アニオタ、同族嫌悪する
その青年……魯は返事をしなかった。かわりに常春と向かい合うことで、無言実行する姿勢を見せた。
「俺は魯銀星という。お前は?」
魯の問いに対し、常春も中国語で名乗った。
すると、興味深そうな態度でまた質問してきた。
「先ほどの技、蟷螂拳だな。しかも、かなりの功夫だ」
「それはどうも。褒めても手加減しないけど」
「いいさ、純粋な感動ゆえの称賛だ。おまけに蟷螂拳自体の質も良い。大陸の武術のほとんどは、文革の影響で無害に改悪され、去勢された猫のようなフヌケのありさまとなっている。だがお前の蟷螂拳は違う。動きの終始に確かな武術性があり、隙が無い。いい師についたようだ」
言うと、魯は悠然と片足を引いて、半身の立ち方をした。
常春も同じように半身になり、無言の迫力を見せる魯をまっすぐ見る。
実戦において、構えというのはほとんど役に立たない。むしろ、自分の次に出す手を前もって知らせてしまうテレフォンパンチになりがちで、不利を招いてしまう。
それを知っている二人は、金的を守る半身の立ち方をするだけで、手は構えない。
構え手でいちいち防御する暇があるなら、避けて打ち返す方が何倍も有益である。二人はそれを知っている。
緊迫した空気が場を支配する。
まるで、常春と魯の間に空気が集まり圧縮されているような感じを、周囲の人間は受けていた。
やがて、その圧縮された空気が爆ぜるような錯覚を全員が覚えるのと同時に、二人の攻防が始まった。
先に出たのは常春。八歩で歩く距離を一瞬で縮める高速移動の歩法『八歩趕蝉歩』を用い、まさしく空を光速で駆ける稲妻のように魯へ押し迫った。
踏み込んで拳を放つ。
だが、正拳が空気を打つ感触。
同時に、左斜め前から、塊が猛烈な勢いで迫る感じがした。——魯の拳だ。回避と攻撃を同時に実行している。
常春は一気にしゃがみ込んでその拳の下をくぐりながら、コンパスで円を描くようにして魯の足元を蹴り払おうと試みる。掃腿という、伏せながら相手の足を払う蹴りだ。
常春の掃腿を、魯は当たる寸前で跳ねて避ける。
さらに常春の蹴り足が真下へ来た途端、引っ込めていた両脚を真下へ伸ばそうとした。蹴り足を踏んで折る気だ。
常春は軸足で床を踏み切り、その勢いで蹴り足へ重心を移した。さらにその体重移動を体当たりに転化し、魯にぶち当たった。
壁を跳ね返ったゴムボールよろしく、魯の体が弾かれた。しかし空中で体勢を整えていたため、倒れることなく足から床に着地できた。
再び、拳法家二人の間に大きな空間が空く。
「な、何だよ今の……」
「とんでもなく速ぇ……普通じゃねぇよ」
「全然見えなかったぞ……」
五秒にも満たないわずかな時間の間に行われた怒涛の攻防に、周囲のヤクザ者たちは舌を巻いていた。
だがそんな驚愕という形の称賛を意にも介さず、魯は常春へ言った。
「やるな。今の箭疾歩、並の奴なら鼻っ面を折られて倒れていた。軽身功の鍛錬をかなり積んでいると見た」
「そういう君も、随分と鋭い感覚を持っているじゃないか。あの一瞬であれほど緻密な反撃、並の胆力なら冷静にはできない」
「光栄だ。そして幸運だ。凋落の一途を辿る武術の世界で、まさかお前みたいな傑物と会えるとはな。……だからこそ、惜しくてたまらない。こんな形で出会ってしまったことが」
魯の挙動は変わらない。だけど分かる。これから激しく攻め立ててくるという「気」を感じる。肌に穴が空きそうだ。
「ネイサンをあしらったようだが、奴は十数年のブランクで鈍った空挺崩れ。強くなるため、生き残るために日々鍛錬を重ねる俺は、ネイサンのように甘くはないぞ」
魯が勢いよく迫った。
まるで、陸地を滑る船のような、頭の高さを変えない動き。
「フンッ!!」
強烈な震脚と爆発呼吸を伴い、正拳が猛然と放たれた。
かろうじて回避が間に合った常春は、その後頭部めがけて右腕を薙ぎ払った。
しかし、魯の頭の位置が急沈下。そのまま右腕の真下をくぐる形で常春の間合いに潜り込み、腰を持ち上げると同時に掌底。
常春は掌底を横から左手でさばく。さらに迅速に体の位置もずらす。一瞬後に、常春がいた位置を、震脚を伴った魯の掌打が埋めた。
魯はその掌打から、ほとんど間を作ることなく次の一手に移行した。体の向きを瞬時に変え、床を後足で蹴って瞬発力をきかせる。両掌を先にして、虎が飛びかかるがごとく猛然と身を寄せてきた。
常春は、魯を横切る形でその双掌『虎撲』を回避した。魯の背後を取る。
だが魯の動きはまたも迅速だった。片足を勢いよく退き、そこへ捻りを加えながら爆発的に体重を移動させる。螺旋の形を取った全体重を肘に込め、常春へ叩き込んだ。
「ぐっ……!」
重い! 両手で肘を柔らかく受け止め、なおかつ後ろへ飛んで衝撃を和らげても、なおも鋭い勢いが体に突き刺さるようだった。
威力を消しきれず、常春は大きく押し流され、高そうな石膏像に軽く背中をぶつけた。
「なるほど……確かに言うだけのことはあるね。その「八極拳」は」
常春のその指摘を、魯は無反応で受け取った。沈黙は是なり。
見間違えようもない。魯が使う武術は言わずと知れた河北の名拳、八極拳だ。
至近距離での戦闘と、相手を容易に打ち殺せるほどの強大な打撃を主な特技とする、超攻撃型の拳法。
建物全体を揺るがしかねないほどの震脚、捻りをともなった踏み込み……これらの歩法は、すべて相手を打ち殺すための威力を生み出すためのものだ。
八極拳使いにも多く会ってきたが、この魯という青年は、今まで見た八極拳使いの中でトップクラスの実力を持っていた。
だが、だからこそ、解せない。
「これほど素晴らしい腕を持っているのに、なんでヤクザ者の用心棒なんてやってる?」
「今のご時世、武術の腕で食えんのはお前も知っているだろう。食えるとしたら、それは後ろ暗い仕事だけだ」
魯は、自虐するように言った。
「中国じゃ、食えん奴はとことん食えんのが現実だ。俺の家は、その「食えん奴」の最たるものだった。夢見がちな糞親父は借金してまで事業で成り上がろうとしたが、結局ポシャって、家にもたらされたのは借金と家庭内暴力だ。お袋はそれで気を狂わせた果てに焼身自殺。さらに、糞親父は残された俺を売って借金を返そうとしやがった。だから俺は逃げた。逃げて浮浪に身となってその日暮らしを続けている時、俺は武術と出会った。武術の練習を道場の窓から覗き、それを見て俺は八極拳を身につけた」
……天才。
常春の脳裏をよぎった単語は、それだった。
よく「武術の修行を他に見せるな。技を盗まれる」とは言うが、「見て盗む」という行為は言うほど簡単ではない。ただの見よう見まねでは、武術は真の力を発揮しない。深く盗むには、武術の「根本」を理解する眼力が必要だ。
魯の使う八極拳からは、とても見よう見まねだけでは身につかない「深さ」を感じる。
これが「見て盗む」だけで得た実力だとするならば、この男は相当な天才だということになる。自分を超えるほどの。
魯は大仰に両手を広げ、その愛想のなかった顔に微笑を浮かべた。
「素晴らしいぞ、この八極拳は。どうやったら人を打ち殺せるのか、どうやったら人に当てられるのかが、面白いほどによく分かる。俺はこいつを使って、裏の世界で確かな「生き方」を確立できた。八極拳が、俺に生きる道を与えてくれたんだよ」
その言葉を聞いて……常春は強い共感性を感じた。
この男は、生き方こそ自分とは真逆。
だが——武術によって生きる道を切り開いたという点では、まったく同じだった。
ただ、その道の先が「光」か「闇」か、その違いがあるだけだ。
「お前も、俺と似たような暮らしをしてきたんだろう? 目を見れば分かる。その冷たい光をくすぶらせた闇のような目……数多くの「死」を見てきた者の目だ。でなければ、ヤクザ者の根城を単身で荒らしまわるという暴挙の説明がつかない。俺とお前は同類だ」
だが、それでも。
常春と魯には、ごまかしようの無い、決定的な「違い」があった。
「……小夜子さんをあんな目に合わせたのはお前だな、魯銀星?」
「よく分かったな。この組長に「死なない程度にいじめてやれ」と頼まれた。武術家だから、素人よりも力の加減は上手かったのでな。なぜ分かった?」
「さっきお前が跳んだ時に見えた靴裏と、宗方家に付いていた足跡の模様がまったく一緒だ」
「……いい眼力だ。やはりお前も、コッチ側の方が舞台映えするんじゃないか?」
「黙れ」
たった一言に、静かな重みと殺気を込めて言い放った。
「僕なら、絶対にそんな事はしない。何も悪くない人を、ましてや老人をいたぶるなんて真似、するものか。……だから、僕とお前は違う。一緒にされたら不愉快だ」
常春は、本気を出せば完全犯罪すら可能な力を持ちつつも、それを手前勝手に振り回さず、「日常」を守るために使ってきた。
しかしこの魯銀星はどうだろうか。「日常」を守れるだけの力で、自分からさらなる「非日常」を生み出している。
この男とは生い立ちこそ似た部分はあるが、決して分かり合えない不倶戴天の敵だ。




