれデジャぶっ」
バシーンときた。
平手の跡が頬にくっきり残った常春は、悟りを得た高僧のような澄んだ真顔でリビングのソファに座っていた。
「か、帰ってきたんなら、ただいまくらい言ってよ……」
間を開けて隣に座る頼子が、バツが悪そうな顔でぶつぶつと言う。すでに着替え終えており、昨日のデート時の私服姿だ。
昨晩、頼子はそのまま常春の部屋で寝落ちてしまったらしい。目が覚めた後に風呂に入っていないことを思い出した頼子は、慌てて入浴したのだそうだ。
「でも、服着替えられないのはちょっと……つらいかも」
「僕の服、着ても良いって言ったのに」
「し、しょうがないじゃんっ。あ、あんたのシャツ、小さいんだもん」
常春はああ、と察した。
常春は頼子よりも小柄だ。おまけに頼子は「一部」が大きいので、シャツがキツいのだろう。
「ああもう、男の服が入らないのってなんか傷つく。まるでウチが太ってるみたいじゃんっ……」
「いや、そんなことはないよ。宗方さん、すごく腰が細かっ——」
ふと失言に気が付き、常春は言葉を止めた。さっきの裸を思い出しながら言ったからだ。
案の定、頼子は泣きそうな顔でこっちを睨んでくる。
また何か言われるかと思ったが、次に出た言葉を聞いてハッとさせられた。
「……どうして、昨日帰ってこなかったの」
常春は一瞬間を置き、言葉を発した。
「決着を付けに行ってた」
微笑んでもう一言。
「——もう、大丈夫だ。すべて終わった。心配いらないよ」
常春は、頼子が喜ぶことを期待していた。
けれど、頼子の表情は優れない。
その唇から、ポツリと一言。
「また、危ないことしたんじゃないの」
「それは……」
「だって、いきなりナイフで刺そうとしてくる連中だよ? きっとロクな連中じゃない。……穏便に済ませられるわけないって、ウチでも分かるよ」
常春は言葉に詰まってしまった。
それは、目の前の女の子に対し、後ろめたさを覚えている証拠だった。
口で言うよりも明確な「是」であった。
そこを的確に突くように、頼子は言った。
「伊勢志摩は、どうしてそんなにまでしてウチを助けてくれるの?」
「それは、君が僕の——」
「「日常」だから?」
語気を鋭く強める頼子。
常春は珍しく気圧された。
次の瞬間、頼子は常春につかみかかり、責めるような、嘆くような口調で言った。
「——だったら! あんたもその「日常」の中にいなさいよ! なんでウチだけその中に置いて、あんただけ「非日常」に行っちゃうのよ!? 意味わかんない!」
とうとう、常春は何も言えなくなってしまった。
「ねぇ!? あんたの言う「日常」って何!? それって、あんたみたいにボロボロになりながら頑張ってる人達を排除して目を背けて、自分たちだけ平和の中でヌクヌクしようって連中の集まりなの!? だとしたら、そこにあんたの「日常」なんて無いじゃん! あんたは「日常」っていうお花畑に水をあげてるだけの部外者じゃん! あんたはそのお花畑に加われないじゃん! なら! あんたのための「日常」ってやつは、どこにあるっていうのよっ!?」
全身がしびれたように動かない。
そんな常春の胸に、頼子がしなだれかかった。キュッと常春の衣服を掴む。
「ウチ、怖いよ……あんたが、いつかどっか行っちゃうんじゃないかって…………もうヤなの。もうどこにも行かないで。ずっとウチの側にいてよ……」
常春は、脳天を後ろから殴られた気分になった。
それは、頼子の常春への恋慕を察したからではない。
……自分が過去に何度も思ったことを、そのまま口に出されたからだ。
失いたくない。奪われたくない。
自分は、ずっとそんな思いを抱いてきた。
だからこそ、「日常」という、脆くも美しい世界を守ろうと思った。
けれど、「失いたくない」と思っているのは、自分だけではないのだ。
相手もまた、こちらのことを「失いたくない」と思っている。
つまり、「失いたくない」という思いで自分を殺す行為は、相手のためにはならない。
自分が死ねば、相手は「失って」しまうのだから。
……「日常」は守り、自分も死なない。
それは、言うは易し、行うは難しかもしれない。
けれど、それを目指さなければ、目の前の少女は救われない。
救われないのでは、守れなかったのと同義だ。
常春は、自然と頼子の背中に腕を回した。
「大丈夫……君がそこまで思ってくれてるなら、僕の「日常」はちゃんとあるから。絶対に、黙っていなくなったりしないから」
「ほんと……?」
「本当。約束だ」
「うん……破ったらひどいんだから」
「それはなおさら破れないな」
常春は軽く笑う。頼子がそれを非難するようにポカリと胸をぶつ。
「……ねぇ、伊勢志摩」
「なんだい?」
「あんたのこと……今度から「常春」って呼んでいい?」
「別に僕は呼ばれ方にこだわってないよ。最初からそう呼べば良かったのに」
「茶化さないでよ、ばか」
ポカッと胸を叩かれる。
「いいよ。好きに呼んで」
「わかった。ありがと……常春」
「ん」
常春は小さく頷く。
そこで言葉を止めたのだが、それに対して頼子は唇を尖らせ、不満そうに上目遣いを送ってくる。
「……それだけなワケ?」
「はい?」
「あんた、ウチのこと何て呼んでる?」
「宗方さん」
「なんでよ。ウチだけ名前呼びって、変くない?」
「それってつまり……僕も名前で呼べってこと?」
胸の中にある頼子の頭が、頷きで揺らされた。
「それじゃあ……頼子さん」
「さん、いらない」
「頼子サマ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
胸を太鼓のように何度も叩かれる。
「いて、ご、ごめんなさい。ちょっとした冗談なんです」
「……常春のばか」
「ごめんごめん。じゃあ——頼子」
瞬間、息を呑む声とともに、胸の中にある頼子の顔が一気に赤熱した。
「う、うん……」
「よろしくね。頼子」
「ん……常春」
頼子が寄り添った状態は、しばらく続いたのだった。




