道化の狂笑
「なんだよ、あいつ! なんなんだよ、あいつはっ!?」
深夜の街中を、岩田剛士は息を切らせて必死に走っていた。
もう何度目になるだろうか、後ろをまたも振り返る。……自分を追ってきている者はいない。
だが、剛士はまったく気が休まらなかった。
いつあの悪魔が追いついて、自分に「報復」してくるのか分かったものではない。そんな不安が心にこびりついて離れなかった。
——なんという化け物に、自分は喧嘩を売ってしまったのだろう。
剛士は父、寅吉の執務室のドアの隙間から見ていた。
あの少年……伊勢志摩常春が、鬼神のごとき強さで父の配下を蹂躙する様を。
父は腕利きの人材を二人はべらせていた。空挺崩れのアメリカ人と、日中の裏社会を徘徊している中国人の拳法家だ。あの二人は岩田組最強の戦士だった。岩田組どころか、他の組でもあれほどの人材は滅多にお目にかかれないだろう。
そんな二人を、あの少年は一人で倒したという。
悪い冗談だと思った。猫がワンと鳴いたというジョークの方が100倍信ぴょう性が高い。
しかし、自分がこの目で見た光景は、まぎれもなく現実だ。
しかも悪い知らせがもう一つ。あのアメリカ人、ネイサンが裏切ったのだ。
あいつはこれから、自分や、その雇い主が犯した犯罪を洗いざらいゲロするつもりらしい。
奴が行った罪といえば、住居侵入、銃刀法違反、傷害だろう。だがそれ以前に超過滞在なので、受ける処罰は強制送還か。言葉の壁で不自由な日本で汚れ仕事をするのが嫌になったのかもしれない。
そして、父のやったことも明らかになり、警察のご厄介になり、あげく求心力を失った組は解散だろう。
最悪のシナリオだ。
そして、そのシナリオへ導いてしまったのは自分だ。
父は世間から後ろ指を指される立場の人間だった。その影響は、息子である剛士にも響いた。
善良な者は剛士を避け、クソみたいな連中は剛士にヘラヘラ寄ってきた。
カエルの子はカエル。剛士もまた、尖がった生き方をするようになった。
そんな剛士にとって、父というヤクザ者の後ろ盾は、核兵器のように頼もしかった。
困った時、父に泣きついて言う通りにさせれば、自分の欲望は満たされた。自分を溺愛する父の感情を、剛士は巧みに利用していた。
今回も、いつも通りに上手くいくはずだったのに。
もう終わりだ。あの理解不能な生き物のせいですべて台無しだ。
「きゃっ!?」
曲がり角を曲がった瞬間、誰かとぶつかった。
幼馴染の千重里だった。
精神的に追い詰められていた剛士にとって、最愛の幼馴染の存在は天使のように見えた。
千重里もこちらの存在に気づき、「あれ? 剛士?」ときょとんとした顔で呟く。そんな仕草も非常に愛らしい。
「ち、千重里! 千重里ぃっ!!」
我慢できなくなった剛士は、極寒の中で暖を求めるように千重里にすがった。
彼女の匂いによって心の壁が溶け、今までどんな事をして、どんな恐ろしい目にあったのかを、洗いざらいぶちまけた。
そうすることで、気分が少し楽になった。
だが、剛士はさらにもう一つ望んだ。
俺、こんなに頑張ったんだ。だから、そんな俺を優しく慰めてくれるよな?
剛士は、そんな期待をしていた。
しかし、それは裏切られた。
「触んないでよ。この犯罪者」
千重里は冷たくそう言い放ち、剛士の手を振り払った。
アスファルトに尻餅をついた剛士は、呆然と千重里の顔を見上げた。
虫を見るような目で自分を見下ろしていた。
「あー最悪。あんなクソ女一人満足にいたぶれないなんて、あんたいつからそんな能無しになってたわけ? マジ使えないんだけど」
こんな千重里、自分は知らない。
剛士の中の千重里は、いつも花のような笑みを浮かべ、猫みたいな愛らしさで懐いてくる女の子だった。
だが今目の前には、自分の知らない千重里がいる。
「え、あ……な、なに、言って……?」
言葉が上手く出ない。
困惑している剛士に対し、千重里は容赦なく毒を吐き捨てた。
「もうあんたとは絶交よ。もう二度とわたしの前に現れないで」
「な、なんで……そんな……」
「あんたが使えない奴だからに決まってるでしょ? 一緒にいて便利だったから今まで仲良くしてあげてたけど、もうその必要はなくなったみたいね。だから、もうあんたとは縁を切る。宗方にはわたし一人で地獄を見せる。……それでもって、公平も奪い返すのっ」
最後の部分だけ、楽しげに弾んだ口調だった。
絶望を突きつけられた剛士は、かすれきった声で訊いた。
「公平、って、誰だよ……?」
「わたしの王子様。あんたなんかより強くて、イケメンで、背も高くて、もうとにかくカッコいい男の子なの。いつか絶対公平と一緒になって、子供もいっぱい作って、あったかい家庭を築くの!」
とても嬉しそうに、活き活きと「公平」のことを話す千重里。
千重里が楽しそうに笑っているのに、剛士はどこまでも心が苦痛だった。
剛士は、とうとう確信した。
自分は、とんだピエロだったのだ。
自分からの好意を、千重里はずっと昔から知っていた。知っていて、その好意を上手いこと利用していたのだ。
最愛の幼馴染の愛情は、自分ではなく、てんで別の方向を向いていたのだ。
そうとは知らず、自分は彼女の涙一つでホイホイ動かされ、本命の男との仲を取り持とうとしていたのだ。
そんな自分は、まさしく道化と呼ぶにふさわしい。
なんで……なんでだよ…………俺は、俺はずっとお前を思って……お前のために、お前のためだけに頑張って…………!
身を震わせるほどの失望、悲しみ、怒りが、剛士の手を自然とズボンのポケットへといざなっていく。
その手がバタフライナイフを掴み出し、慣れた手つきで刃を剥き出しにした。
「あ…………ああああああああああああああああああああああ!!」
耳をつんざくような金切り声を上げて、剛士は千重里目掛けて突進した。
「ちょっ……!?」
千重里は身構えるが、遅かった。
剛士は最愛の幼馴染にぶつかった——ナイフの刃を先にして。
「あ……」
腹部に、バタフライナイフが突き刺さった。
入った深さは半分ほどだが、それでも千重里の服をじんわりと血で濡らしていく。
「は、は、はは、は、ははは、ははははははは」
その様子を見た剛士は後悔の念に駆られるが、もはや遅い。
「はははははははははははははははははははははははははははは」
もう笑うしかない。剛士はケタケタと、狂ったように笑った。
「ひぃっ——」
豹変した幼馴染に、千重里は恐怖の表情を浮かべた。
逃げたかったが、ナイフで刺された傷の痛みが響き、動くのも辛い。
やがて、失血によって意識を失った。
「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
幼馴染が血まみれで倒れてもなお、剛士は狂気に満ちた笑声を止めなかった。




