アニオタ、再会す
二年B組所属の女子、宗方頼子は、体育館で思案していた。
鋭く整った美貌。ややブラウンがかった長い黒髪。全体的に細めだが、胸部は形よく大きく突き出した肢体。高校生離れしたそれらの外見的特徴は、否応なしに男子の気を引いた。
裏では、「潮騒高校三大美女」の一人にも数えられている。
「なぁ頼子ちゃん、今の俺のダンク見ててくれたぁ?」
槙村公平が一見爽やかなスマイルをまじえ、頼子に近づいてきた。
頼子はそんな槙村の顔を見るともなく見ながら、
「ああ、うん。見てなかった」
「あちゃー、そりゃ残念だ。じゃあさ、放課後一緒にどっか出かけね? 俺、楽しい場所知ってんだ」
どういう文脈だ、と内心で思いつつ、頼子は言った。
「ああ、うん、ごめん。遠慮しとく」
「えー? じゃあ、明日はどう? なんだったら明後日は?」
「当分予定あるから」
必死な槙村に対し、頼子の対応はひたすら塩だった。
ここ最近、この男はちょくちょく頼子を誘ってくる。
これまでも頼子に粉をかけてくる男子は結構いたが、槙村が口説きはじめてからはめっきり減った。
それは、槙村に男として負けているからではない。槙村の腕っぷしが怖いからだ。槙村はフルコンタクト空手をやっているらしく、喧嘩は強かった。
槙村は熱心に口説いているが、頼子はそんな槙村が鬱陶しかった。なんか態度が軽薄に感じるし、ときどき大きな胸に視線を感じるからだ。女遊びが激しいという話も手伝って、頼子は槙村を避けていた。
それからも槙村がしつこく絡んでくるので、とうとう頼子は体育館から去った。
一階へ行こう。そこなら今の時間誰もいないので、一人になれる。
歩きながら、頼子は中断していた思案を再開した。
——思い浮かべるのは、昨日の夕方のこと。
頼子は帰り途中、大の男四人にナンパされた。
何度断っても槙村のように絡んできて、とうとう抱きつかれるというセクハラまでされた。
頼子は大人びた外見のせいで経験豊富に見られがちだが、まだ男と付き合ったことも、手を繋いだことさえない。なので抱きつかれたとき、不快感より恐怖心の方が強かった。
そこへ現れたのが、あの男子だった。
「特徴がないのが特徴」という言葉がふさわしいほど、普通の容姿をした少年だった。
潮騒高校の制服をまとうその体は細く、背丈も男子の平均より低め。
とても、戦えるタイプには見えなかった。
それなのに、自分を助けるために、飛び出してくれたのだ。
(やったことだけ見れば、ウチ、最低だよね……)
その時のことを思い出すたびに、自己嫌悪してしまう。
男子に注意がいっている間に、頼子はその場から走り去った。
だが、あれは逃げたわけではなかった。
頼子は、その高架線の近くに交番があるのを知っていた。駐在さんに助けを求めるために走ったのだ。あの場で頼子にできることは、それしかなかったから。
だが、駐在さんを連れて戻ってきた時には、すでに全てが終わった後だった。
倒れていたのだ。——ナンパ男四人が。
男たちは唸り声をあげながら苦悶していた。
駐在さんが尋ねると、男たちは「あの野郎」という言葉をしきりに口にした。
「あの野郎」が誰を指す言葉なのかは分からない。
というか、それはどうでもいい。
頼子にとって一番の問題は、どういう形であれ、あの男子を放置して逃げてしまったということだ。
ネクタイの色が緑色だったので、自分と同じ二年生であることは確かだ。
「……お昼食べたら、教室を回って探してみよう」
せめて一言、謝りたい。
恨み言を吐かれても、甘んじて受けよう。
そう決意しながら、一階への階段を降りる。
だが、誰もいないと思われていた一階の広間に、人の足音がした。
階段を降りきり、曲がり角からその人物を見た。
ジャージを着た男子生徒が、一人ポツンと立っていた。
「えっ……」
頼子は我が目を疑った。
その男子は、昨日自分を助けようとしてくれた男子だったからだ。
探す手間が省けたと思い飛び出そうとした瞬間、その男子が突然動き出した。
形容し難い妙な動きを見せ始めた。
それは、一見、妙チクリンな踊りのように見えた。
だが、その随所に見られる正拳、肘打ち、蹴り、掌底といった動きから、それが何らかの武道の型であると確信できた。
「……すごい」
頼子は思わず声を漏らした。
稲妻が行き交うような速度の手さばき。
猿のように軽快でありながらも、ピラミッドの底辺を連想させるほどの安定感を持った足さばき。
学校の空手部の試合を見たことがあるが、その動きとは何か異質なモノを感じさせた。
不思議な動きばかりだった。
しかし、どこか美しい。
頼子は自分の足が、自然と前へ進んでいることに気づかなかった。
蟷螂拳という拳法がある。
中国山東省を起源とする武術の一派。
清朝初期、少林寺で修行を積んだ王郎という人物が、蟷螂の素早い前脚の動きと、猿の軽快なフットワークを拳法に取り入れて創始したと言われている。
——常春は、幼い頃からこの蟷螂拳を修行している。
幼少期、常春は酷い虚弱体質だった。
常に病気がちで、同い年の子供たちと同じように走ったりできず、いつも家のベッドでばかり過ごしていた。
それを哀れに思い、手を差し伸べてくれたのが、師だった。
師は、幼い常春に、気功法と武術の基礎を教え込んだ。
それによって、常春は徐々に体質を改善していき、やがて同い年の子供以上に動ける体となった。
さらに、師は常春が持つ類い稀な武芸の才能を見抜き、常春に「本格的に武術を学んでみないか」と勧めた。
自分の体を元気にしてくれた武術と師に深い感謝を抱いていた常春は、その提案に迷わず頷いた。
以来、常春は師から武術の英才教育を施された。
その修行は、以前に比べると遥かに過酷なものだった。だが常春はそれを辛いと思ったことは一度もなく、メキメキと才能を開花させていった。
やがて、十四という若さで、師に匹敵するほどの腕前を身につけた。
師が急性心不全で突然この世を去ったのは、その年だった。享年107歳だった。
あまりにも突然な別れだったが、常春はそれを悲しいとは思わなかった。確かに師は死んだが、その思想や武術は、常春の体の芯まで深く刻み込まれている。自分の中には、確かに師の痕跡があるのだ。
常春は、蟷螂拳を練るたびに、師の顔を思い出す。
強くなるためというより、師を思い出すためという方が大きかった。
さらに不思議なことに、強さへの執着を捨てて修行した方が、上達が早まるのだ。
常春が今練っている套路——空手で言う「型」にあたる修行——は、「小番車」という蟷螂拳の基本である。腕を風車のごとく振り回す動作が多く、縦回転と横回転が上手く組み込まれており、蟷螂拳の力の出し方や身体操作を覚えるのに適している。
蟷螂双蓄式、登山左崩捶、進歩右劈捶、登山右翻車、番車點捶式、騎馬冲捶式、偸手右劈軋、挑抱軋捶式……何万回と体に通してきた技の羅列を、まるで食事をするような感覚でこなしていく。
蟷螂拳という拳法を「身につけている」のではない。
全身が、蟷螂拳という拳法そのものになった感覚。
考えた途端に、技が出る。
口で食べ、耳で聴き、目で見て、鼻で吸うのと同じように、身体機能の一部と呼べるレベルにまで練り上げられた境地。
——人間の気配。
己の領域に入ってきた謎の気配を知覚すると同時に、常春の五体が自動的に適切な技を刻んだ。
全身の回転させての裏拳を、振り向きざまに放つ。
だが、その気配の持ち主が体操服を着た女子生徒であると視認した瞬間、常春は我が身に「やめろ」と命じた。
裏拳が、その女子の頬と薄皮一枚の距離でピタリと停止。
「きゃっ!?」
その女子は数秒遅れで常春の拳に気が付くと、ビクッと震えて尻餅をついた。
「あれっ? 君は……」
常春はその女子の顔に見覚えがあった。
昨日、男四人にからまれていた女の子だったのだ。
「あっ……!」
その女の子——頼子もまた、常春の顔を見て目を見開いた。
しばしの沈黙。
が、やがて頼子がお尻をはたきながら立ち上がり、深く頭を下げてきた。
「ごめんっ! 昨日逃げちゃって。最悪だよね、ウチ」
その謝罪は何に対してなのか常春はしばらく考え、答えが浮かんだら苦笑しながら手を振る。
「いや、いいんだよ。むしろ、女の子ならあれが普通だ。気に病むことはないよ。僕は気にしてないから」
「あ、ありがと……。一応言い訳すると、あれは逃げたんじゃなくて、お巡りさん呼びに行ってたんだ」
「そっか」
常春がうなずくと、頼子は自己紹介した。
「あの、ウチ、宗方頼子。名前教えて?」
「伊勢志摩常春だよ。よろしくね、宗方さん」
「よろしく。伊勢志摩」
頼子が微笑を見せる。
一見キツめの美人だが、笑った顔はどこか可愛らしい。常春はそう思った。