アニオタ、暗闇でアメリカ人と殴り合う
電話してしばし経った後、救急車がやってきた。
担架に乗せられた小夜子とともに、常春と頼子も救急車に乗った。
病院に運ばれ、検査を受けさせた後、医師が結果を告げた。
「ところどころに打ち身の跡が目立ちますが、命に別状はなく、後遺症も残らないでしょう。ですが、肋骨にヒビが入っているので、しばらくは絶対安静です」
それを聞いた頼子は、半分ほど緊張を解いた。
死ぬことはない。それだけでかなり救われた気がしたからだ。
しかし、それでも、大切な肉親が何の前触れもなく怪我を負ったという出来事は、頼子の心に少なからぬダメージを与えた。
頼子は病室のベッドで眠る小夜子を見つめながら、隣に座る常春にしがみついていた。普段なら恥ずかしくてやらないことだが、今は気持ちに余裕がなかった。
常春が立ち上がろうとしても、頼子はまるでぶら下がったように体重を預けていた。
なので、
「今夜は、一緒に居てあげようか?」
そう言った。
小夜子は、明らかに誰かから殴る蹴るの暴行を受けたのだ。頼子を一人にしたら、それをやった奴がまた現れるかもしれない。それだけは避けたかった。
「うん……」
そんな常春の気持ちを知ってか知らずか、頼子は小さく頷いた。
場所は、常春が住むマンション。
一軒家と違って、マンションなら騒ぎが起きても他の部屋の住人が感づく。暴漢もおいそれと手が出せないはずだ。
「伊勢志摩の親御さん、迷惑がったりしないかな」
常春の部屋がある階に着いた途端、頼子がそう問うた。泣き腫らした跡が残ってこそいるが、今はとりあえず落ち着いているみたいだった。
そんな頼子の問いに対し、常春は「しまった」と自分の失態を確信した。
「ごめん宗方さん、言い忘れた。実は僕んち、基本的に親いないんだ」
「へ?」
「お父さんは基本海外だし、母親はとっくの昔に蒸発してるし……ホントにごめん。言っておくべきだったよ」
常春の言葉の意図するところを察した頼子は、その顔をみるみる紅潮させていく。
「帰る」と言われると思っていたが、返ってきた答えは予想とは違っていた。
「……ウチは、気にしないよ」
「いや気にしなよ。女の子でしょ?」
「いいのっ! あ……あんたが何かいやらしいことしてくるとは思えないし」
……まあ、信頼してくれているようなので良しとしよう。
「……わかった。それじゃ、寝室は僕の部屋を使ってよ。内側から鍵をかけられるから。僕はお父さんの部屋で寝る」
「ありがと……」
常春の部屋のドアにたどり着く。
鍵を開け、ドアを開いた途端、頭上からハラリと一枚の紙テープが落ちてきた。十円玉程度の長さしかない本当に小さなその紙テープを、常春は掴み取った。
これは空き巣が入ったかどうかを確認するための仕掛けだ。もしテープが落ちていれば、自分のいない間に誰かがこのドアを開けたという事になる。父がいない間、常春はこのテープをドアに挟んで外出している。
だが、これが通じない相手もいる。
とても用心深い泥棒。
もしくは——特殊な訓練を積んだ「プロ」。
靴を脱いで上がった瞬間、脱衣所の闇からチクリと殺気を感じた常春は、一瞬後に高速で迫ってきた尖った物質をギリギリで回避。
流れそのままに、足裏蹴りを人影に叩き込んだ。
うめき。壁にぶつかる音。
「Damn……!」
人影が小さく毒づいた。
夜行術を心得ている常春は、闇にまぎれたその人影の全体像をすでにはっきり視認していた。
フード付きの黒いウェアが作り出す体の輪郭は全体的に太め。しかし肥満体型ではない。まんべんなく鍛えられた肉体。……軍人によく居る筋肉のつき方だった。
かぶさったフードの下にあるのは、アングロサクソン系の精悍で彫りの深い顔立ち。そのブルーの眼差しが冷たく光り、深淵からのぞき見てくる怪物の瞳のように常春をうかがっている。
常春は直感した。直感だが、それは確信と同義だった。
この男は「プロ」だ。
数多くの修羅場をくぐり、童貞も捨てている。
なぜそんな存在が、自分の家に潜伏し、自分を本気で殺しにかかってきたのかは分からない。
しかし、今が戦わなければいけないタイミングだということだけは分かる。
その証拠に、常春の思考を待たずに男が向かってきた。
コンバットナイフが矢の如く暗闇を滑る。
首を狙ったその一閃を常春は小さく動いて回避しつつ、その腕を取ろうとするが、その前に迅速に手元へ引っ込められ、再び刃を走らせる。常春はまたもそれを回避。
繰り返されるナイフと回避の応酬。
常春は何度目かの刺突を避けて素通りしながら男の懐へ入り、深い踏み込みに合わせて掌底を打った。常春よりはるかに大きな体躯が派手に吹っ飛び、リビングを転がる。
束の間だが、別のことをする余裕ができた。
「宗方さん、今すぐ一階の1号室に逃げて!! 管理人さんの部屋で、僕とも面識がある!! 言えばかくまってくれるはずだ!! その後は警察に連絡して!!」
常春がそうまくしたてる。
立て続けに異常事態にみまわれて頼子は混乱していたが、それでも常春の言葉にコクコクと頷き、玄関を出て行った。
さらに常春は素早く玄関へ近寄り、施錠する。はさみ撃ちをくらわないよう、念のためだ。
これで、この部屋は自分と謎の男の二人だけとなった。
常春は脱衣所へ入り、ハンドタオルを取り出し、それを水道の水で濡らして重くした。
脱衣所を出て、リビングへと入る。
ぐちゃぐちゃに荒れたその広間には、男が幽鬼のごとくたたずんでいた。
わざわざ待っていてくれたのは、広い場所で戦う方が都合が良いからだろう。狭い一本道では、どうしても使える技の種類は限られる。
だが、それは常春にとっても同じだった。
薄いカーテンから差し込む月光が、部屋をほんのり照らしている。それが唯一の光源だったが、二人にとっては十分な明るさだった。
二人は向かい合う。
しばし無言で、互いを見つめ合う。
見ているのは「動き」ではない。「気配」だ。
命のかかった戦いは、人を進化させる。それを経験している二人には、相手の動きを司る「気配」の感知ができた。
相手の「気」が、攻撃の「意」を得る瞬間をひたすらに待つ。
待つだけではない。ワザと自分から付け入る隙を作り、攻撃を誘発させ合ったりもする。
だが、どれほど自分を律したところで、人の「気」には、必ずいつか「ゆるみ」が生まれる。達人と呼ばれる者たちは、その「ゆるみ」を突くのが非常に上手いのだ。
やがて、最初に動き出したのは、男の方であった。
一気に押し迫る男。ナイフを一閃。常春の胴体を狙う。
常春は避けつつ、横を風のように素通り。背後を取り、濡れタオルを鞭のように放った。
背中にそれを受けた男は苦痛のうめきをもらす。水を吸って重くなったタオルは強力な武器になる。その気になれば、タオルの一撃で骨折させることもできる。
常春の間合いへ近づき、タオルを奪い取ろうとする男。しかし常春は綿が飛ぶような身軽さでさらに距離を取り、間合いへの侵入を拒む。
だが、ここは広間といっても、そんなに縦横無尽に動けるほどの面積はなかった。すぐに常春の背中が壁に突く。
男はナイフを素早くホルスターに納めると、近くにあったテーブルの脚を両手で持ち上げ、テーブルの面を先にして一気に突進してきた。
後ろは壁。横に移動する時間もあるか怪しい。
なので、常春は壁を駆け登った。テーブルの面積より高い位置まで。
テーブルが壁に激突した瞬間、常春は壁を蹴る。宙返りしながら、男の背後へ着地する。
その猿のような身軽さに驚愕しつつも、男はホルスターからナイフを取り出す。
だが、そのナイフを握る右手に、タオルによる重々しい鞭打が当てられた。
あまりの衝撃に、男はナイフを取り落とした。
拾う暇はなかった。男は肉弾戦へと移行。レスリングのタックルの要領で常春へ押し迫った。たとえタオルの攻撃を食らっても、それを耐えて、常春を捕まえるつもりだった。
常春も武器に固執するのは愚策と直感し、タオルを男の顔へ投げた。
ベチャ、という音とともに、男の顔面に濡れタオルが張り付いた。視界が奪われるのと同時に、一瞬びっくりする。
その一瞬の間に、常春はしゃがみながら男の脚をスパァン! と払い蹴った。
走行の勢いも相まって、男の巨軀が大きく宙を舞い、うつ伏せに倒れる。
常春はその背中へ素早く膝を乗せ、蝶をピンで留めるようにして身動きを取れなくする。
これが果し合いならば、この位置関係になった時点で勝敗は決していただろう。
だが、常春は殺すつもりは無かった。
この男には、聞きたいことが山ほどあった。
「What’s the hell are you? Why did you intruded into a my room?(お前は何者だ? なぜ僕の家に侵入した?)」
常春が英語で問う。
だが、男はだんまりを決め込む。
「そうか」
常春は男の腕を取り、その手首の関節をあらぬ方向へ曲げようとする。
男は激痛で声を上げた。
ねじ切れる前に、常春は力を入れるのをやめる。
「言わないならそれでいい。あんたの関節が一つずつポンコツになっていくだけだからな。僕にとってはどこまでも他人事だ」
常春は、淡々と続けた。
「僕はあんたとは面識がない。そしてあんたの目や仕草からも、怨恨の意思がまったく見れない。おおかた、「誰か」に頼まれて僕を襲ったんだろう。ならよく考えてみろ。その「誰か」と、あんたが生涯共にするこの関節、あんたにとってはどっちが宝物だ?」
そこで一度、追求を止める。
しばらくすると、男が英語でしゃべり出した。
「……俺は、ネイサン・スミスという」
「その動き、かなり訓練されているな。元々は兵隊か何かか?」
「ああ……米軍に籍を置いていた頃は、第101空挺師団という部隊に所属していた」
「エリートじゃないか。そんな優秀な人材が、なぜ日本で使いっ走りなんかやっている?」
「……十年以上前のことだ。イラクに派遣されている間、本国で妻が雷に打たれて死んだ。そのショックで俺は荒れに荒れ、軍も除隊して彷徨していた頃、日本のヤクザ者に拾われた」
常春は眉根をピクリと動かした。
やはり、裏社会の人間が関わっているようだ。
「その組織の名前は?」
「「岩田組」。規模はそれほど大きくはないが、この辺りでは幅をきかせている組だ」
「もう一つ聞きたい。宗方頼子という名前に聞き覚えはないか?」
「……ある。ウチの組長が、君と、その宗方頼子という少女の身元を調べさせていた。君たちの通うハイスクールに、岩田組系列の金融に多額の借金をしていた教師がいたようでな。その人物に君たちの住所を教えさせたんだ」
「宗方小夜子——宗方頼子の育ての親を痛めつけたのもあんたか、ネイサン・スミス」
「そう殺気立つな。あれをやったのは他の奴だ。俺は君……伊勢志摩常春を始末する役を任された」
かなり謎が解けた。
しかし、核心が見えてこない。
「岩田組はそこまでして、なぜ僕と宗方頼子を狙う?」
「父性愛ゆえさ。ただし、歪んだな」
ネイサンは呆れたように一笑した。
「君たちの損害を一番望んでいるのは、組長の一人息子だ。理由はよく分からんが、その息子は君と宗方頼子に恨みがあるらしい。組長は父親として、その報復を代行したというわけだ。組織という力を使ってな」
「子供のケンカに大人が出てくるのか。確かに歪んでるな」
「違いない。だが、組長の生い立ちを考えれば、仕方がないかもしれん。……彼は親から虐待を受けて育ったそうだ。その後、自分も人の親になったが、組長は自身の親を反面教師にし、息子に過剰なまでの愛情を与えた。だが組長の与えた愛情とやらは、子供に痛い目を見せたモノを力で徹底的に潰すという、モンスターペアレントの所業そのものだった。……そんな「間違った愛情」を受けて育った子供が、家と力を鼻にかけた性格に育つことは想像に難くないだろう」
「そうか」
常春は興味なさげに返事すると、ポケットに入れていた右手を出した。その手に持っているスマホと一緒に。
ボイスメモの録音画面だった。
常春が画面のボタンをタップすると、ここまでの二人の会話が再生された。
「協力感謝するよ。おかげで良い証拠の品が手に入った」
ネイサンはポカンとした表情を浮かべてから、諦めたように微笑した。
「……食えない子供だな、君は。身のこなしといい、格闘技術といい、胆力といい、明らかに普通じゃないぞ。一体何者なんだい?」
「ただのアニオタの高校生だよ」
常春はネイサンの背中から膝を離して立ち上がった。
「さあ、早く自首してくるんだ。罪が軽くなる」
「……良いのか?」
「これが最初で最後の情け。もしまた敵として会ったら、その時は今度こそ容赦はしない。覚えておくことだ」
常春がそう言うと、ネイサンはすっくと立ち上がった。
ネイサンは、抵抗しなかった。
分かるのだ。今ここであのスマホを奪おうとしても、失敗し、今度こそ容赦なしに攻撃されると。前線から外れて久しい自分では、この少年には勝てない。……いや、全盛期であっても勝つ見込みは薄いだろう。
それに、ネイサン自身も、こんな暗い生活に嫌気がさしていた。異国で暴力装置として働き、汚い金で糊口をしのぐこの生活に。
いずれにせよ、今のネイサンに、抗う意志はなかった。
「伊勢志摩常春、君も一緒に来ないか。君もどのみち、そのボイスメモを持って出頭するつもりなんだろう?」
「……いや、あんた一人で行ってほしい。僕にはまだ、やり残したことがある」
ネイサンはその物言いに、思わず振り返る。
そして、恐怖した。
ティーンエイジャーがしてはいけないような、強い険のある眼差し。
そんな常春の頭の中に浮かんでいたのは、ただ一言。
潰す。




