アニオタ、報復を受ける
槙村公平は、すでに夜となった街中を歩いていた。
「ねぇ、公平。何かイラついてるぅ?」
槙村の腕を抱きしめている女子が、媚を売るような甘い声でそう訊いてくる。
「……いや、ちょっとな」
槙村はそう言葉をにごした。
とは言ったが、一週間ぐらい前から、槙村のこのイラつきは続いていた。
原因はハッキリしている。
伊勢志摩常春。
少し前まで、道端に落ちてる小石程度にしか思っていなかった男。アニメに逃げて現実をおろそかにしている陰キャ。ストレス発散のための暴言サンドバッグ。それが、槙村が今まで常春に抱いていた認識であった。
しかし、最近はどうだろう?
前からアプローチをかけまくっていた自分を差し置き、学園三大美女の一人に名を連ねる宗方頼子の隣を当然のごとく陣取っている。おまけに毎日のように弁当まで作ってもらっているではないか。
(クソ陰キャ野郎が……!)
むかっ腹が立ってくる。
だが、常春にイラついている理由はそれだけではなかった。
——最近の常春は、不気味なのだ 。
すでに昔の話だが、槙村は中学時代、フルコンタクト空手で全国トップの実力者だったのだ。衰えたとはいえ、そんな自分のパンチを、常春は避けた。
偶然だと思いたい自分がいるが、意図的な回避だと思っている自分もいた。
極めつけに、あの驚異的な握力。
後で常春に掴まれた場所に目を向けると、手痕がくっきり残っていた。凄まじい力で圧迫された証であった。
つまり何か? あのアニメアニメ言ってるヘビーなオタクが、自分よりも強いということなのか?
(違う。そんなはずがねぇ)
そんな事実は考えられないし、受け入れられなかった。
昔のトラウマが刺激され、ドロドロしたものが心に入り込んでくるのを感じた。
「公平ぇ……」
そのドロドロを、腕に伝わった柔らかな感触によって少し緩和された。一緒にいた女子の豊満な胸が押しつけられていた。
彼女は熱っぽい上目遣いで、槙村を見つめていた。
「そんなにイラつくんならぁ……これからあたしとスッキリしよぉ?」
とろけるような口調でそう言いながら、胸だけでなく、腰と股もこすりつけてくる。
ムカムカした感情が、股下から這い上がってくるような情欲によってかき消されていく。
唇を突き出している女子に、キスをしようとした時だった。
「おーおー、熱いねぇ、お二人さん」
そこに水をさしてくる奴がいた。
ライダースジャケットにオーバーパンツという、バイクに乗る時の服装に身を包んだ男だ。
男はその悪そうな顔にニヤケ面を貼りつけ、煽るような言い方で、
「よぉ、色男。お前、潮騒高だろ? ちょっと喧嘩でもしよーぜ?」
「カス」
汚いものを吐き捨てるように、槙村は言った。
だが男は、粘つくような視線を、槙村の連れの女子に向けた。
「やる気がねぇってか? じゃあいいや、代わりにオメェの女やっからよ。その可愛い顔を一瞬でジャムおじさんみてぇにしてやんよ」
ひっ、と女子が怯えを見せた。
槙村は相手を一瞬で分析した。——身長は自分より低い。体重は同じくらいか。リーチはこちらの方が上。
素早いジャブで鼻っ面を打ってひるませ、すかさずストレートを顔面に叩き込む。ついでに胴体へ前蹴り。
「ぐおぁ……!?」
「胴着を着たキックボクシング」と揶揄されている現代空手だが、ボクシングの影響を受けている分スピードはそれなりにある。息もつかせぬ高速連打によって、男が鼻血を散らしながら倒れた。
「なんだこいつ、口程にもねぇ」
喧嘩を売ってきた割に弱すぎる。
何がしたかったんだ、とすら思う。
「ね、行こ? 人がこっち見てるよ?」
女子がくいくい袖を引っ張りながら言ってくる。周囲を見ると、人の注目を浴びていることに気がついた。
警察が来る前にさっさと逃げよう。槙村は女子の手を引いて早歩きで立ち去った。
歩きながら、槙村は考える。
(あいつ、喧嘩売る前に、妙な事言ってたな)
——お前、潮騒高だろ?
と。
◆
「昨日の「橋の下の橋下さん」見たでおじゃるか?」
「見たよ、今朝録画したやつ! 神回だったよね!」
朝の教室にて、恒例のアニオタトークを繰り広げる常春と綱吉。
それを、遠巻きから汚物でも見るかのような目で見るクラスメートたち。
そして、二人の熱い会話を、近くから呆れたような目で見ている頼子。
頼子はB組だが、たまにこうしてA組の教室まで遊びにくるのだ。常春に会いに。
だが、昼なら一緒に昼食を食べるという目的があるが、朝のホームルーム前の時間に来ても馴染みの薄いオタトークを延々と聞かされるだけだ。
基本、頼子は静観の姿勢なのだが、たまにツッコミを入れたり、質問したりする。
「ねぇ伊勢志摩、その「橋の下の橋下さん」って何?」
「よくぞ聞いてくれた! 日常系アニメの一つだよ。橋の下に住んでる美少女地縛霊「橋下さん」を中心にした話なんだ!」
「それ、面白い?」
「それはもう! 特に地縛霊の橋下さんが可愛くてさ! 僕、一期の円盤全部持ってるから、よかったら宗方さんに貸してあげよっか?」
「ああ、うん、また今度ね」
頼子は適当にはぐらかす。アニメのこととなると、基本的に物静かな常春もキモいくらい饒舌になる。
常春はそれからも、綱吉とともにアニメ談義に花を咲かせた。アニメの一部のシーンが示唆するこれからの展開などの考察なんかもした。考察もアニメの楽しみ方の一つだった。
——「邪威暗兎」リーダーとの突然の遭遇から、すでに二日が経過していた。
あれから、別に何も変わることなく、こうして平和な日々が続いている。
常春は、また校門前で待ち伏せされるのではと警戒していたが、そんなこともなく、かと言ってまた勧誘に来るわけでもなく、変わらぬ日々を過ごしていた。
願わくば、こんな平和な日々が、ずっと続いてくれますように。そう願った。
だが、教室の扉がガタァン!! と乱暴に開かれた瞬間、その平和な日々は再び崩れることとなった。
「おい!! 伊勢志摩常春はいるかっ!?」
怒気で張り上げられた男子の声が、教室全体に響き渡った。
顔の知らないその男子は声の通り、ひどく怒った顔をしていた。
「あの、伊勢志摩は僕だけど……」
常春がそう名乗る。
すると、その男子は目に憤怒の炎をたぎらせ、常春にドスドス近づいて胸ぐらを掴み上げた。
教室の空気が緊張する。
「お前が、お前が伊勢志摩常春かっ!! お前、一体何をやりやがったんだっ!?」
言っている意味がわからなかった。
常春ならこの状態から逃れるのは非常に容易いが、もう少し話を聞いてみたいと思った。
「ちょっと待って。一体何の話をしているの? 僕が何をしたっていうんだ?」
「質問してんのは俺だよ!!」
「ちょ、ちょっとあんた、落ち着きなよ。何をそんなにカッカしてるのよ」
頼子はその男子の肩に触れてそう問うが、
「うるさい!! 関係ない奴は引っ込んでろ!!」
「きゃっ!?」
男子は苛立ち任せに、頼子を強引に振り解いた。頼子は近くの机へ投げ出され、お尻を打った。
それを見た瞬間、常春は自分の胸ぐらを掴んでいる腕を掴み、脈のあたりにある「太淵」という経穴を軽く刺激した。
「ぐあっ!?」
男子はあまりの激痛に飛び上がり、常春から数歩後退りする。
だが、怒りの最中に痛みを与えるのは、逆効果だった。
「……てめぇぇぇぇ!!」
男子は激情に任せて常春に躍りかかろうとしたが、その腕を掴んだ者が一人。
槙村だった。
「おうコラ、いい加減にしとけや。さっきからなんだテメェ? 他所様のクラスに来てまで暴れてんじゃねぇよ、殺すぞタコ」
至近距離から凄まれ、男子は萎縮するが、その分落ち着きを幾分か取り戻す。
だが、常春を睨む目は続いていた。
男子は、怒りを押し殺したような震えた声で言った。
「……俺の彼女が、昨日、知らない男に殴られた。今朝見た時、頬に青痣がついてたんだ」
「え……な、何それ? それは確かに気の毒な話だけど、それが伊勢志摩とどういう関係があるのよ?」
頼子が困惑しながら問うと、男子は次のように返した。
「彼女を殴った男が、去り際に言ったらしいんだ。「恨むなら俺じゃなくて、イセシマトコハルを恨め。あいつは俺ら「邪威暗兎」のメンツに泥を塗った」って。それってお前のことだろっ? お前、一体「邪威暗兎」の奴らに何したんだ?」
常春を除く、全員の顔がこわばった。
「邪威暗兎」が絡んでいることに、全員が恐怖を抱いた。あの傲岸不遜な槙村でさえ、かすかに緊張した面持ちだった。
何をしたか、と聞かれたら、一つしか答えられない。「勧誘を断った」としか。
だが、それは「何かした」ことになるのだろうか? いや、なるまい。
「別に何もしてないよ。ただおととい、ちょっと会ってちょっと話をしただけだよ」
常春はそう返した。別に嘘ではない。
だが、男子はそれで納得するはずもなく、常春になおも食ってかかった。
「そんなわけないだろ!? なんか気に触ることしたんだろう! お前みたいなアニメに逃げてるオタクはコミュニケーション能力がない! だから相手の琴線を理解できない! きっとお前がなんか失礼なことを言ったせいだ! お前のせいで俺の彼女は殴られたんだ! 女の顔に痣ができたんだぞ! どうしてくれる!?」
「いい加減にしなさいよ!!」
頼子が珍しく、声を鋭く張り上げて怒鳴った。
「失礼なことを言ってるのはどっちよ!? 本当に責めるべき相手は伊勢志摩じゃないでしょ!? 「邪威暗兎」とかいう奴らじゃないの!?」
基本的にクールビューティー路線の頼子だが、普段冷めている分のギャップで、激怒した時の迫力は凄まじかった。教室にいる全員が凍りつく。
正論を叩きつけられ、男子は言い返すことはできず、しぶしぶ教室から立ち去った。
それと同時に、ホームルーム開始のチャイムがなった。
常春は、これほどまでに、開始のチャイムが頼もしいと思ったことはなかった。
それからも。
常春の教室には、顔に痣を作った生徒や、その痣を作った生徒の友達や恋人が何人も怒鳴り込んできた。
いずれも、「邪威暗兎」を名乗る男からの被害だ。
その被害者は、いっせいに常春を責め立てた。
最初はわずらわしいとしか思っていなかったクラスメイトたちも、一緒になって常春をなじるようになった。
お前が何かやったんだろ。
お前のせいで殴られた。
お前のせいだ。
責任取れ。
土下座して謝ってこい。
次々と罵詈雑言が飛んでくる。
常春は何も言い返さなかった。ただただ無言で罵詈雑言を受け止めた。
頼子はまた文句を言い返そうとしてくれたが、それをあまりやると彼女の立場が悪くなりそうなので、お礼を言った上で止めた。
……ここまでくれば、原因が自分にあることは明白だ。
今回、潮騒高の生徒が次々と殴られている件。それを「伊勢志摩常春のせい」だという犯人。
「邪威暗兎」の、悪辣な策であることは明らかである。
おととい、「邪威暗兎」への入団を断った腹いせだ。
腹いせに、自分を学校内で孤立させようとしている。
この被害者たちは、そのとばっちりを受けただけなのだ。
——確かに、原因は自分にあった。
でもだからといって、常春は「邪威暗兎」にも、この被害者たちにも、謝る気はなかった。
勧誘を断った常春の判断は、世間的には当然のことである。それをして、どうして謝らなければならないのだろうか?
悪いのは、全て「邪威暗兎」だ。
当然、被害者にだってそれくらいわかるはずだ。
それでも言えないのは、自分たちの手に負える相手ではないからだ。
だからこそ、「邪威暗兎」よりずっと弱そうで、アニオタという弱い立場にいる常春を代わりに槍玉に挙げている。
一見、馬鹿げた行為だが、常春はそれを「仕方のないこと」だと思っていた。
彼らは弱い。弱いから、強い奴には強く出れない。それを分かっていたからだ。
——だが、常春には「力」がある。
だから、この問題はやはり、自分の手で解決しなければならないと常春は感じた。




