アニオタ、ライバル認定される
「おい、伊勢志摩ぁ。俺とタイマン張れや」
槙村がそう常春に言ったのは、停学明け初日の昼休みだった。
ここは男子トイレ。二人以外誰もいなかった。
「や、やめようよ。また停学になっちゃうよ」
常春はそう言って愛想笑いを浮かべた。
「それでも構わねぇ」
そう断言した槙村の目を見て、常春は息をのんだ。
いつものように、小馬鹿にしたような目ではない。
油断ならざる敵を見据える目だ。
今までの槙村なら、そんな風に常春を見たりはしなかった。
停学期間中、槙村の中で何か変化が起こったのだと確信した。
「お前、その鼻につく演技もうやめろや。俺は知ってんだ、お前の本当の姿を。「魔王軍」の親玉から全部聞いたからな」
「そうなんだ……」
常春は納得する。転助なら、常春の力を知っているはずだろうから。
槙村は睨みを強めた。
「お前が使うナントカ拳っていう拳法、俺にも使ってこいや。もちろん本気でやってもらうぞ」
その眼差しから、遊び半分ではない、ある種の真剣さを感じ取った常春は、表情を引き締めた。
「——本気でやったら死ぬかもしれないよ?」
ぞくっ。
槙村は、体幹が凍ったように固まるのを感じた。背筋が寒くなる。
常春の目には、光がなかった。まるで底の知れない深淵のような瞳が、槙村を真っ直ぐにとらえていた。
目を合わせただけで、ここから逃げ出したい衝動に駆られてくる。
しかし、槙村にもプライドがあった。
固まった表情筋に強引に笑みを作らせ、やや上ずった声で返した。
「やってみろや。お前にできるんならなぁ。このオタ野郎」
そのまま二人は、校舎裏へと足を運んだ。
常春は周りに人がいないことを確認してから、
「先手はそっちに譲るよ」
そう槙村に告げた。
舐めやがって、とは思わなかった。
槙村も分かっていた。
このタイマン、どう逆立ちしたところで、自分の負けになると。
分かった上で、挑んだのだ。
ヤケを起こしたのではない。
自分の中にある「強さ」の既成概念をくつがえすような、別次元の「強さ」をこの目で、この身で知りたいのだ。
それを見せてくれるというのなら、喜んで身を投じる覚悟だった。
槙村は、半身になって構えを取った。何年も練習していた動きは、二年のブランクを経てもなお体に馴染んでいた。
対し、常春は構えを取っていない。
だが、何となく分かった。ひとたび常春の間合いに入れば最後、鎧袖一触。自分は叩きのめされると。
槙村の中に、恐怖とは別の、懐かしい高揚感が生まれた。
試合開始の合図が出る直前の、あの高揚感だ。
——思ってた以上に未練がましい奴だったな、俺は。
結局のところ、槙村は空手を嫌いきれてはいなかったのだ。
確かに、目的こそ曖昧だったのかもしれない。
だけど、もともと空手をするのが好きだったからこそ、続けられていたのだ。
この戦い、もはや勝ち負けなどどうでもいい。
ただ、目の前の相手に一発入れることだけを考えろ。それ以外はゴミだ。結果はその後におのずとついて来る。
「っしゃぉらぁっっ!!!」
気合一喝。
全身を通う血がさらに高揚する。
その昂りを体の芯に凝縮するイメージで、気持ちを整える。
前手の延長線上に、常春の姿をとらえる。
やがて、大地を踏み抜く気でステップを刻み、身を鋭く進めた。それに合わせて、前手を拳にして矢のように突いた。
拳が顔面へ肉薄。
しかし次の瞬間には、常春は顔を小さく横へずらして拳を避けつつ、槙村の顔面へ突きを入れていた。
ひるむ槙村。常春の拳にこもった力と、槙村が突っ込んでくる力とがぶつかり合い、より大きな衝撃となったのだ。
さらに常春は、一瞬のうちに五発の突きを打った。
そこから迅速に身をひねり、振り向きざまに孤の軌道で蹴りを疾らせる。空気を裂くほどの勢いで放たれた常春の踵が、槙村の側頭部をしたたかに打った。擺蓮という、中国武術式の後ろ回し蹴り。
一秒の間で矢継ぎ早に叩き込まれた衝撃の数々は、槙村の意識を闇の中へと沈没させた。
「——はっ!?」
闇が晴れたのは、すぐだった。
意識を失った槙村だが、すぐに常春が蘇生術をほどこして強引に回復させた。転助の時と同じ処置だ。
槙村は仰向けの状態から上半身を起こし、ぼんやりする頭を押さえて唸るように呟いた。
「俺は……負けたのか」
「そうだ。君の負けだ」
常春はそうハッキリ告げた。
対し、槙村は一切態度を荒げたりせず、ただ静かにそれを聞いた。
「……そうか」
言うと、立ち上がり、常春の方を向いた。
真剣でいて、どこか憑き物が落ちたように晴れやかな表情だった。
カースト最上位のイヤミなイケメン男子、「槙村不公平くん」の姿は、もう無かった。
「伊勢志摩常春。今回は俺の完敗だ。認めんのは癪だが、今の俺じゃ逆立ちしたってお前には勝てっこねぇ。だがな」
槙村は睨みをきかせた。
「いつまでもそのままじゃねぇ。俺はこれからもっと力をつけて、いつか本気のお前をぶちのめしてやる。それまでの間、せいぜい浮かれてやがれ、オタク野郎」
そう押し付けるように言い放ち、槙村は背中を見せて立ち去った。
今までふらふらと、あちこちをさまよい続けていたこの二足は、今、確かな目的地を得た。
強くなろう。今回の経験を自分の糧にし、今よりももっと強く。
そのためには、今自分が習得している空手ではダメだ。
もっと、実戦的な空手を探そう。良師を何年かけてでも探そう。
強くなる前に、自分がやるべきことは、まずそれだった。
終わりの見えぬ苦行へ向かおうとする槙村の顔は——微笑みだった。
槙村の背中が見えなくなったところで、常春は呼びかけた。
「——そろそろ出てきてもいいよ、宗方さん」
その声に反応する形で、焼却炉の陰からひょっこりと一人の女子が出てきた。頼子である。
頼子は苦笑しながら、
「やっぱ、気づいてたんだ」
「うん。最初はついて来る気配だけに気がついて、その後は足音のリズムと強弱から宗方さんだって気づいたよ」
男子トイレを後にしたあたりからすでに尾行には気づいていたが、槙村の意志を尊重するために、わざと気づいていないフリをして放置していた。ギャラリーのいる勝負など、興醒めもいいところだろうから。
頼子は常春の側に歩み寄り、槙村が去った方向を見つめた。
「あいつ……今まで見たことない顔してた」
「そうだね」
常春は同意する。
そう。今までの槙村ではない。何かが変わりつつある。
それこそ、今までの自分たちとの関係に、明確な変化をもたらすほどの変化が起こりそうだ。
「きっと、良い変化が起こるよ」
常春は優しい微笑を浮かべながら、確信を持ってそう言った。




