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第13章 最後の壁(8)

『ラナ』

 その言葉は、彼の呪縛を解く鍵だったのかもしれない。昔、彼はこの部屋で、この名を呼んだのだ。


 王は自分で言ったその言葉に、目を見開いた。

「ラナ? ラナ、ら、な」

 名を呼ぶ度に、王の中で過去が蘇っていくのが目に見えて分かる。

「うそだ……なんで、俺は……お前を忘れていた? 俺は……きっと、長い間、お前を捜し続けていたんだ」

 そう言いながら、彼は自分の手を見る。そしてベッドの脇の姿見で自分の顔を見て、そのルティに似ている、でもやはり老いた端正な顔を歪ませる。

「俺は……こんなに年老いた。お前は昔のまま、あのときのままなのに」

 そう言うと彼はあたしの頬に手を添える。その手から戸惑いが伝わって来た。

「陛下」

「なぜだ。なぜ名で呼ばない。ラサラスと呼んでくれないのか。──当然か。俺がお前を忘れていたことを怒っているのだな」

 あたしは首を振る。あたしも、シリウスが記憶を失ったとき、悲しみはしたけれど、怒りはしなかった。

 母だって怒っていなかったはず。母は知っていた。間者と王は結ばれる事は無い。記憶が消えた後、自分たちがどうなるか分かっていて、あえて、彼の腕に抱かれたのだ。──この人と、国のために。

『私は、この人の傍に居るべきじゃない』

 母の声が聞こえた気がした。母の過去が自分と重なって、胸が痛かった。──母さん。あなたは、多分間違った。この人の恨みの元は、全部、あのときに作られてしまった。この人は本当に欲しいものを手に入れたと誤解していた。でも本当には手に入れていないから、心の底ではそれを知っているから、ずっと欲しがったままなのだ。長い年月、その歪みを抱える事で、心までもが歪んでしまった。

 そしてその心の歪みが、今のアウストラリスを作り上げている。なにもかもを手に入れないと気が済まない、そして、手に入れるためには何でもする──この国から滲み出る想いは、きっと彼から発せられている。

 あたしも、きっと間違った。母と同じ間違いを犯していた。あたしがいなければ、シリウスが幸せになれるって、そう思っていた。

 でもこのラサラス王の姿は、もしかしたら、シリウスの未来の姿かもしれない。


『君がいないと生きていけない』

 あたしは──彼に愛されていた。彼はあたしの事を、魂の片割れだと、信じて疑わなかった。そう知っていたのに。

 片割れを失った人が、どれだけ苦しむか。あたしは今目の当たりにしていた。

 あたしは、間違った。

 でも、まだ────取り返しは付くのかもしれない。メイサに言われた事を思い出す。『皇子さまに謝りなさい』

 許してもらえないかもしれない。でも、あたしだって信じてる。彼があたしの魂の半身だと。あたし達は、二人で立つ事で、きっともっと強くなれるのだ。あたしは、強くなりたい。彼のために、そして──子供達のためにも。

「ラナ。何を考えている? やはり俺を許してはくれないのか」

 王の心は今、過去を彷徨っているのかもしれない。ラサラス王は十代の子供に戻ったような表情をしていた。ただ純粋に恋をしている少年の顔。今までの王者の顔が嘘みたいに、心細そうに、あたしの答えを求めている。

 あたしは、少し躊躇ったけれど、王の頭を引き寄せ、そしてその髪をそっと撫でた。

「陛下」

「ラサラスと。ラナ」

 残酷な事だとは分かっていた。でも、ラナは、もう居ない。幻は、いつか消えてしまうのだ。手を離したとたんに消える、過去の幻影と同じように。

「いいえ。──陛下。ラナはもう居ません。私は、ラナの娘、スピカです」

 その言葉が部屋に響き渡った時、ガラス窓の向こうの夕日が地平線に沈んだ。顔を照らしていた赤い光が、消え去る。髪が元の金色に戻り、彼の瞳に映るラナは消え去る。それは、神が与えてくれた、ほんの一瞬の逢瀬だったのかもしれない。

「ラナ────」

 一気に泣き崩れるラサラス王を、あたしは思わず抱きしめていた。せめて──『ラナ』の代わりに、この小さな少年・・を慰めてあげたかった。



 王の涙が治まる頃、突然、扉が大きな音を立てたかと思うと、内側へと打ち破られる。

「な────!?」

 蹴破るようなその乱暴なやり方に驚いて、目を見開くと、そこには今度こそ赤い髪の男。体中を血と泥まみれになった彼は、あたしの胸に縋り付いている王を見て、その顔を強ばらせた。

「父上────」

 ふと見ると、その手には、血糊がつき、刃こぼれしたぼろぼろの剣が握りしめられている。今にも切りかかってきそうな彼にあたしは慌てる。だめ! こ、これは、なんていうか──誤解なのよ! そういうのじゃないの!

 あたしは慌ててラサラス王を離すと、立ち上がる。

「え、あの、ルティ、違うの!! これは────」

 彼を止めようとした直後、彼の陰から現れた黒い人影が、ルティの一歩前に出て彼を制する。それをみて、あたしは何を言おうと思っていたか、それどころか、ここがどこなのか、自分が誰なのか、それさえも忘れるところだった。


「う、そ」


「──なにが?」

 彼は怒りを滲ませた目であたしを睨みつける。頬は強ばり、眉間に深い皺が刻まれている。ここまで怒った顔の彼を見たのは、初めてだった。

 その迫力に、あたしは思わず一歩後ずさってしまう。

 それを見て、さらに彼の顔が険しくなる。

「スピカ」

 一歩距離を詰められ、あたしはまたもや一歩下がる。

「し、し、シリウス!? な、なんで、こ、こ、ここに居るの!?」

 状況がまるで理解できない。

 なんで、なんで? なんでシリウスが、アウストラリスに居るの? 今って、国交が閉じてるはずでしょう? 彼が閉じさせたんでしょう? 当の皇子が簡単に来れる訳が無いのに──。あたし、あまりに彼が恋しくて、幻を見てるのかもしれない。

 現実かどうか分からなくなって、落ち着こうとする。そして彼が本物かどうか確かめようと、彼をじっと見つめた。

 シリウスは、ルティと同じくらい血と泥にまみれていて、真っ黒なはずの長い髪は砂だらけで、色が白っぽく変わっている。まるで、砂漠を旅して来たような──

 そうやって言葉も無く見つめている間に、いつの間にか、彼が目の前まで歩いて来ていた。手の届くところに──シリウスが居た。埃にまみれた彼だったけれど、相変わらずその瞳だけは、何物にも染まらない闇の色をしていた。

「うそでしょ。だってそんなはず無いもの。──あなたはあたしを忘れたんだもの。じゃあ、これは……夢?」

 思わずそう呟いた時だった。

 ぱちん、と頬が鳴った。


 何が起こったか分からなかった。頬は確かに痛いのに──今度こそ、本気で夢だと思った。


 え?

 え?

 ええ?


 彼は呆然とするあたしを引き寄せ、なぜかあたしの耳たぶを引っ張って──直後、力一杯抱きしめる。かと思ったら、続けて唇を奪われた。痛いほどに頬を押し付けられ、言葉も呼吸も奪われる。

「ん────!?」

 静まり返る部屋の中、小さく「はぁ……」となんだか聞き覚えのある溜息が聞こえ、横目で見ると、たくさんの人の中に見知った顔があった。──イェッド!? じゃあ、やっぱり、これは本物の・・・シリウスなんだけど……でも!

 虫も殺せないような彼が、血にまみれてシトゥラに現れて、あたしを殴って、──そしてこんな大勢の人の前でキスしてる!

 今までの彼を思うと、あまりに有り得ないだらけで、やっぱり幻を見ているような気になった。

 もう、何がなんだか、訳が分からない。

 ふいに唇が離れ、我に返る。頬に落ちて来た雫に驚いて見上げると、──彼は泣いていた。

「──僕は、怒ってる」

 彼は涙を拭おうともせず、その濡れた黒い目であたしを食い入るように見つめ続ける。

「僕の気持ちが分からないんなら、いくらでも読めばいいよ。この二月──僕がどんな想いで」

 言葉を詰まらせると、彼は再び口づける。そして火のように熱い怒りを唇ごとあたしにぶつけた。

 ──君は僕が来ないって思い込んでたんだ? 僕が君を忘れる訳が無いっていうのに。僕は君が待っているって思って必死で──……ひどいよ。あんまりだ。ルキアも置いていって、シュルマを妃にしようとして……。一緒に頑張ろうと思った僕が馬鹿みたいだ。シュルマも勝手だって怒ってた。

「ご、ごめんなさ」

 唇の角度が変わるその隙間から謝ろうとしたけれど、すぐにまた言葉を奪われる。

 ──大体、君はいつもこんな目にあってばかりだ。なんで、もっと自分を大事にしてくれないんだ。ルティだけでなく、今度は王だって? ……いっそのこと、全員追い出して、このままベッドに連れて行こうか? そして、君が誰のものなのか、皆に思い知らせてやろうか?

 流れ込んで来た極端な思考にぎょっとして、もがく。でも、いくらもがいても、彼は気が済むまであたしを離すつもりはないようだった。

 やがて、ごつんと言う音とシリウス越しに軽い衝撃を感じたあと、突然腕が緩む。

「──このイロボケバカ皇子」

 しっとりした声がシリウスの肩越しに響き、ようやくあたしは解放された。え? 今なんて──? 有り得ない言葉に耳を疑った。声が上品だったから余計に。ねぇ、それって、皇子の前につけるような言葉?

 シリウスは頭をさすりながら迷惑そうに振り向いた。そして彼女を見て、なあんだと表情を少し緩ませる。

「あぁ……メイサだ、久しぶり」

 メイサはそれを聞いて、怒った顔でげんこつを構える。

「久しぶりじゃないわよ。何してたのよ、今まで。ああ、それから──もう! スピカを離しなさい! そんなどろどろの恰好で──体に障るじゃない。いい? スピカはね──」

 その言葉に、はっとする。見下ろすと彼の服に付いていた汚れがあたしの服にもしっかりと移っていた。その赤黒い血の色を意識したとたん、口の中が苦くなるのを感じた。どさくさで忘れていた体の不調を急激に思い出す。ああ、それに、今こういうのは……胎教に悪いんじゃ……。

 シリウスが怒った顔をあっさりと止め、心配そうにあたしの顔を覗き込む。あ、いま、ちかづいちゃ、だめ。──危険!

「スピカ? そう言えば、顔色悪……う、わ────!!」

 もう、何回目なんだろう。慌てて口をおさえたけれど、間に合わず……シリウスに謝る事がさらに一つ増えてしまった。


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