槙村、現実を思い知る
しばらく走ってたどり着いたのは、公園だった。
「おら、こんなもんでいいだろ。今日はとっとと帰って、飯食って寝ろ」
ベンチに座る槙村の手当てを終えたリーゼント男は、そう言って槙村の背中を叩いた。
「……ども」
槙村は借りてきた猫のようにおとなしい態度のまま、小さく礼を言った。
やや荒っぽい手つきだったものの、このリーゼント男の応急処置は適切で、手慣れている感じがした。
自分より年上っぽい感じのその男へ、槙村はもう一度感謝を告げた。
「あの……ありがとうございます」
「いいってこった。まぁ、ケンカもいいんだけどよ、ほどほどにしとけよ」
「ケンカするな」ではなく「ほどほどにしろ」と言ったところに、自分と同種の匂いを感じた。……まぁ、髪型からして普通ではないのだが。
「……俺、槙村公平っていいます。あんたは?」
「俺は筧転助だ。よろしくなぁ」
その名前を聞いて、槙村はうつむいていた顔をバッと上げて反応した。
「え……筧ってまさか、「魔王軍」の?」
「まぁな。今日は「魔王軍」はお休みで、いつも着てる特攻服じゃねーけどな」
「魔王軍」と聞いて、まず思い浮かんだのは、いつぞやの校門占拠事件であった。
あの時、常春が単身で「魔王軍」のところまで行き、そのままどこかへ連れていかれたという。
槙村は歯ぎしりした。——また奴のことを考えてしまった。
だが、今はそれよりも、聞きたいことがあった。
「あの……筧、さん」
「んぁ?」
「筧さんって、どうしてそんなに強いんスか」
槙村の素直な問いに、筧は面食らった顔を見せた。
かと思えば、難しいことを考えるみたいな仕草を見せ、しばらくしてから次のように言った。
「そりゃ、強くなりてぇからだろ」
「……それ、答えになってるんスか」
「むしろこれ以上ねぇくらいの答えだと思うがねぇ、俺には」
缶コーヒーをあおってから、転助は昼空を見上げる。
「俺は確かに、柳生心眼流っつう古武術を身につけてる。けどよ、武術っつっても、それは単なる方法論だ。それを知ったからってすぐに強くなれるわけじゃねぇ。技だけいっぱい知っててクソザコなんつー奴ぁ、俺は山ほど知ってる。……結局アレだ、「求める気持ち」がなきゃ、強くなんかなれねぇのさ」
「あんたのその古武術って奴で最強になれなかったら、どうするんスか」
自然と、槙村の口調が苛立っていた。
だが転助はその態度に不快さを見せるどころか、ニヤリと人の良さそうな笑みを浮かべた。
「そん時は仕方ねぇ。足りねぇところを補うために、他のモノを学ぶさ。つーか、武術の世界じゃそれが常識だよ。武芸十八般とかよく言うだろ? 昔の奴は複数の武道を学ぶのが当たり前だったんだぜ。そりゃそうだ、兵隊がステゴロだけ覚えたって意味ねぇもん。戦争やりたきゃ、槍とか弓とか学ぶもんだろうよ。……まぁ、俺の柳生心眼流は、鎧着た奴もぶっ殺せるように出来てんだけどな」
転助の考えは、シンプルかつ合理的なものだった。
そして、その合理的な鍛錬はしっかりと身を結んでいた。転助よりはるかに大きな後藤を殴り飛ばしたところを見ても、それは明白だった。
小柄な者が、大きな者を倒す。これは槙村にとってとんでもないカルチャーショックだった。
いや、現実を見せられた、と言うべきか。「格闘技は体格こそが全て」というかたくなな固定観念を、転助のあのパンチは容易に吹っ飛ばしてしまった。
並大抵の努力では、あの威力と身のこなしは手に入るまい。
転助は「強くなる」という一つのテーマを見据え、そこへ自分を一歩ずつ進めていたのだ。だからこその、あの力だろう。神奈川有数の暴走族のリーダーになれるのもうなずける話であった。
——自分は、どうだっただろうか?
自分は、何を目指して、空手に打ち込んでいた?
単なる趣味? いや違う。それだけで全国大会で優勝できるわけがない。
では、大会で勝つことが目的? それも微妙だ。それなら、決勝戦後の喧嘩で負けた時、アレほど悔しがり、空手に絶望したりはしないだろう。すでに目的は達せられていたのだから。
ならば、自分の求めていたものとは、転助と同質の「強さ」なのだろうか?
……いや、自分はきっと、何も考えていなかったのだ。
空手をやることが楽しくて、勝つともっと楽しくて、それが何度も積み重なって全国一になった。しかし、全国一なのにケンカで負けたから、急に楽しくなくなった。だからドロップアウトした。
思い返してみると、ひどく漠然とした人生だった。
そう、昔の自分は、何も深くは考えず、目先の感情に流されるままに生きてきた。
一体、今の自分とどう違うのだろう。
そうだ。自分は全く変わっていない。今も昔も、目先の感情や快楽に流されているだけだったのだ。
槙村は、昔の自分を「無駄なことにうつつを抜かす愚か者」と思っている一方、心のどこかで「あの頃の自分は良かった」と美化しているところがあった。
けれど、昔の自分も、今の自分も、何も変わっていない。
成長も退化もしていない。不変。
槙村はいろんな意味でショックだった。
抜け殻になったような気分になっていると、不意に転助が口を開いた。
「だが、どんなに補ったところで、あの伊勢志摩常春に勝てる日が来るかは分からねぇがな」
知っている者、しかもよりによってあの常春の名前が出てきたことで、槙村は抜け殻状態から覚醒した。
「筧さん、やっぱりあいつと知り合いなんスか!?」
「知り合いっつーか、二回もタイマン張った仲だ」
槙村は我知らずツバを飲み込み、質問した。
「それで……勝敗は?」
「二回とも俺の惨敗。特に二回目なんて五秒足らずで終わっちまったよ」
信じられなかった。
だが、この男が嘘をついてメリットがあるとも思えない。
「嘘だろ……あのオタク野郎が、そんな」
槙村はさっきとは違う意味でショックを受けた。
一方、転助は槙村の「オタク野郎」という代名詞に反応し、目を丸くした。
「あの坊主、ガッコじゃそんなポジで通ってんのかよ。言っとくが、アレはとんでもねぇバケモノだ。あの若さであれだけの強さを手に入れるなんざ、並大抵のことじゃねぇ。きっと、マトモな育ちじゃねぇはずだ。奴の本気の時の目なんか、少しでも反抗的な動きを見せたら殺されんじゃねぇかってくらいおっかなかったさ」
「本当……なんスね」
「本当だとも」
未だに受け入れがたい事実だった。
だが、すんなり認めてしまうと、今までの常春の異質さにも納得がいく。
あの驚異的な身体能力は、何らかの特殊な訓練のたまものなのだろう。
転助はからから笑いながら、槙村の肩に手を置く。
「ハハハ、あれだろ? お前も奴に負けたクチだろ」
「負けてねぇよっ!!」
カッとなって、手を弾く槙村。
嘘だ。
自分は負けたではないか、常春に。
ケンカではないが、自分で仕掛けた勝負に負けた。
さらに、常春がこの男より強いという決定的事実を突きつけられ、槙村の自尊心がさらに傷つけられた。
常春は槙村に貶されても、ヘラヘラ笑って開き直っていた。
だが、常春はその気になれば、いつでも槙村を力づくで黙らせることが出来たのだ。
手玉に取っていたつもりが、逆に手玉に取られていたのだと今頃気づく。
「ああっ、くそっ! くそがっ!!」
頭を抱えてうずくまり、何度も毒づいた。
そんな槙村を困ったような顔で見ながら、転助は子供に言い聞かせるような口調で告げた。
「あー……お前あれか? 今まで馬鹿にしてた奴が自分より強いって思い知らされて、ショック受けてるパターンか?」
「るせぇ!! だったら何だよ!?」
「お前、小せー奴だなぁ」
槙村は憤激のままベンチから立ち上がる。
「何だとこの野郎!!」
転助をぶん殴ってやろうと突っ込んだ。
だが、転助の姿が突然消えたと思った瞬間、世界が一回転し、背中に凄まじい衝撃が走った。
「っはっ……!?」
投げ飛ばされたのだ。叩きつけられたインパクトで、絞り出すように空気を吐き出された。
何度も咳き込む槙村を見下ろし、転助は真顔で言った。
「動きを見たところ、スポーツ空手か何かをやってるみてぇだな。ちったぁ腕に覚えはあるみてーだが、俺の敵じゃねぇな。言っとくがよ、俺に勝てねーようじゃ、伊勢志摩常春には一生勝てねーぞ」
あまりに冷厳なその一言。
槙村は我慢できず、とうとう涙を流す。
「ちくしょう……ちくしょうっ」
今日ほど、自分という存在の矮小さを思い知った日はなかった。
転助は、ただただ無表情で、槙村の顔を見下ろし続ける。
「槙村、っつったか。……お前、今よか強くなりてぇと思うか?」
もはや肥大化した自尊心は完膚なきまでに崩れていた。あるのは自尊心という壁の後ろにあった剥き出しの感情のみ。
槙村は大粒の涙を流しながら、素直な言葉を口にした。
「なり、てぇよっ……!」
「そうか」
転助は静かにうなずくと、いたわるような笑みを浮かべて告げた。
「なら、伊勢志摩常春にケンカ売ってみな。——お前が見てきた世界が、いかに狭っ苦しいものだったかってのを思い知る良い機会だ。きっと楽しいぜ」




