表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/72

第2章 変化と自覚(4)

 ──産まれそうだ

 その知らせを受けたのは昨日の朝だった。予定より10日ほど早く、気を緩めていたところ、不意をつかれた。

 僕は知らせを受け取ると取る物も取らず、僅かな供だけを連れて必死で馬を飛ばした。

 晩夏の温い風の中、思い出すのはスピカと出会ったあの逃亡劇。あのときにはこんな幸せが待っているなんて考えられなかった。期待に胸を膨らませ、同じ景色を緩む頬をそのままに眺めつつ、全力で駆けた。

 ──がんばれ、スピカ

 今もまだ彼女は必死で陣痛と闘っているかもしれない。オリオーヌまでは馬を変えれば丸1日で到着する。少しの休憩を取っただけですでに半日以上駆け続けた。もう夜明けが近い。遅く昇った下弦の月が南の空に浮いていた。一睡もしていなかったけれど、興奮して眠気など感じなかった。

「皇子、さすがに少しお休みください」

 闇の中、後ろから叫ぶような声が聞こえる。

「大丈夫だ、ミアー」

 振り向かずに答えた。後ろにいる侍従は二人。一人はミアー。レグルスの忠実な部下で、少し前の事件でいろいろと僕たちの事情を知ることとなった。

 もう一人はループス。こちらも近衛隊の一員だった。レグルスが自分の代わりにと、護衛を選んでつけてくれていた。レグルスが選ぶだけあって、二人ともかなり腕が立つらしい。

「もう産まれてますよ、さすがに。朝の時点で陣痛が始まってから丸一日は経っているのですから。今更急がれても間に合いません」

「そんな事、分かってるよ」

 僕は少しミアーを振り返る。

「少しでも早く顔を見たいだけだ」

 そう言うと、後ろで溜息が二つ聞こえる。

「お妃様は幸せですね。こんなに愛されて」

 ループスの低い呟きに少し顔が赤くなるのが分かる。そうだよ、愛してるんだ。だから、当然だろう。

 僕は咳払いをして照れを誤摩化すと、再び馬を急がせた。

 馬は青々とした草原の中の一本道を駆ける。メランボスの森を抜け、集落を抜けたら、あとはこの道をひたすら真っ直ぐ行くのみだった。道に敷かれた白い石が、朝焼けを反射してほのかに光り綺麗だった。光がスピカの元へと導いてくれているような気さえした。

 と、前方に黒い影を見つける。道を塞ぐように立ち尽くす、あれは────

「叔母さま?」

 僕と同じ黒い髪。そうだ、見間違える訳が無い。なんでこんなところで、待ち伏せるようにして……まさか、スピカに何かあった!?

 目の前の闇の色が僕の心を一瞬で真っ黒に染めた。

 慌てて馬を止める。

「シリウス」

「──スピカに何か!? えっと、赤ちゃんは?」

「……産まれたわ。無事に。男の子よ」

 視界の端で朝日が昇り始め、彼女の左頬を赤く照らし出す。無事に、と言う割に、その顔色は驚くほどに青ざめていた。

「……なんで、そんな顔してるんだよ」

「シリウス……子供はね……、『ラナ』にそっくりなの」

 叔母は後ろのミアーとループスを気にしながら慎重に口を開いた。

「ラナ」

 一瞬意味が分からなかった。そして直後、その意味を知る。

 それは、スピカの母の名。彼女の母にそっくりと言う事は……

 僕はゆっくりと首を横に振る。何か重たいものが肩にずっしりと置かれるような感覚があった。


「…………嘘だろう」

 嘘だろう? 何が? 『ラナにそっくり』。祖母に似て何が悪い?

 自分に必死で言い聞かせる。

 そうだ、祖母に似ている。それだけの事。それなのに、納得できない自分がいた。

 飲み込めない理由は分かっていた。

 僕は、────怖くて聞けなかった。スピカに、聞けなかった。彼女が攫われていた時の事を。

 彼女は、何も言わなかった。だから──何も無かったのだと、そう信じていた。

「あなた、聞いたの? スピカに」

「…………」

 黙って首を振る。

「こうなってしまったからには……聞かなければいけないわ、分かるわね?」

「ラナに似てる。今そう言ったじゃないか。それでいいじゃないか」

「分かってるでしょう? あなたは『皇太子』なの。もう甘えは許されない」

 ぐっと詰まる。

「聞いて……答え次第では……あなたは子供を……もしかしたらスピカと子供両方を諦めなければいけない」

 拳を握りしめた。何か差し込まれたように胸が痛んだ。違う────おばさま、違うんだ。

「いえ……違うわ。答えは関係ないかもしれない」

 そう。彼女の立場を考えると、子供が真に僕の子供であろうと、関係なかった。赤毛の児を産んだ、その事自体が……裏切りだった。

 彼女の母は既に他界している。祖母に似ているといくら言おうと、誰が信じるのだろう。それよりは、彼女と噂のあった『彼』の子供と言った方が、あまりにも分かりやすい。そして、皆は、きっとそれを信じるだろう。

 しかも『彼』は、アウストラリスの王子ときている。今不安定な情勢が悪化すれば……スピカと子供が嵐の目となってしまうのが目に見えていた。『彼』が王子だと知れば、ジョイアはスピカ達を外交の材料として扱う。厄介払いが出来たと、貴族どもは喜んで彼女を取引に使う。彼らは、僕には選べない事を知っていて『国民』と『彼女』、どちらを取るのだと迫るだろう。ジョイアに、僕の隣に、彼女達の居場所はなくなり──そして、『彼』はスピカを取る。

 着々と置かれた布石。その手が垣間見え、背筋を悪寒が上った。僕はいつの間にか、どうしようもないところに追い込まれていた。

 こんな手を打つっていう事は、彼は知っていたと言う事なのか。スピカが産む子供が、赤い髪をしている事を。どうして? それは────

 叔母は恐る恐るのように続ける。声に哀れみがにじみ出ていた。

「スピカがね……子の髪の色を知って……嘘みたいに取り乱したの……あの子、ラナの事を思いつく余裕も無かったみたいで。だから……」

「──もういい。関係ない」

 沸き上がる感情を無理矢理に押さえつける。今はこれ以上考えたくない。

 僕は一体……今まで何をやっていたんだろう。あいつは種をまいてその時機を待ってるだけだった。僕はその可能性に気が付いて対策を立てていなければいけなかったと言うのに……僕がした事は……。

 痛みに耐えかねて胸を掴むと、懐に入れていた紙がクシャリと音を立てる。

 スピカを守ると言いながら……僕は、何も出来なかった。

「な、何を言ってるの、関係ないって……。あなた」

「──スピカに会いに行く」

 声には何の感情も含まれなかった。冷たく重い響きに叔母の口が塞がる。


 朝日が沈み行く夕日のようにも思えた。

 熱く茹だる頭とは逆に氷の様に冷めて行く心。今にも凍えて倒れそうだった。

 とにかく、顔を見ないと駄目だった。彼女の前で、彼女の瞳を見て、言うべき事があった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ