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第2章 変化と自覚(6)

 僕が部屋の前に足を進めると、先客が出てくるところだった。


 普通だったら「おめでとう」の一言でも飛び出すはずの場面だと言うのに、互いの間には重い沈黙しか横たわっていなかった。

 僕は無理矢理に笑顔を浮かべる。

「レグルス……スピカは?」

「起きています」

 何か言いたげに眉を寄せるけれど、彼は結局それだけしか答えなかった。答えられなかったのかもしれない。僕はそれ以上笑顔を保つ事が出来ず、諦めて表情を消す。

「……赤ん坊は?」

「一緒です。今は寝ています」

 部屋に入ろうとする僕をレグルスが遮り、懇願した。僕は彼のそんな風に弱々しく憔悴した顔は初めて見た。

「皇子……お願いです。スピカの我が儘をどうか聞いてあげて下さい」

 今までに彼が僕に何かを頼む事はほとんど無かった。そんな彼の数少ない頼みだと言うのに、僕は素直には頷けなかった。



 スピカは窓から外の蒼い闇を見つめていた。蝋燭の火が流れ込む風でゆるゆると靡く。それを受けて彼女の長く伸びた金色の髪がベッドの上で川のように波打っていた。

 僕は黙ったまま、そっと部屋に足を踏み入れる。

「スピカ」

 彼女は振り向かない。僕の目を見ようともせず、彼女は闇を見つめたまま呟く。

「…………シリウス、あたし」

 僕は彼女の言葉を遮る。

「……いいんだ。何も言わなくて」

「え?」

 スピカがようやく振り向いた。その目が薄暗い部屋の中でも分かるくらいに赤い。

「間に合わなくてごめん。頑張ったね。僕の子を産んでくれて、ありがとう」

 声が堅くならないようにするのが精一杯だった。もっと心から喜んで言えたらどれだけ良かっただろう。

 僕の言葉にスピカは瞠目していた。そして信じられないと言うように首を横に振る。

「シリウス……聞いて」

「聞かない」

「あたしね」

「聞かないよ」

 耳を塞ぐ。彼女が謝罪しようとしているのを感じて、撥ね付ける。それだけは受け取れない。謝る事なんか何も無いはずだった。

「誰が何と言おうと、子は、僕の子供だ。そうだろう?」

 僕の言葉に、スピカは泣きそうな顔をして黙り込む。僕はスピカを虐めているような気分になった。卑怯な事をしている事も分かっていた。でも聞かなければ、それは本当の事にならない気がしていた。


 スピカは僕の頑な拒絶に、その話を出すのを諦めたかに見えた。彼女は小さく息をつくと切り出す。

「シリウス……あたしの我が儘をきいて欲しいの」

 我が儘という響きに、さっきのレグルスの顔がちらつく。

「なんだい」

 何の疑いも無く、子供の事だと思った。子供を守って欲しい──そんな言葉が出てくるものだと信じ込んで、僕は話を聞こうとした。それなのに、スピカの口から出た言葉は予想からはほど遠いものだった。

りえん・・・して欲しいの。あたしと、子供の為に」

「嫌だ」

 りえんが離縁だと分かったのは反射的に答えた後だった。考える余地もなかった。急激に怒りが沸き上がって来て、胸の中で暴れ回る。

「お願い。あたしからは言えない事なの。分かるでしょう。それが、一番いいの」

「いやだ」

 僕は、幼子のように戦慄いた声で言う。なんで、なんでそんな事言うんだ!

「あの子は、……あなたの子じゃない。あたしは……あの子の父親のところに行く」

 父親? 父親って? それは──

「僕の子だ! だって、僕たちはあんなに愛し合っただろう!? それなのに、僕の子じゃないなんて事があるわけない!」

 馬鹿みたいだった。物を知らない子供みたいだった。でも止められなかった。いくら愛していようが、この状況にはまったく関係ない。それが悔しくてしょうがなかった。

 怒鳴り声に驚いたのか赤子が火が着いたように泣き始める。その甲高い声に部屋の空気が割れたかに思えた。

「シリウス」

 彼女は、ベッドを下りると重い足取りでゆりかごに近づく。そして慣れない手つきでそっと赤子を抱き上げる。赤ん坊は泣き止まない。部屋に充満する泣き声は耳鳴りのように僕の頭に張り付く。白い産着の合間から目に鮮やかな赤い色が飛び込み、怯む。その色は恐怖そのものの色だった。

「この髪を見ても、そう言える? この髪を見ても、誰もがそう思うかしら?」

「でも……君は」

 スピカが大きく息を吸った瞬間、赤ん坊が突如泣き止む。まるでスピカの意志を汲んだかのようだった。

「あたし、ルティと……寝たの。ずっと騙しててごめんなさい」

 訪れた沈黙の中、震えるような小さな声が落ちる。目で真実を問うと、彼女は怯えたように僕から目をそらした。

 ──嘘だ。そう直感が囁く。

 そしてその嘘で僕の熱せられた頭が冷やされた。彼女への疑いが一気に晴れる。彼女は隠し事が上手ではない。それにこんな重大な事を黙っていられるほど、図太くもない。妊娠を知った時の幸せそうな笑顔が偽物だったとは思えない。……つまり、彼女は、子供の父親がルティだと夢にも思っていなかったということだ。だとすると、どうして今さら彼女がそんなことを言い出すのか。僕を諦めさせようとしてる? そうだとしたら、そんなのは無駄だ。

「スピカ、嘘は駄目だよ」

「嘘じゃないわ」

「じゃあ、嘘じゃなくてもいい。僕は……それでも構わない」

「え?」

 何があろうとも、スピカの事は諦められない。そのことは身に染みて知っていた。胸の中で渦巻く嫉妬と絶望を無理矢理押さえつけながら、僕ははっきりとスピカに言い聞かせる。

「子供が僕の子供じゃなくても構わない。国を欺いても、道を踏み外しても……僕は君を離さない」

「だめ」

 スピカは縋るように僕を見る。

「だめよ! お願い、シリウス! なんで分かってくれないのよ。そんなの、誰の為にもならない!」

「分かってないのは君だ、スピカ。僕は、……もう君に守られるのは止めたんだよ。君は、僕をなんだと思ってるんだ?」

「…………」

「君は『君と子供の為』に離縁したいって言ったけど、違うだろう? 馬鹿にしないでくれ。僕のために自分を犠牲にしないでくれって……何度言えば分かるんだよ!」

 スピカは、『僕のため』に僕から去ろうとしていた。僕の負担になるのが嫌で、慣れない嘘までついて。

「僕が、君を守る。僕は、──君に守られるんじゃなくて、守りたいんだよ! いい加減分かってくれよ!!」


 スピカは、長い髪の向こうでじっと俯いていた。蝋燭の光がゆらゆらと髪に反射する。涙が溢れてるように見えた。


 ふぇ、と赤子の顔がくしゃくしゃになったかと思うと、鼻を鳴らすようにぐずりだす。スピカは僕の視線を気にする事も無く、上半身を開けた。腕の中の赤子は目もろくに開いていないのに、反り返るようにして乳を探し当てる。彼は生きる事に必死だった。スピカはそれを柔らかい視線で見つめていた。こんな神々しいものを、僕は初めて見たかもしれなかった。


「スピカ……」

「……なに?」

 スピカは愛おしそうに子の赤い髪を撫でていた。その柔らかく緩んだ瞳には色など映っていないように見えた。

「僕、その子に贈り物を持って来たんだ」

「……」

 僕はベッドの端に腰掛ける。そして空をつかんでいる小さな手にそっと自分の指を触れさせる。

 きゅ、と小さな手が力強く僕の指を握り、胸がきりと音を立てて軋む。

 ──やっぱり、この子は僕の子だ。

 理由は無い。ただの直感。願望が見せる夢。でも僕の中を流れる血がそう言っているような気がしていた。


「ルキアノス」


 掠れた声が出る。それでもちゃんと口に出せた。これを言ってしまえば……後戻りは出来ない。彼は、ジョイアの皇子となる。僕はスピカに自分の真名を伝えた時と同じような覚悟で口を開く。

「ルキアノス・アイトリア・ディス・ジョイア」

 最初の贈り物。ずっと考えていた真名。真昼の太陽のように陰りの無い強い光で、僕たちを、ジョイアを照らして欲しい。

「…………シリウス!」

 彼女は弾かれたように顔を上げる。

「ルキア、と呼ぼう。光、と言う意味だよ」

 僕はスピカに向かって微笑む。

「僕たちの、光だ」

 一瞬浮かんだスピカの笑顔が涙に崩れ落ちる。ジョイアの新しい皇子を抱いたまま、僕に縋り付く。そんな風に泣く彼女を僕は初めて見た。

 彼女が今にも儚く消えそうな気がして、夢中でかき抱く。そして自分自身に強く誓う。


 ──僕が、守ってみせる。スピカも、ルキアも。



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