第13章 最後の壁(7)
「眠れないのですか」
イェッドの声が後ろからかかる。僕は窓の外を見つめたまま頷く。馬車の揺れに伴って、少しだけ欠けた白い月が目の端で揺れた。
「いざというときに動けませんよ。せめて横になられて下さい」
言われて大人しく横になってみる。
──あれから数日ろくに眠っていなかった。
馬車に揺られ続け、体の節々が痛む。少し熱を出しているかもしれない。乾いた喉がひたすらに水を求めた。
頭を掻くと、僅かに砂がこぼれ落ちる。窓は閉じていたけれど、隙間から入り込む砂埃は馬車の中にいつの間にか砂の山を作っていた。全身砂にまみれ、長い髪は所々束になって固まってしまっていた。水の無い砂漠の旅は僕の心も体も干涸びさせようとしていた。
僕たちはエラセドを逃げるように後にした。シトゥラへ向かう口実は『名代のルティリクス王子の到着が遅れているため、こちらから向かう』というもの。前々からの予定に、ムフリッドの訪問も入れていたので、強引にそれを通させてもらった。
実際僕はルティが戻る前に王城を発った。ルティが戻れば、シトゥラに向かう口実を失うからと、準備もせずに馬を借りて城を飛び出そうとしたけれど、王妃に止められた。馬よりも馬車を使えと提案されたのだ。この国では皆そうすると。夜中駆けるのが一番早いのだと。
確かに王妃の言う通りだった。体は辛いけれど、進みはエラセドへ来たときよりも随分早かった。しかし、進めども進めども、王に追いつく気配がなく、案内の従者に「あの山を越えればムフリッドでございます」と言われて、焦るばかりだった。
「これだけ追いつかないという事は、もしかしたら砂漠の道を行かれているかもしれません。地元の人間しか知らないような道があるのかもしれませんし……いつの間にか抜き去っている可能性だってあります」
イェッドの慰めも役に立たない。彼は甘い香りのする薬湯を差し出すけれど、僕は断る。煎じてもらう薬も昂りすぎた神経を休めてはくれないことが、ここ数日で分かっていたのだ。
それから、ルティともすれ違わないのが気になった。王妃に聞いたところ、彼は昔は王都との往復で主に馬を使っていたけれど、ここ二年ほどは馬車が増えたそうだ。だから途中ですれ違うかもしれないと言われたのだけれど……一体どういう事だろう。馬で砂漠の道を行ったのだろうか。
分からない事だらけで、気ばかりが焦った。
山の麓に差し掛かった時、右頬に暖かい光を感じた。目を開け、顔を上げると、山の陰から真っ赤な朝日が昇るところだった。──夜が明ける。おそらく、今日中に何もかもに決着がつく。だから──
目の端で朝日はどんどんその色を変える。焔色から、──金色へ。それが何かの予言であればいい。僕はひたすらにそう願った。
*
最初に異変に気が付いたのは、イェッドだった。
「──この音は」
そう言われて僕も耳に刺さる鋭い音に気が付く。この堅い音は──剣の音? 不穏な空気に僕は身を引き締め、馬車の隅に置いてあった弓を手にする。まさか使うとは思わなかった、──使う事があってはいけないと思っていたのだが、念のため持って来ていたのだ。引き慣れた弓、こればかりは現地調達というのは難しい。
弓を張り、矢をつがえる。腰にも剣を佩いていたけれど、こちらを使うのは、きっと、命のやり取りをするとき。出来れば使いたくなかった。
馬車が止まり、馭者が恐れを含んだ声で僕に告げる。
「シトゥラ家です。しかし──通れません」
窓から顔を出すと、高い塀に囲まれたシトゥラ家の門前で十数人の兵士が一人の男を取り囲んでいる。赤い夕日に全身を染めるその男は──
「ルティ」
掠れた声が出る。弓を持った手がじっとりと汗ばんだ。
ルティがここに居る。その理由にはすぐ思い当たった。彼は王子だ。情報網は多い。おそらく僕と同じ理由で慌ててシトゥラに戻った。そして、こうやって足止めを食っている。
世継ぎの王子がこんな目に遭うとしたら、それを命じるのはこの国ではもう一人しか居ない。今はルティと一人の女性を争っている人物。──僕は、まさか、間に合わなかったのか?
『通せ』
『なりませぬ。王命でございます。絶対に誰も通すなと。殿下には王都でお役目がございますでしょう』
ルティは胸元から書簡を取り出すと地面に投げ捨て、足で踏みつぶす。
『は、王都に戻る途中で受け取ってみれば──シリウスの相手をしろだと? ふざけるな。今まで来なかったあの腰抜けが、今さら来る訳がない。あの人は、こうやって俺の留守の隙をつくつもりなんだろうが、好きにさせてたまるか!』
ルティは、ひたすらに兵と剣を合わせる。随分長い間戦っているのだろう。地に倒れている兵士は既に十数人。彼の顔には明らかに重たい疲労が染み付いていた。
背後からの剣も簡単に避け、振り向き様に剣を持つ手を払うその剣筋は、レグルスによく似ていた。僕も学んだ──相手の覇気を削ぐ剣。彼があんな風に戦うのは見た事が無かった。
「……なぜだ?」
おかしい。大体、そのへんの兵など、ルティの敵ではないはずなのに。武術大会で彼がレグルスを一瞬で倒してしまった事を思い出し、違和感を覚え、──ふと彼が足を庇っている事に気が付く。
あれは──そうか、あの時の傷だ。スピカの手が使えない事を考えると、彼女以上に深かったあの傷が影響しない訳は無い。
そんな状態でも彼は、一人、二人、と兵を地に伏せさせ、歯を食いしばり、シトゥラの屋敷を睨む。
『通せ。──通せ! あの人には、これ以上何も奪わせない!』
「皇子……」
イェッドが、僕と護衛の二人とを順に見る。ミアーもループスも剣に手をかけたまま、指示を待っている。六つの目が僕に問いかける。──あなたは、どうされるのですか。
『ここは、どうか──お引きくださいませ!!』
叫び声に視線を戻すと、兵の剣がルティの剣とかち合い、周りの空気が割れた。直後、彼の持つ剣が天を切り裂くような鋭い音を立てて、折れる。欠けた刃が夕日を反射しながら空を飛ぶ。すかさず、後ろに構えていた兵の一人が雄叫びを上げながら、ルティに襲いかかる。
もし、ここで、彼が倒れれば──
ちら、とこの間見た悪夢が僕を襲う。躊躇いは一瞬だった。僕はぎりと弓を引き絞った。
少し離れたところには、僕が射た矢に地面に縫い止められ、呻いている兵が居た。出来るだけ傷付けたくなかったけれど、戦力は削がなければいけなかった。傷ついた兵の姿を胸に刻みながら、大きく息を吐く。
「なぜ、助けた。お前、俺を殺したいんだろう?」
背中でルティの声が聞こえる。さっき僕を見た彼は、酷く驚いた顔をした。本気で僕がここに来ないと思っていたらしい。そこまで腰抜けと思われていた自分がやっぱり悔しい。
僕は、振り返らずに答える。
「うん。でも、今は助けた方が得策だろうって」
「親父の事か?」
「まあ、それもある。僕がここを突破すると問題が多過ぎる」
「そういうことか」
僕には盾が必要だった。僕が王の侍従と一戦を交えるとなれば、両国ともただでは済まないから。名目が必要だ。それに、今は戦力は少しでも多い方がいい。
「──お前に助けられるくらいなら斬られた方がましだ。どうせ、あいつらも俺を殺ろうとは思ってない。足止めさせればいいんだから。殺りに来たら殺れるのに……だから面倒なんだ」
「せっかく助けたのになんだよ、それ。大体、それ以上傷を増やすと、戦えなくなるよ」
「は、これくらい、何でも無い」
「実は、馬に乗るのも辛いのに?」
「……」
そう言うと、弱みを知られたのが悔しかったのか、ルティはようやく黙った。僕は周りを見回す。──門前にはあと五人。両脇に五人。イェッドを除くと、こちらは四人。
門を睨む。今は、前さえ突破できればいい。剣を中段に構え、じりと一歩足を踏み出すと、兵達も同じく剣を構え直す。その刀身が夕日にぎらりと光る。彼らを睨みつけたまま、背中の男に声をかけた。
「ほら、早くやってしまおう。──スピカを助けないと」
「ああ、そうだな」
僕は笑う。そしてしっかりと言い切った。
「言っとくけど、さっきの借りはしっかり返してもらうから」
「それとこれは話が別。スピカを返して欲しいなら、いっそ、ここで殺れ。今くらいしか、お前が俺をやれるチャンスは無いんだからな」
「……」
どこまで本気か分からない挑発には乗らず、僕は肩をすくめ小さく息をつく。そしてミアーとループスをちらと見ると、彼らは不敵な笑みを浮かべて頷いた。剣を構え直すと、深呼吸した。──ルティとの決着は、スピカを助けてから。
「皇子! 後ろはお任せください」
その声と同時に、僕は駆け出す。
「──突破する!」