第2章 変化と自覚(5)
「入るぞ」
その声に振り向くと父が憔悴した顔を覗かせる。起き上がろうとすると「寝てろ」と一言。
あれからどれだけ時間が経ったのだろう。もう外は真っ暗だった。
赤ん坊は隣で眠っていた。
「……赤ん坊は?」
「お乳をあげたらおとなしく寝たわ」
産婆が淡々と方法を教えてくれた。そういう体質なのか驚くほど胸が張り、すんなりと母乳が出てくれた。痛いくらいの力で赤ん坊は吸い付いて来て、この小さな体にどうしてこんな力があるんだろうって驚いた。その手があたしの髪を一筋しっかり握りしめて、まるで縋るようだった。――生きたい、と。全身で訴えていた。
あたしはベッドの傍に置いているゆりかごを見やる。産着の合間から小さな手が見える。しわしわの赤い小さな手。見ているだけで涙がこぼれそうになった。
「お前……どうしてあんなに取り乱したんだ? まったく……親不孝ものが」
「…………」
自分で驚いていた。冷静になると有り得る事だと気が付いた。母の髪の色を忘れていた事がショックだった。そして、あたしが取り乱した事が、決定的に何かを壊してしまった事に気が付いた。
「俺がラナのことを説明してた時だったよ、お前の悲鳴が聞こえたのは。ヴェガ様は……すぐに悟られた」
「…………父さん、あたし」
「皇子には?」
あたしは首を横に振る。
「あたしも……分からないの。そんな覚えなんかないの。ただ、意識が無かったから……もしかしたらって」
「可能性は……全くないわけではない。それに、無である事を証明できないのなら……意味が無い」
父は下手に慰めない。目をそらしても仕方が無い事だった。
そう。もうこの際事実は関係ないのかもしれない。あたしが攫われていた間に出来た子供。だから髪が赤い。世間はそういう風にしか見ない。それが問題だった。
「お前は、どうするつもりなんだ?」
「どんな手があるって言うのかしら」
道がない事は分かっていたけど、縋りたかった。
「道は二つだ」
「子供を取るか、皇子を取るか。――両方は多分無理だ」
「シリウスを取れば……赤ちゃんは……」
「産まれなかった事になる」
重たい沈黙が部屋に広がった。
甘い囁きがどこかから落ちて来る。優しく耳を撫でる。――子を捨てれば、あなたは皇子と幸せになれるのよ、と。
誘惑に引きずられそうになるのを、小さな手が髪を引いて、止めた。我に返ると、覗き込んだその先は地獄という闇だった。
――母さん、ぼくは、生きたい。
全身に冷たい汗が噴き出していた。自分が一瞬考えた事が、恐ろしくてたまらなかった。
「じゃあ……選択肢は無いのね」
「そうだな」
父は疑わないようだった。あたしが、その道を選ぶ訳がないと信じてくれていた。
「シリウスも、……同じ答えを出すと思うの」
「ああ。皇子は優しいから」
父は甘いと言わなかった。彼は顔をしかめる。涙は見えなかったけれど……泣いているかのように思えた。
「俺のせいだ。すまない」
「どうして」
「俺がラナを死なせなければ、おまえがこんな立場に立つ事は無かった」
「母さんは、病気だったんだもの……父さんのせいじゃない」
父は一晩で一気に年老いてしまったかのようだった。いつも真っ直ぐ伸びているはずの背は曲がり、艶やかだった額に深い皺が刻まれていた。
「お前が正妃になる方法は、これしかなかったんだ。だから俺は喜んでたし……それに賭けていた。でも、賭けに負けてしまった」
あたしは静かに頷く。国母になり、シリウスが他に妃を娶らない。他に子がいなければ……いずれあたしが正妃になるしかない。時間がかかっても一番確実な方法だった。だからシリウスもあたしも素直に喜んだ。でもその子供が……公表できないような子供だったら? 血筋を疑われるような子供だったら?
「お前と子供が生きて行ける場所は……」
「分かってる」
仕組まれていたのかもしれない。あの時から。ルティが皆の前であたしを欲しいと言った時から、こうなることが決まって居たかのように思えた。彼はあたしとの関係を匂わせるだけで良かった。たとえ今回でなくても、いつかあたしが赤い髪の子を産むのを彼は知っていた。あたしには……シトゥラの血がしっかりと流れているのだから。もしも今回あたしがシリウスを選んだとしても、きっといつかまた同じ事が起こる。あたしはそれを心のどこかで確信していた。
逃れられない。その血の因縁から。あたしがこの血を身に流す限り、重なる事の無い二つの道。ともに歩めば二人で地獄を見る。それならばいっそ――
あの家ならば、喜んであたしを迎えてくれるだろう。
そしてあの男は、たとえ子がシリウスの子であろうと、自分の子だと言ってあたしを妃に据える。そんな横暴さえ通すだけの力を彼とシトゥラは持っている。――欲しいものの前には手段を選ばない。それが彼らのやり方だった。
「俺も行くからな」
「だめ。父さんは、シリウスを……シリウスが一人ぼっちになっちゃう」
父は首を横に振る。そして笑った。
「お前は、俺の子だ。そして赤ん坊は、俺の孫だよ。それだけは間違いないんだ。こうなってしまった以上……俺が守ってやらなくて誰が守るんだ? 皇子は大丈夫だ。昔と違って……今の彼なら、俺がいなくても。いや……お前がいないのなら、俺の居場所はもう皇子の傍にはない」
そうね。そうかもしれない。
あたしが去った後に父が残る事は、シリウスにとってはかえって残酷な事。
彼の元を去るのなら、あたしが彼にしてあげられる事は、一つ。
――――あたしを忘れさせる事。あたしを思い出させない事。
他の誰も出来なくて、あたしだけがしてあげられる事だった。
「そう簡単には行かないからな。お前はもうジョイアの妃だから。皇子が敵に回れば逃げられない。……お前、説得できるか?」
「……」
一番穏便な手段はそれだった。シリウスから……離縁してもらう事。立場上、こちらからの離縁は不可能。幸か不幸かまだあたしが子を産んだ事は誰も知らない。その事が広まる前に暇を出してもらえばいいのだ。それならば平民出の側女が一人いなくなっただけの事。代わりはたくさんいるのだから、大事にならずに済む。
でも……
「無理だろうな」
あたしは頷く。
シリウスは、きっとあたしがそんなことを言えば、何もかも犠牲にしてあたしを取ろうとするだろう。
『 君が隣にいない世界は僕にとって意味は無いんだ。
君のためなら、僕は何を捨ててしまっても後悔しないと思う 』
シリウスから貰った手紙を思い出す。
彼は何を捨てるのだろう。子を捨てると言うかしら? ……いや、それは絶対に無い。虫さえ殺せない彼には無理だ。彼の捨てるものはいつだって自分の身の一部でしかない。だとすると……皇子である事をやめてしまうかもしれない。それが何の解決にならないと知っていても、最後まで必死であがくのだ。
それは……だめだ。彼が捨てるものは、一つだけで十分だった。
「なんとか、やってみるわ」
説得出来ない時は……そのときは――――
あたしの言葉に、父は静かに頷いた。