第13章 最後の壁(10)
部屋の中は静まり返っていた。王妃は貧血でそのまま床に倒れ込み、医者が呼ばれる。砂まみれのところを見ると、彼女もあの後僕と同じように必死で馬車を飛ばしたのだと思う。例によってイェッドが応急処置を施しはじめる。
あのことを打ち明けるのがどれだけ恐ろしかったことだろう。彼女は王を愛していた。自分を見て欲しいと願っていた。だからこそ、長い間、王が唯一愛し続ける女性の息子であるルティの存在を認められなかったのだ。
彼を見るたびにラナの存在を思い知る。それは、僕がルキアの髪を見るたびに、ルティを思い出していたのと同じかもしれない。──いや、王の心が自分に無いと知っていたならば、余計に辛かったに決まっている。
彼女は自分の境遇を呪って泣き続けてきた。王と家の間で板ばさみになって、動きがとれずに、殻に閉じこもっていた。
でも、結局彼女は最後にはルティの母親になろうとした。彼女を母親だと慕ってくれる彼を不幸にしないために。彼女と彼の間には、血のつながりは無くとも、確かに親子の絆があったのだと思う。
僕は王妃の勇気に心から感謝した。
「スピカが……妹」
「ルティがお兄ちゃん……」
呆然と見つめ合う二人を前に、僕は溜めていた息を吐いた。大きな仕事が一つ終わって、心底ほっとしつつスピカの肩を抱き寄せる。
「ルティ、君は『一族』を大事にするんだろう。『妹』の幸せを考えれば、僕に渡すのが一番のはずだ」
まだルティは呆然としていた。許されない恋をした男、それは一歩間違えば僕だったかもしれない。スピカが姉かもしれないと苦しんだあの夜を思い出して、僕はルティに同情した。
そして、僕はまだ喜べない。彼には、どうしても一仕事してもらわなければならない。
「ルティ。スピカの子──ルキアは、僕の子供だ」
ルキアのために。スピカのために。それからレグルス、叔母、父のためにも。ルキアの父親は僕でないといけないのだ。
「……」
ルティは俯いて黙り込んでいた。すぐ返事が出来るはずも無い事は分かっていた。
「答えないなら答えなくてもいいんだ。この先黙っていてくれさえ居れば。もし違っても僕はそれを墓場まで持っていくつもりだ。さっきの『借り』は、これで返して貰いたい。
──ルキアは、僕の子供だ。僕が一番、スピカを愛しているから、だから──」
僕は続けて呆然としたままのラサラス王にも訴える。
「陛下。スピカは、あなたが愛した人の、娘です。僕は、あなたがスピカの幸せを望むと、そう願います」
「……」
王は瞳を天井に彷徨わせたまま答えない。ただ僕の言った事を噛み締めているようだった。
*
僕たちは食事をとるため食堂へと移動した。アウストラリスの郷土料理を存分に振る舞われるものの、酒の席は全く盛り上がらない。王は不調を訴えて、用意された部屋に下がっていたし、王妃も別室で看病されていた。カーラも挨拶程度ですぐに部屋に引き蘢ってしまったし、ルティは離れた場所で酒を浴びるように飲むばかりで、無言だった。そして心配した通り、早々に潰れてしまった。
メイサが仕方なさそうに彼を部屋に運ばせ、食堂に残るのは、僕とスピカとメイサだけになる。
「あなたたちも戻れば? 部屋、用意してあるから」
メイサがそう言って、僕は確認する。
「一緒の部屋だよね?」
「違うわよ? あれ、スピカ、あなたまだ言ってないの?」
「え、あ、そうだった」
なぜかスピカが急に焦りだす。なんだか不穏なものを感じて、僕は急いで話をまとめようとする。
「一緒にしてくれる? 夫婦なんだから当然だろう?」
「……」
メイサは呆れたような顔をするけれど、ここは譲れない。もう待てない。そう主張する僕の隣でスピカがあたふたと口を開く。
「えっと、あのね、シリウス」
「そうだ、言っておかないとって思ってたんだ。もう僕は君に遠慮しないから。──帰ったら寝室は一緒にするからね。それからサディラには残ってもらって、ルキアは預けて……」
そうだ。僕たちはやり直さないと。結婚して、実質0日の新婚生活だったんだから。
「あ、あの……」
スピカがたじろぐ。なんで、そんなに避けるんだろう。僕は念のためにもう一度、彼女の耳を確認する。そこには僕がつけてあげたままに、艶やかな黒い石が光っていた。
僕は髪を耳にかけ、あえて自分の耳の飾りを見せながら、問う。
「もう確認するまでもないと思ってたけど、──君、僕の事、愛してるんだよね?」
「あ、あのね、シリウス」
スピカはそれに答えずに困ったように眉を寄せる。僕は追求を止めない。きっと彼女を殴ったときに、『遠慮』という壁も一緒に壊してしまったんだと思う。
「愛してないの?」
「や、えっと、違うの。愛してるに決まってる。……でも」
「あ゛ーーーー!! もう、部屋に戻ってからやってよね、そういう恥ずかしいのは!! 見てて痒い!」
またもや、べしっと音がするほど頭を叩かれて、メイサを睨む。そういえば、さっきも叩かれた上に、酷い事言われた気がする。確か、イロボケとかバカとか。
「ねぇ、僕一応ジョイアの皇太子なんだけど」
そう言うとメイサは心底呆れた顔で返す。
「まぁ……さっきは見違えちゃったけど……、そういうところ見ると、前と全然変わってないじゃない」
「め、メイサ、お願い、助けて。だって、」
泣きそうなその声にふと見下ろすと、スピカが縋るような目でメイサを見ていた。
「助けてって……人聞きの悪い」
僕はさすがにむっとする。そりゃ、容赦しないつもりだったけど……こうして再会した夜に、どうしてここまで嫌がるのか理由が分からない。
「自分で言いなさい、そのくらい」
メイサがスピカを諭す。その様子は本当の姉妹の様で、妙に微笑ましかった。