アニオタ、動かずして相手を恐怖させる
「嫌われたものだな。まぁ……いずれにせよ殺すが!」
再び魯が勢いよく詰め寄ったきた。陸を滑る船を思わせる、頭の高さを変えない推進。
震脚した足をねじり、床から跳ね返った螺旋の重みを込めた魯の正拳。八極において『衝捶』と呼ばれている突き方だ。
常春は避けながら背後へ回り、正拳で打ちかかる。
しかし魯は身をひねりながら軽くジャンプし、体の位置を移動させて常春の拳から逃れる。同時に、着地と同時に拳をハンマーのように頭部へ叩き込もうとした。
常春はそれを横へ動いて躱しつつ、魯の懐へ迫ろうとする。しかしそれよりも速く、魯が足裏で踏んづけるような蹴りで常春を押し飛ばした。中国武術において蹬脚と呼ばれている蹴りだ。
ガードが間に合ったが、それでも蹴られた勢いで転がされる常春。
すぐに受け身を取るが、体勢を整えた時には、すでに魯が間合い深くまで肉薄していた。
震脚と同時に、体を前後へ延べ広げるように開く。爆発的な勁が体の中心から前後へ爆ぜ、その勢いに乗せて肘をまっすぐ走らせる。『頂心肘』と呼ばれる、八極拳の看板技。
槍のごとき肘打ちが肉体に突き刺さる一瞬前、常春はその肘の横へ、自分の前腕をねじりながら押し付けた。次の一瞬で、その肘打ちは常春から狙いをズラし、魯は常春の体と摩擦しながら横切った。
受け流したのだ。腕の螺旋で、肘打ちに込められた直線的な力の方向をわずかにズラしたのだ。
相手の力を受け流す技術に長けた拳法では太極拳が有名だが、蟷螂拳にもそうした「受け流す技術」は備わっている。『挨』という技術だ。腕の小さな螺旋と肌の弾力を効率良く使い、強大な力を受け流して無効化する。
一時は凌いだが、それだけでは終わらないのが本物の武術というもの。魯は背中を見せたまま退歩し、その足にひねりを加えながら重心を叩きつけるように移した。それに合わせて、右肘が迫る。
常春は軽く立ち位置を横へズラし、右肘から逃れる。
しかし、その肘打ちは囮だった。曲げられた魯の右肘が突如伸ばされ、右手に胸ぐらを掴まれた瞬間、常春はそれに気がついた。
マズイと思った時には遅かった。魯は常春の胸ぐらを掴んだまま、迅速に胴体を向かい合わせ、詰め寄る。
次の瞬間、常春へ右手を添えたまま、ねじりを交えた震脚で踏み込んだ。
「う————」
体重を前後へ展開させる勢いをゼロ距離から一気に浴びせられ、常春は一瞬、全身の血管が膨らんだような感覚を味わった。
八極拳の『打開』。相手に掌を添えた状態から一気に勁を爆発展開させ、その衝撃を相手の内部へ浸透させる強力な技。
常春の体がもんどりを打ちながら弾かれた。
これまで通り受け身を取るが、立ち上がろうとした瞬間、体の内側がズキリと痛み膝を付いてしまう。
直撃の瞬間に呼吸法で衝撃は和らげたが、それでもノーダメージではすまなかった。今、自分の体内は確実に損傷し、気の流れは悪くなっていることだろう。
しかし、常春もまた、転んでタダで起きる気はなかった。
「うっ……!?」
魯が表情を歪め、ブランと力なく垂らされた右腕を押さえた。
『打開』が打ち込まれるのと同時に、魯の二の腕の経穴を刺激して気の流れをカットしたのだ。『截脈』という蟷螂拳の技術の一つだ。……しばらくの間、あの右腕を動かすことはできないだろう。
内側にモヤモヤした不快感を残しながらも、常春は立ち上がり、戦闘継続の意思を見せる。
魯も同様に、左足を前にした半身の姿勢をとる。油断をしていない証拠だ。
浅からぬ手負いである以上、勝負を長引かせることは自殺行為だ。国同士の戦争も、個人同士の決闘も、長期戦はなるべく避けるのがセオリー。
二人とも、それをよく理解していた。
だからこそ、次の一手で決める決心をした。
魯は呼吸を整える。丹田に意識を集中させ、そこへ気を寄せ集める。さらに集めた気を、丹田で爆発させる準備を整える。
八極拳は体術だけでも殺人的な威力を有するが、そこへ気の運用を加えることによって、まさしく「必殺」と呼べる威力を発揮して相手の体を破壊し尽くす。
今の魯は、人間の形をしたニトロの塊だった。
威力だけではない。八極拳には、それを確実に相手へ当てる技術も含まれている。
この一撃、必ず当てる。魯にはその自信がある。
腕は満足に使えないが、体当たりがある。靠と呼ばれる技だ。
眉間から照準するような意識で、向かい側で静かにたたずむ常春を見据える。
腹から背中へ、風が通った感じがした。
——は?
その奇妙な感覚に魯は頭が真っ白になるが、すぐに自我をしっかり捕まえ、確認のために腹へ触れようとした。
しかし、触れられない。
手が腹の内側へ進んでも、なお触れた感触がしなかった。
その気味の悪い感じに、凪のように落ち着いていた精神に一気に波風が押し寄せる。……丹田に集中させた気が、無自覚に散る。
魯は恐る恐る、自分の腹を見た。
——腹から、後ろにいる寅吉の顔が覗けた。
「う…………うあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
叫ぶ。
穴が空いていた。
いつに間にか、巨大な杭に貫かれた跡のような大穴が、魯の腹に穿たれていた。
「あああああああああああああぁぁぁぁぁ!!!」
魯はあっという間に、半狂乱におちいった。
女が乳房を見られまいとするかのように、うずくまって腹を押さえる。しかし、背中と腹の間を涼しさが行き来するのを嫌でも感じた。
何で? いつ打たれた? 速すぎる。まったく知覚出来なかった。いや、そもそもこれは打撃によるものなのか? 奴の手元には何もない。素手? どうやってこんなデカい穴が空く? こんな技が蟷螂拳にあったのか? 聞いたことがない——
あらゆる疑問が、思考の中で無秩序に渦を巻く。
「……え?」
だがそこへ、次なる不可思議が生じた。
腹の穴が、塞がっている。
腹の肉どころか、穴が空いていた部位の服も、何事もなかったかのように元どおりだった。
その現象に、魯は不気味さを感じるよりも、喜びを感じた。
さっきのは現実じゃない、幻だったんだ。
俺はまだ死んでいない。死ん——
「——がっっ!?」
衝撃。
奇跡への喜びに冷や水を浴びせるかのように、側頭部へ圧力がぶち当てられた。
蹴り足を振り抜いた体勢の常春を近くで見た時、魯は薄れゆく意識の中で全てを察した。
先ほど見たのは……常春の気が見せた「恐怖のイメージ」だったのだ。
信じがたい話かもしれないが、気功の鍛錬長年正しく行うと、気の力だけで敵の心身にダメージを与えられるようになるのだ。
無論「気だけで倒せる」と称する者の大半がインチキだが、それでも「本物」は確かに存在する。
常春も、そんな「本物」だったのだ。
例えば、相手が自分へ向けて銃を撃ってこようとしたら、自分は否が応でも自分が撃ち殺される「恐怖」を抱くだろう。
それはつまり、相手の「行動」から、自分の「恐怖」が生まれるということだ。
……常春は、そこから「行動」を省き、「恐怖」だけを叩きつけたのだ。
常春は魯の腹へ殺意を込めて気を発し、「恐怖のイメージ」を魯に見せつけたのだ。
そのイメージにまんまと呑まれてしまった魯は、全身の意識……すなわち気を、腹へ全て持ってきてしまったのだ。
その結果、腹以外の部位の気が薄まった。
常春は、その「薄まった部分」を狙ったのだ。
気の薄くなった部位を打つと、たとえ弱い衝撃でも決定打になり得る。下手をすればショック死することもある。
——この小僧、とんでもなく強い。
それを改めて実感しながら、魯は意識を手放したのだった。




