槙村、過去を引きずる
——クソッ! クソッ! クソがっ!
今なお心の中でくすぶり続ける鬱憤を晴らすかのように、槙村はベッドの上で女の柔肌を蹂躙していた。
「あっ、んぁん、あぁん……公平っ、公平っ、こうへぇぇっ」
槙村の腕の中で、汗を流しながら扇情的に悶え、喘ぐ女。あらわになった大きな乳房が、槙村の荒々しい腰の動きに合わせて荒々しく弾む。
茶色に染めたボブカットに、どこか物憂げな造作の童顔。小柄で細い体型とは不釣り合いに豊かな胸。普段は幼なげで可愛らしい彼女だが、今は男の腕の中で「女」の顔を見せていた。
二年D組の女子、佐伯千重里。
彼女は今年の二月、槙村に告白してきた。
槙村はちょうどその頃から頼子を狙っていたので、千重里の告白を袖にした。
だが千重里は諦めず、「だったら、体の繋がりだけでもいいから、わたしのそばにいてよ」とすがりついてきた。
意中ではないが、千重里の外見は魅力的だった。どこか陰のある感じの童顔に巨乳というアンバランスさが、かえって劣情を煽る女だった。……本人が「体の関係だけでもいい」と言っている以上、断る理由はなかった。
以来、槙村はときどき、こうしてラブホテルで千重里と体を重ねていた。
千重里は体だけでなく、反応まで男好きするもので、槙村はすぐに溺れていった。
何度も、何度も、何度も、理性の欠けた獣のように交わり、やがて果てた。
カーテンの隙間から朝日が差しているのが分かった。
一晩中交わり合ったベッドの上には、ちり紙やゴムの残骸が散らばっていた。
「公平、今日凄いね。ゴム、一箱分使っちゃったんじゃない? ……えへへ、そんなにわたし、良かった?」
裸のまま、同じく裸な槙村に寄り添う千重里。
槙村は無言のままだ。
「最初はレイプするみたいに乱暴な求められ方されてびっくりしたけど、わたし、ああいうのも嫌いじゃないよ……」
媚びるように耳元でささやくが、槙村はなおも無反応だった。
千重里は表情を曇らせる。
「昨日……何かあったんだよね? ずっとイライラしてる感じだから」
またも無言だが、頭をしきりにバリバリかく仕草が、苛立ちを言外にあらわしていた。
「……やっぱり、宗方のこと、なの?」
千重里は曇った表情の中に、微かな不快感を宿らせた。
千重里は頼子が嫌いだった。
理由は当然、槙村が狙っている相手だからである。
ほんの数秒でも、槙村が頼子のことを考えているのだと思うだけで、はらわたが煮えくりかえる気分だ。
「ねぇ、公平……もう宗方なんか諦めてさ、わたしと付き合お?」
千重里は自慢の巨乳を槙村に押し付け、とろけた声で訴える。
「わたし、公平のためなら、なんだってできるよ? どんな恥ずかしいことでも、どんな危ないことでも、公平が喜ぶならなんでもするよ?」
すがるようなその訴えに、槙村は顔を背け、手で顔を覆った。
「そうじゃねぇ……そうじゃねぇんだよ」
自分が出した声とは思えない、かすれたような、弱々しい声だった。
——自分は、常春に負けた。
公の場での、完膚なきまでの敗北だった。
常春の叩き出した記録はどれも帰宅部のオタクのレベルではなかった。なんらかの部活に打ち込んでいたとしても、あんな化け物じみた記録を出すことは至難の業だろう。
挙げ句の果てに、ついカッとなって殴りかかってしまったせいで、槙村は一週間の停学処分を食らった。
そのことにショックを受けている一方で、好奇心のようなものも感じていた。
——どうやったら、あのヒョロイ体に、あれだけの身体能力が身に付くのだろうか。
きっと、何か秘密があるはずだ。
それに、常春をぶん殴った時の感触。
確かに、キレイに顔面をとらえたはずだった。
だというのに、ほとんど手応えがなかったのだ。
とっさに反応してインパクトを緩和させたのだとしたら、驚異的な反射速度だ。
すでに槙村の中には、一つの仮説が生まれていた。
常春が、なんらかの格闘技、あるいは武道に通じているという可能性。
それも、カルチャーセンターや部活で習うような、趣味の延長のようなシロモノではない。戦うための、本物の武術だ。でなければ、あんな身体能力はありえない。
もし、常春と自分が戦えば、勝つのはどちらだろうか?
——自分が常春に勝つ姿が、ぼやけた像でしか想像できなかった。
だが、そのぼやけていた勝利像が、鮮明になる。
「そんなわけが、ねぇんだ」
武道も、格闘技も、結局はガタイが良い方が勝つのだ。
小さな者では、大きな者は倒せない。
それが、槙村が空手にのめり込み、そして掴み取った、「クソッタレな真理」だった。
しょせん、生まれ持った素質がモノを言う世界なのだ。
槙村は、まるで自分に言い聞かせるように、そう心の中で念じたのだった。
シャワーを浴びてからラブホテルを後にした槙村は、街へ出た。
千重里がついて来ようとしてきたが、槙村は追い払った。今は一人になりたかったのだ。千重里も槙村に従順なので、それに従った。
さすがに一晩中汗を流し続けたせいか、体がだるいし腰が重い。朝日が目に刺さるようで痛い。
こうして外へ出てはみたものの、何をすれば良いのか分からなかった。やりたいことが何もなかったのだ。
あてもなく徘徊し、コンビニをめぐって適当に立ち読みしたりを繰り返しているうちに、あっという間に昼を過ぎた。
時間の経過が早く感じる。まるでやることがなくなって縁側でぼんやりしているだけの老人になった気分だ。
ふと、雑居ビルの三階に、空手の道場があるのが目についた。
——中学時代の自分なら、暇さえあれば空手の練習をしていただろう。
髪型だって、今のように染めておらず、短めの黒髪だった。
服装だって、今のようなルーズな感じではなく、ほどよくお洒落で動きやすいものだった。
都合の良い女と一晩中セックスなんて、体力と時間の浪費だと断じただろう。
昔とは何もかもがかけ離れた自分が、今ここにいた。
昔の槙村公平が今の槙村公平を見たら、きっと失望することだろう。
だが、どのみち失望し、絶望する。——自分が行っている努力が、まったくの無意味であると思い知るのだから。
しょせん、どれだけ熱心に練習を重ねようが、格闘技では体格の大小が有利不利を左右する。
その要素は、長年の修行の蓄積をあざ笑うかのように、常に立ちはだかる。
体格差による有利不利は、格闘技の公式側も認識している。ボクシングで階級分けがされているのもこのためである。
競技空手の公式側もまたしかり。だからこそ、ここへこう当てたら何点、といった加点方式を試合に採用している。
そう。公式側も分かっているのだ。どれだけ練習を積もうと、体格差が歴然ならば勝負にならないと。
中学時代の自分は、そうとは知らず、「努力すれば必ず実を結ぶ」などという夢物語を本気で信じていたのだ。
——そんな夢から醒めたのは、中学三年の頃だった。
槙村は空手の全国大会で優勝した。
だが、その後すぐに、決勝戦で倒した選手がケンカを売ってきた。槙村は最初は相手にしなかったが、感情の琴線に触れることを言われ、ついカッとなって殴りかかってしまった。
最初は、こんな奴簡単に黙らせられると思った。体の大きさでは負けているが、決勝戦は素早く勝つことができた。その時のようにもう一度敗北させ、ぐうの音も出せなくしてやる。
だが、その時の槙村は気づいていなかった。——自分が強いのはケンカではなく、試合であるということに。
決勝戦とは真逆の結果だった。槙村はその相手にあっという間にボコボコにされた。
その後、二人の揉め事がすぐに明るみとなり、大会運営側によって優勝と準優勝をなかったことにされた。
だが、そのことはさほどショックではなかった。メダルやトロフィーではなく、「勝ち抜いた」という事実こそが尊いのだから。
ショックだったのが——自分の空手がケンカでまったく役に立たなかったことだった。
試合では、相手を倒すためでなく、点数を取って勝つために打撃を当てる。つまり、必ずしも本気で当てに行く必要はないのだ。
だが、ケンカでは違う。ケンカは相手を叩き潰すことが目的なので、本気で殴ってナンボなのだ。
結果的に、槙村は相手に力負けしてしまった。
これまでの鍛錬の蓄積が、生来持つ「力」によって否定されたのだ。
槙村は思い知った。格闘技とは、しょせんは生来の素質によって強さの頭打ちが決まってしまう、欠陥がある「競技」なのだと。
以来、槙村は馬鹿らしくなり、鍛錬をやめた。空手は人生をかけて極める道ではなく、気に入らない奴を殴り倒すための道具へと成り下がった。
ストイックさを捨て去り、享楽的に生きるようになった。外見も派手に飾り、何人もの女を相手に肉欲を満たした。
それまでの自分の生き方に、不満はないはずだった。むしろ誇ってさえいた。無駄な努力を断捨離できたのだから。
だというのに、こんなに気分が晴れないのはなぜだろう。
なぜ、捨て去って清清したはずの過去の記憶を思い出し、苦しい気分になっているのだろうか。
「クソッ!!」
鬱憤に任せて、ちょうど通りかかったコンビニのクズカゴを蹴っ飛ばす。
店員が抗議の目で睨んでくるが、槙村が睨み返すと、とたんに萎縮してソッポを向いた。
他人を踏みつけにしてもなお晴れぬ不快感。
いつもなら、常春やその他のオタクグループをバカにして溜飲を下げていたのだが、それもできない。
誰でもいいから本気で殴ってスッキリしたい。
そう思っていた時だった。
道を阻まれたのは。
「よぉ、ボクちゃん。今日は一人かい?」
二人だった。いかにも悪そうな男たちだった。その中の一人であるバイク着姿の男が、いやらしいニヤケ面で撫でるような口調で言う。
その顔には見覚えがあった。
この間、夜の街中で槙村が叩きのめしたバイク着姿の男だ。……後々になって、こいつが「邪威暗兎」の一員であることを知った。
槙村はジロリと睨み、
「関係ねぇだろ。そこどけや。俺ぁ今イラついてんだ。早くしねぇと殺すぞ」
「ククッ、相変わらずムカつく面してやがんな、お坊ちゃん。今日はテメェのそのスカしたツラをアンパンマンみてぇな膨れっツラにするために来たんだぜ」
「ハッ、比喩のチョイスがガキっスねぇ。つーかなんスか? 暇なんスか? 「邪威暗兎」がぶっつぶれてからお暇ってわけっスかぁ? だったら大人しくリクルートスーツ着て就活でもしててくださいよ、センパイ」
バイク着の男が額に青筋を立てた。
「そう言ってられんのも今のうちだぜ、ガキィ。……後藤さん、たのんますぜ」
「おうよ。こいつをぶん殴ればいいんだな?」
もう一人の男が、相方の言葉にうなずいて一歩前へ出た。
短く刈り込んだ金髪に、厳つく眼光が鋭い顔立ち。そして、自分をゆうに超える巨躯。
心の底にある傷がうずくのを感じた。
デカすぎる。明らかに二メートルは超えている。おまけに骨太だ。
まるで、中三の頃に決勝戦で戦った相手みたいだ。
槙村の手足が我知らずかすかに震える。
その後藤とかいう大男は、拳を手のひらにバシッと打ちつけて気合を見せつけ、獰猛に微笑んだ。
「俺のコーハイをずいぶん可愛がってくれたらしいねぇ、ボク。いけないよぉ、あんまし悪さしちゃあ。おいたが過ぎるとねぇ——」
顔面に、貫くような衝撃がぶち当たった。視界がチカッと明滅する。
「死んじまうぞ、クソガキャァ」
遅れて痛みを自覚した槙村は、顔面を押さえながら数歩後ずさる。鼻血が出ていた。
速い。反応が遅れた。今のはジャブか。ということはボクシング? いや、あるいは現代化された空手か?
思考を混濁させる槙村をよそに、後藤は両の拳を構えた。ボクシングの構え。
「コーハイから聞いた話だと、お前、空手かなんかやってるっぽいなぁ。ならここで空手対ボクシングの異種格闘技戦でもやろうぜ」
槙村は震えていた。
勝てない。
それが、今のジャブを受けて分かった。
ジャブの余韻が、今なお両脚を震わせているのだ。
重さと速さを兼ね備えた、丸太の矢のようなパンチだった。おまけにリーチも自分より長い。
勝てない。
槙村の経験則が、そう訴えていた。
だが、こいつに弱みを見せることは、槙村のプライドが許さなかった。
「そうかい……じゃあ、リング禍でテメェの負けだ、死ねやぁ!!」
槙村が矢のように飛び出した。鋭い瞬発力を活かした高速の突き。現役時代、槙村が得意としていた技だった。
しかし、練習をサボりはじめて久しい今の槙村では、速度が格段に落ちていた。
だからこそ、後藤は片手で難なく槙村の突きを弾いた。
そこからすかさずジャブを打ち、槙村をひるませる。
さらに腰を鋭く切り、猛烈なストレートを槙村の顔面へぶち込んだ。
「ごっ——!?」
直撃した拳が、頭の後ろまで突き抜けたような錯覚を覚えた。それほどまでに重々しい一撃だった。
自分との「力」の差を思い知らされる。
思い出した。確か中三の時も、こんな感じで負けた。
まさしくあの頃の再現だった。
だからこそ、今のストレートは、重さ以上の威力で槙村の心を折った。
派手にぶっ倒れる槙村。
周囲の野次馬が騒然とするが、それに一切構わず、後藤は槙村のマウントをとる。
何度も、顔面を殴りつけてきた。
槙村はもはや反撃できなかった。体力はあるが、気力が根こそぎ持っていかれてしまった。
——ほらみろ。やっぱり体格が良い奴が勝つんだ。
どんなに努力したって、生来の身体的特徴という要素が邪魔をする。
しょせん、自分より小さい奴にしか勝てないのだ。
格闘技なんて、とんだクソゲーだ。人生の浪費だ。やめて正解だった。
再び残酷な現実を思い知り、ただ殴られ続ける槙村。もはや痛みも、他人事のように思えてくる。
突然、痛みの連打がピタリと止んだ。
いい加減殴るのに飽きたのか。あるいはインターバルか。
——どちらでもなかった。
見知らぬ一人の男が、振り上げられた後藤の拳を掴んで止めていたのだ。
「もうケリついてんだろ。その辺で勘弁してやりな」
クロワッサンのような金髪リーゼントに、黒いライダースジャケットとオーバーパンツ。
どこかで見たことのある風貌の男だ。
「んだテメェ、離せや」
後藤はそう吐き捨て、掴まれた腕を振り解こうとしたら、
「んぎっ!? 痛ぇ!! いてててててて!?」
突然痛がりだした。
痛がる後藤は、リーゼント男の手を必死に振り解こうとするが、まったく解けない様子。
あのリーゼント男の握力で苦しめられているのは明白だった。
リーゼント男はパッと手を離す。
後藤は自分の腕を庇いつつ、マウントポジションを取るのをやめて立ち上がった。——掴まれていた箇所には手跡が残っていた。
「テメェ……ぶち殺してやるっ!!」
後藤は怒声とともに、鋭い右ストレートを走らせた。
だがリーゼント男は、最小限の動きだけで、そのストレートを紙一重で避けた。
そのまま散歩でもするような自然な動きで後藤の間合いへ入り、右拳を円弧の軌道で風のように走らせた。ハンマーの一振りのような拳のスイングが、後藤の頬に直撃。
「おごぉ!!」
後藤は文字通りの意味で飛んだ。
2メートルを超える巨体はガードレールを越え、たまたま通りかかった車のボンネットの上に、うつ伏せに垂れ下がるように落下。その車はパニックを起こしたように蛇行を繰り返し、やがて電柱に激突。フロントバンパーに電柱がめり込んだ。
予想外の事故に、リーゼント男は引きつった笑みを浮かべて「やっべ……」と呟くと、
「おい、茶髪。動けるな? サツが来る前にとっととズラかるぞ!」
強引に槙村を引っ張り起こし、ともどもにその場を走り去った。




