アニオタ、地獄を見せる
日陰者は、本当にじめっとした場所が好きらしい。
転助と別れた後、常春はすぐに教えられた「溜まり場」へと向かった。
到着した場所は、ずいぶんと前に閉鎖されたボウリングセンターだった。
人の管理を離れて久しいその建物はまさしく廃墟。外壁をツタが侵食しており、あちこちで雑草がコンクリートを突き破って伸びていた。
そんな有様だというのに、建物の一部の窓からは、ほのかな光が漏れているのが見えた。
外灯もなく真っ暗で、なおかつ寂しい雰囲気であるその廃墟は、たいていの者は入る前に二の足を踏むだろう。
だが常春は迷いなく、ボウリングセンターの門を通過した。
入った瞬間、塀の裏に隠れていた二つの気配が動き出した。
出てきたのは、ライダースジャケットを着た二人の男。一人はナイフで、もう一人は鉄パイプで武装している。
「坊や、通りたければ、通行税払ってね?」
「通らなくても払ってね?」
ナイフをくるくる操り、鉄パイプを振り上げ、二人はそう威嚇してきた。
常春はニッコリ笑って、言った。
「無料で通してくださいね」
鉄パイプが振り下ろされる。
だが、常春はそれを軽く避けつつ、振り下ろした男の太腿にある経穴「伏兎」を爪先で蹴り付けた。
鉄パイプ男は支えを失ったように崩れ落ち、倒れた。「伏兎」を強く刺激すると、しばらく足がしびれて立ち上がれなくなるのだ。
「野郎!」
もう一人の男がナイフを振り上げる。
常春は瞬時に懐へ近づいてナイフを持つ手を掴みつつ、重心をぶつける形で拳を打ち込む。男の意識を奪い取る。
一瞬にして二人を無力化した常春は、建物の正面ゲートへと入っていった。
それからも何人かが向かってきたが、常春はそれらをすべて無傷で制圧した。
歩いた場所に敵の雑魚寝を作りながら、常春は広いボウリング場へとたどり着いた。
電気が通っていないはずのボウリング場には、一部ながら明かりがついていた。電気系統をいじっているのだろうか。だとすれば、インドの田舎のように盗電していることもあり得る。
「よぉ、誰かと思えば、カマキリ君じゃねぇか」
知っている声。
見ると、ファウルラインの手前にある座席の一つに、見覚えのある男が座っていた。
「邪威暗兎」という文字が浮かび上がるよう剃り込まれた坊主頭に、蛇のように陰険な面構え。
見間違えようもない。「邪威暗兎」の総長、須川典貞である。
須川の両隣には、過剰にめかし込んだ女が二人座り、須川にしなだれかかっていた。素材は良いが、過剰な化粧のせいで随分と台無しになっているように常春には見えた。
「ついさっき、この溜まり場に乗り込んできたバカがいるって電話で聞いたが、やっぱお前かい。ずいぶん派手にやってくれるねぇ。この場所を知ってるってことは、「魔王軍」の力を借りでもしたか? カマキリ君」
「そうです。あなたに会うために」
須川は手元のスマホをスリープさせると、その爬虫類じみた眼を常春に向け、ニヤリと笑った。
「俺に会いたかったってことは、あれか? ようやく仲間になってくれる気になったかい」
「僕の学友を傷つけるのはやめてください」
「……あ?」
「あなたの手下が、僕と同じ潮騒高の生徒を襲っていますよね。あれはあなたの差し金でしょう? それを今すぐやめさせて欲しいのです。僕は、それを訴えるためにここへ来ました」
敵だらけで孤立無援の中、常春は少しも臆することなくそう訴えた。
「ああいいぜ。——ただし、お前が俺らの仲間になってくれればな」
須川はそう返した。
常春はそれを聞いた瞬間、須川の本当の狙いを確信した。
「……潮騒高の生徒に通り魔みたいな真似をしていたのは、僕に「邪威暗兎」へ入らざるを得ない状況を作り出すためだったんですね」
「ご名答! 百点満点!」
煽るように、大袈裟な拍手を送ってくる須川。
「ここまで直談判してきたっつぅことは、効果はあったみてぇだなぁ。どうよ? 学内で孤立すんのは辛ぇだろ? 周囲から白い目で見られて、お友達からはお前のせいだとなじられて、とってもとっても辛かったよねぇ?」
須川は立ち上がり、両手を広げて笑いかけた。
「一人ってなぁ辛いよなぁ? 辛いから群れるんだよなぁ? 孤立するのはもう嫌だろぉ? だったら俺らの仲間になれよ。そうしたら潮騒の奴らはもう狙わせねぇ。お前にも美味しい思いをさせてやる」
常春は、拳を握りしめた。
「辛くはありません」
「あ?」
「孤立すること、群れから排斥されること、これらは全く辛くありません。今回、僕にとって一番辛かったのは——平和な「日常」を侵されたことだ」
「ああそうかい、それで?」
「あなた達の言いなりになれば、潮騒の生徒を襲わないとあなたは言った。だけど、もしあなたの群れに入ってしまえば、僕の平和な「日常」はさらに遠ざかってしまう。……つまり、あなたの用意した選択肢を選んだ時点で、僕の「日常」は崩壊する」
常春は歩き出した。
「だから僕は——自分で新しい選択肢を作る」
一番近くにいた男に、歩み寄る。
「あなた方を完膚無きまでに叩きのめして、僕に手を出す気力をくじいてやる」
その男の顔面を、電光が走るような速度の拳で打った。
鼻血を散らしながらぶっ倒れた男。
それを見て、須川の手下たちが罵声を浴びせてきた。
周囲を取り囲まれた。
「……あーあーあー、ダメだこりゃ。興醒めだ興醒め。ったく、せっかくとんでもねぇ破壊兵器が手に入ると思ったのによぉ。あーもうアレだ、仲間にならねぇってんなら邪魔なだけだなぁ、ぶっちゃけ」
須川はそこまで億劫そうに言うと、次は冷たく鋭い口調で言い放った。
「じゃあ俺からも新しく選択肢作ってやるよ。——ここでブッ潰れろ」
須川がスマホを何回かいじると、この建物のあちこちから、ドタドタと足音が近づいてきた。
「お前、この溜まり場教えてもらえたくらい、筧のクソと仲良くなったんだなぁ。このままだと、お前が「魔王軍」のグルになっちまうのも時間の問題だ。そうなる前に、二度とそのご自慢の拳法が使えねぇ体にしてやる」
足音はだんだん大きくなっていき、やがてこのボウリング場のあちこちの扉から、ライダースジャケットを着た男達が飛び出してきた。
やがて、扉が人間を排出しなくなる。
その頃にはすでに、このボウリング場は人で溢れかえっていた。
ざっと目算しただけでも、三十、四十人以上はいる。しかも多くが武器持ちだった。
そんな数を前に、常春はたったの一人。
須川はパチパチと拍手をしながら、おどけた口調で言った。
「はいよく集まりましたぁー! 「邪威暗兎」全員集合ぉー! 今日の命令は至極単純。そこのスカした坊やをぶち殺してくださーい」
全員がその言葉に応えたように、各々の武器を誇示する仕草を見せた。
「邪威暗兎」一同の顔には、嗜虐的な笑みが浮かんでいた。自分たちの優位を全く疑っていない顔だ。
「そういやカマキリ小僧、お前、この間女連れてたよなぁ? ブラウンがかった黒髪で、身長あって、乳がでかい女。あれ、お前の「コレ」かぁ?」
須川は企みを感じさせるニヤケ顔で、小指を立てる。
頼子のことを言っているのは考えるまでもない。
そんな須川の言葉に反応し、常春の後ろに立つ手下が品の無い笑みを浮かべながら言った。
「須川さん、その女、使えるんじゃないっすか? その女探し出して裸にひん剥いて、それを撮った写真で脅して言うこときかせるんスよ。そんで、無理矢理AVに出演させてやりましょうよ。あの見た目で現役JKなら間違いなく売れますし、そんで小遣い稼ぎすれば——」
そいつは飛んだ。
常春の打ち込んだ掌底の勢いによって吹っ飛び、遠くの壁に激突。気を失った。
「——その汚い口であの子を語るな。虫唾が走る」
井戸の底からうなるような声で、常春が呟いた。
その常春の眼差しは、ひどく落ちくぼんでいるように見えた。まるで奈落の底のように、深さがうかがい知れない。
それを見た「邪威暗兎」全員は、顔面を蒼白にした。
須川さえも。
だが、神奈川有数の族を取り仕切る身であるという須川のプライドが、たった一人の相手に恐怖を抱くことを許さなかった。
「な、何イモ引いてやがんだテメェら!? 相手は一人、ここは俺らの砦だ! 本気で挑めば俺らの勝ちは揺るがねえ! さっさとやっちまえ!!」
そのリーダーの叫びに背中を押されたように、「邪威暗兎」全員が動き出した。
常春の剣幕に驚きはしたものの、それでも、須川は内心で勝利の確信を抱いていた。
だってそうだろう。「邪威暗兎」の総勢48人で、たった一人を潰すのだ。これはもはや「喧嘩」ではなく「リンチ」である。
いかに常春が強かろうが、たった一人で48人を倒せるわけがない。
それが須川の、そして世間一般の「当たり前」だった。
だが今、須川の目の前では、その「当たり前」を崩壊させる光景が繰り広げられていた。
——「邪威暗兎」の群勢を、破竹の勢いで蹴散らす常春の姿。
鞭のような裏拳を後ろの敵の顎へ叩き込み、脳を揺らして転ばせる。
前から突き出されたナイフを片手で難なく払い、同時に拳を敵の顔面へ打ち込んだ。打たれた男は鼻血を散らして倒れ、その後ろにいた仲間を巻き込んで倒れた。
後ろから鉄パイプを振りかぶった男が近づいてくる。常春は逃げるのではなく、後ろ向きのままあえて近づき、振り下ろされる前に懐へ入り込んで肘でぶち当たった。重心を高速で衝突させたその一撃に、男は吹っ飛ぶ。
今いる位置の人の密度が高くなってきたので、常春は高く跳躍して敵の肩に乗っかる。そのまま敵一人一人の肩から肩へ素早く飛び移っていき、比較的空いた場所へ着地。そこで早速飛び出してきた敵一人の顔面を蹴っ飛ばす。
そのように、48もの肉体を、たった1つの肉体が翻弄していくさまを、須川は白昼夢を見ているような気分で眺めていた。
人の群れの中を、常春は稲妻のように駆け、蹂躙していく。
常春が一挙を見せるたびに、一人倒れていく。最短で、最速で、最良の一手をもって敵を蹴散らしていく。
ただ物理的に速いだけではない。
攻撃と防御を分けていないのだ。
実戦、特にこのような多対一の戦いにおいては、いかに速く一人一人を無力化できるかが勝利のカギだ。
その時に、「防御」から「攻撃」、という感じで分けていたら、動作が二拍子になってしまい、どうしても動きが鈍く遅くなる。
だからこそ「防御しながら攻撃」「回避しながら攻撃」というふうに一まとめにし、一拍子で攻防を終わらせる。
さらに相手が確実に倒れる技を使うことで、一人の相手にかける時間を最短にするのである。
「こうきたらこう」という教科書的な修行だけでは身につかない、膨大な知識量と実戦経験によって生まれた、素朴かつ洗練された動き。
チンピラの喧嘩に精通しているだけの集団など、常春にとってはハエの群れも同然だった。
あれだけ数が揃っていた「邪威暗兎」が冗談のような勢いで倒れ伏していき、もはや人数はまばらとなっていた。
「う……うわあああ!! バケモノだぁぁぁぁぁ!!」
その残りわずかな人員も、常春の鬼神のごとき武力に抵抗心をくじかれ、ボウリング場から逃げ出した。須川を取り巻いていた女たちも、それに追随した。
「あ、おいコラ! 逃げんじゃねぇ!! 俺を守れよ!!」
しょせんはスリルを求めて寄り集まった愚連隊だ。強固な結束など望むべくもない。
あっという間に、常春と須川の二人だけになった。
須川は逃げたかったが、恐怖があまりに強すぎて、足がすくんでうまく動かなかった。
常春は、歩きで須川に追いつけた。
「ヒィ!! ま、待ってくれよ!! なぁ、頼むよ!! ほんの出来心だったんだよ!! イタズラ! ジョーク! 分かる!? なぁ!?」
須川は子供のようにボロボロ涙を流しながら、手を合わせて許しを乞う。
「お、おねおね、お願いだよぉ!! やめてくれよぉ!! 勘弁してくれよぉぉぉぉ!!」
聞けない相談だ。
最初に、「力」を使ってこちらの「日常」を壊したのは誰なのか。
それをする以上、そいつも「日常」を侵される覚悟をしなければならないのだ。
こいつは、そんな「基本的なこと」すら頭になかったのだ。
だから、この場で「教育」してやらねばならない。
奪われる覚悟のない者に、奪う資格などないということを、体の芯まで教え尽くさなければならない。
でなければ、こいつのためにはならない。
常春の手が、須川へゆっくりと伸ばされる。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
——その日、須川典貞は、筆舌に尽くしがたい「地獄」を味わった。
「邪威暗兎」が解散したというニュースが広まったのは、それから一週間後であった。




